先日Twitterに流れてきた「書き言葉に慣れすぎると日常会話が難しくなる」的なお話がとても「わかる!」だったので、何か書こうと思ったのだけど、この手の話はすでにいくつもblogに書いているので、ちょっと読み返しただけで「もういいか」という気にもなってしまった。おんなじ話を蒸し返すかぁ、と自分で思ってしまったのだな。

まぁでも、振り返りつつ今の言葉で書こう。
最近「もういいか」ばかりで、頭も使わなければちゃんと文章にすることもおろそかにしているから。

このテーマで書いた記事でまず思い出すのは

「書き言葉」で「個的」になれない (2008/12/27)
「書き言葉」は「内省言語」 (2008/12/28)

の2つ。
もう10年以上も前に書いたものなんだな。つい最近書いたような気がしていた。ってゆーか、年の瀬も押し詰まった頃に2日続けてこんなblog書いてるのすごいな、俺。

ここで使った「個的」という言葉はちょっと的確ではなかったかもしれない。まったく逆の意味に取られる可能性がある。
だからその次の日に「内省言語」という言葉を使って補足しているわけだけれども、要するに「特定の個人を相手にした会話で書き言葉を使うのが難しい」という話である。

冒頭の、「書き言葉に慣れすぎると日常会話が」というのは、「人と話す」のが難しいという話
だった。多くの人は、話し言葉で会話している。いや、だから「話し言葉」って言うんだけれども、話し言葉にはその場の文脈、表情、声のトーン他「ことば」以外の色々な要素が加味されるのはもちろん、特定の個人を「聞き手」とするがゆえの「距離感」、つまりは「敬語」の要素が大きな比重を持ってくる。

というか、ずばり「書き言葉」と「話し言葉」の違いはこの、「距離感」が必要かどうか、というところなのである。

blogだとかエッセイだとか、論文もそうだけれども、不特定多数に読まれるものは、基本、相手との親しさや上下関係を考えなくていい。

一方、話し言葉は特定の相手と直接言葉をやりとりするものなので、その相手との関係性によって言葉を使い分けなければならない。いわゆる「敬語」問題だけれども、1人称に「私」を使うか「俺」を使うか、相手のことを何と呼ぶか、そこから考えなきゃならない。

(さっき、何段落か前に「すごいな、俺」と書いたけれども、ここで「私」と言わずに「俺」を選択することで、私は何らかのニュアンスを表現したがっているわけだ)

で、実際に直接人と会話するのが疲れるのはもちろん、「特定の人」相手に書き言葉を使うのも難しい。手紙とかメールとかSNSでのリプとか、どういう文体で、どこまでのことを書くのか、ものすごく悩む。

実際には相手はそこまで敏感に(あるいは懇切に)文言を読み込まないのかもしれないが、なにせ普段「文章を書く」=「不特定多数に向けて、なるだけ普遍的に書く」(あるいは「独り言を書く)ばかりやっていると、「個別に言葉を交わす」がわからなくなるのだな。

引きこもり乙!

で、「聞き手との人間関係」をあまり考慮しなくていいはずの書き言葉、それもジャーナリズムの言葉でさえも、「日本語である以上、事実を人間関係から切り離して客観的には語れない」という話が出てきたのが2017年の記事。

日本語と人間関係 (2017/02/07)

この記事で紹介した『日本語とジャーナリズム』(※リンクはAmazon)という本、未だ読んでない^^;

誰が誰に伝えるか、という枠組みによって表現が変わる。どんな読者を想定するかによってジャーナリズムの言葉が変わるのは、言われてみれば当然のことかもしれない。購読者や視聴者は「お客さん」でもあるわけで、こんな個人blogの読み手とは「不特定多数」の意味が違うだろう。

(それに、言葉そのものが特定の社会における人々の取り決めで成り立っている以上、事実を事実のまま、完全に客観的に記述できるわけではないという話もあるし、そもそも何を“事実”として取り上げるか、ということからしてそこには伝え手の主観が入る。これは日本語に限ったことではない)

かつて日本では公的文書に漢文を使っていた。だから、和歌や物語じゃない、「論旨を通す文章」を書くのに慈円さんが苦労したという話や、明治時代に言文一致体を作る時に「誰が誰に話しているのか」が大問題になった、というのも上記「日本語と人間関係」の中で言及している。

トランプ政権の誕生によってアメリカでも「ジャーナリズムが共同性に縛られる」ということが起きて云々、という話も出てきているのだけど、他の言語ではそんなにも「聞き手との関係性」を意識しないですむんだろうか?

橋本治さんの小説『雨の温州蜜柑姫』(※リンクは別サイトに書いた記事)の中で、ヒロイン醒井涼子さんが「英語話者になることによって人が変わったように解放される」という描写があったけれども。

涼子さんのことは

言葉という縛り (2007/12/07)

でも言及している。これも12月の記事だ。12月には言葉のことを考えたくなるのかな。

日英バイリンガルの人が「日本語に切り替えると脳で処理することが増える」という話を、少し前にTwitterで見かけた。日本語だと、人間関係によって--誰に話すかによって、人称や文体を選択しなくてはならない。発話時には常に人間関係を意識させられる

だから疲れるんだよな……。
むしろ全然知らない人(たまたま新幹線で隣に座った人とか)と話す方が楽、みたいな。知らない人(そしてその後も知らないままであろう人)には“書き言葉的普遍モード・です&ます体”で話せばいいから。

顔見知りだが別に親しくない、という相手が一番難しい、という話は

距離感と言葉遣い (2007/03/03)

にも書いた。この記事の、「大阪弁=親しい人用」「標準語=親しくない人、敬語用」という棲み分けは未だ私の中で健在だけれども、親しい人が「非関西語圏」の人の場合、必ずしも大阪弁にはならない。

これは以前、息子氏に「やめて!その喋り方気持ち悪い!やめて!!!」と指摘されて気づいた。
東海圏出身の仲の良いお友達と一緒に遊びに行った際、私の言葉がまだ小学生の息子氏にとって許しがたいほど「非関西語」だったらしい。

「らしい」というのは、言われるまで自分ではモードを切り替えているつもりが全然なかったからだ。もしかしたら息子氏に対しても標準語っぽく話しかけていたのかもしれないが、もう10年くらい前の話だし、録音テープがあるわけでもないのではっきりしたことは言えない。

でも、ねぇ? 親しいからって相手が東京の人とか青森の人とかだったらコテコテの大阪弁では喋りかけないんじゃないの? 「共通言語」としてお互いに理解可能な標準語を使うのでは……。

(もちろん、「標準語」と言ったってNHKアナウンサーのように喋れるわけもなく、よその地方の人が聞けばイントネーションその他関西訛りなんだろうけど、小学生男子をして「キモッ!」と言わしめるぐらいには「非関西弁」だったのだ)

方言といえば、中学の時、関東からの転校生が二人称に「君」を使っていて、担任の教師に「偉そうだからやめろ」と言われていた。「君ねぇ」とか「君さぁ」とか、たぶん二人称以外にも全体的に「関西人からすると馬鹿にされてるように聞こえる」感じだったんだろうけど、そんなこと言われても困るよね。その子にとってはそれが普通モードで、関西弁喋れないんだし。

私も息子氏に「気持ち悪い!やめて!」って言われても、とっさに対応できなかったからなぁ。


と、ここまでごちゃごちゃ書いてきたけれども、「日本語を話す時には距離感を考えなければいけない」という話は、とっくの昔に橋本さんが美しくまとめてくださっているのであった。

『ちゃんと話すための敬語の本』/橋本治 (2007/03/02)

昔の記事なので紹介はあっさりしたもんだが、この本は本当に素晴らしい。主に中学生向けの新書でページ数も少なくすぐ読めるので、ぜひとも手に取ってみてほしい。

“敬語というのは、「人と人とのあいだにある距離」を前提にして使われる言葉なのです。” (P25)

今、久しぶりにページを繰ってみたけど、本当になんというどんぴしゃりな本であろうか。もちろん「敬語の歴史」的なことも書いてあるし、

なぜ関西弁では相手のことを「われぇ!」と言うのか

がわかったりもする。

「相手によってどう言っていいかわからない」という日本語の欠点は、じつは、「人それぞれに違うから、違う相手にはどう接すればいいのかを考えなさい」ということでもあるのです。” (P102)

“「日本語はめんどうだから嫌いだ」と言う前に、「自分はまだ日本語の表現力の豊かさがわからないんだ」と思わなければなりません。” (P103)

橋本さんはあとがきで、『ちゃんと敬語を話すための本』の読者との「距離」についても書いてくださっている。十代のはじめという年頃を読者として設定して、彼らに自分の言葉がどれほど届くだろうと考え、その「距離の遠さ」に合わせて「です」「ます」という丁寧語を使い、さらには尊敬の表現さえ使うのだと。

書き手と読み手との間には、それほどの「距離」がある。

あれ…? 前半で「書き言葉は相手との距離を考えなくていいから楽」とか言ってなかったか、俺。

「だ」「である」で書いてしまったこの記事はつまり、ただの独り言だな--。