先日、内田樹先生のblogに『大統領が就任したときの日本人』という記事がupされていました。
“アメリカの外交戦略の「コンテンツ」よりも、それを差し出す「マナー」の方に日本人は関心がある。
という部分にすごくなるほどと思ったんですよね。このblog記事の文章は『日本辺境論』に収録されているものだそうなので、すでに私は一度読んでいるはずなのですが、もちろん覚えてませんでした(^^;)
“相手との関係の中で、相手に好かれるか嫌われるか、尊敬されるか軽蔑されるか、そのことが最初に意識される。相手が自分をどう思おうと、「私は言いたいことを言う」ということがない。”
という指摘など、本当にそうだよなぁと思うのですが、考えてみれば日本語そのものがもうそれを前提としていますよね。「敬語」のみならず、一人称に何を使うか、二人称に何を使うか、文末をどうするか。くだけた言い方、かしこまった言い方、相手との関係性の中で言葉が選ばれる。

ちょうど毎日新聞紙上で『日本語とジャーナリズム』の著者武田徹さんのインタビューを読んだばかりで、そこにも同じようなことが書かれていたんです。
“日本語による発言の背景には常に「誰に向かって誰が話しているか」という人間関係が入り込んでしまう” 
“あくまで言語としての日本語の特質から考えてのことだが、事実を人間関係から切り離して客観的には語れない”


この『日本語とジャーナリズム』、図書館に入ったらぜひ借りて読もうと思ってるんですが(買わなくてごめんなさい)、ジャーナリズムの文章でさえ人間関係を離れた“客観的な”記述ができないって、すごいですね、日本語。

以前『書き言葉で個的になれない』『書き言葉は内省言語』という記事で書いたように、私にとって「書き言葉」は「不特定多数に向けて発する言葉」「人間関係を排した、言ってみれば独り言の言葉」で、話し言葉と違って相手のことを考えなくていいから楽、と思っていたんですよね。うん、今でも思ってる。少なくとも話し言葉と書き言葉では書き言葉の方がずっと「人間関係」が希薄。

『書き言葉で個的になれない』の「個的」という表現が合っていたのかどうか、ということには少々ひっかかりますけども。「内省」や「独り言」の方が「個的」=「個人的」な感じがしますもんねぇ。

言いたかったのは「プライベートかパブリックか」ということに近くて、それだと「私的になれない」の方が良かったかなとも思いますが、「内省」や「独り言」も自分自身の中で完結してるという意味では「私的」な気がするし……。

発話相手に「特定の個人」を設定する、というその「個」的だったんだろうな、あれ書いた時の私の意識。

それはともかく、現在の書き言葉――言文一致体が誕生する時にも「誰に向かって発言するか」ということがネックになった、と橋本治さんの『失われた近代を求めてⅠ』にありました。
“書き言葉は、手紙でもなければ具体的な相手を想定しない。一方、話し言葉は常に「話しかける相手」を想定している。(中略)「―ですよね」と「-だよね」は同じ相手に使われるものではないはずだ。だから、言文一致体の創出では「語尾の敬語の有無」が問題になる。”
私もblog書く時に語尾を「です・ます」にするか「だ・である」にするかいつも悩みます。最初は読み手を意識して「です・ます」使ってるのに、だんだん「ああかなこうかな」と自分だけの議論に熱中してくると「だ・である」になったりする。

と、上の段落だけでもう両方が混在してるんですけども。

昔、日本では公的な文書は全部漢文で、和語は和歌とか物語とか、プライベートなものにしか使われず、仮名は「女こどものもの」だったりもしたわけで、日本語の言葉(和語)が人間関係抜きに使えないものなら、公式の記録文書を漢文にしていたのはすごく正しい判断だったような。

というか、「パブリックなのは漢文でいーや」だったから本来の日本語で論理的な文章を書くということが鍛えられなかったという側面もあるのでしょうか。別に日本語で論理的な文章が書けないとは思わないけど、「です・ます」を付けるか付けないか、一人称に「私」を使うか「ぼく」を使うか(そういえば内田センセは「ぼく」ですね)、いちいち気を遣わなきゃいけないのは確か。

『失われた近代を求めてⅠ』には「鎌倉時代の言文一致」を扱った部分もあって、「愚管抄」の作者慈円さんが「漢文と和文の融合による“明確に論旨を通すための日本語”」を作ろうと苦労したことが綴られています。

つまり慈円さん以前には“明確に論旨を通せる日本語”がなかったと。

ひゅううう。慈円さんありがとう。

 

SNSが流行って、「文字」でのコミュニケーションが増えたけど、SNSでの「文字」は書き言葉であるよりも話し言葉の側面が強くて、日本語はさらに「人間関係抜きでは使えない」言葉になっていくのかもしれない。

書き言葉でさえ「事実を人間関係から切り離して語れない」と武田さんのインタビューにあるけど、「話し言葉を文字にしたもの」にしか接していないと、がんばって客観的に書いたジャーナリズムの文章にも過剰に人間関係を読んでしまうし、「大手メディアは上から目線」「正論だけど言い方がぁー」という反応がやたらに出てくることになるのかも。

で、これが「人間関係抜きで発話できない日本語」圏のみならず、トランプ政権誕生のアメリカでも起きて、「世界のジャーナリズムが共同性に縛られていくように見える」っていうのが面白いというか、「じゃあやっぱり他の言語にも人間関係は紛れ込んでいるものなんじゃ?」と思ったり。

そのうち世界中の外交が「コンテンツよりマナーだ!」になっていったりするのかしら。

 

……すいません、オチはないです。
ただ、「書き言葉で個的になれない」ひきこもりヲタの私としては、せめて書き言葉くらいは人間関係から距離を置いたものであってほしいなぁ、と思うのでした。