『世界の言語入門』の最後に紹介されていた『はじめての言語学』、早速手に取ってみました。
こちらも新書で読みやすく、すぐ読み終わったんですが、読み終わったあと放置してしまってすでに中身の記憶が……新しいことをインプットするのが難しい脳味噌になってきました。ああ、右から左へ抜けて行く。

タイトル通り言語学の入門書、入り口でたたずんでいる人に「ちょっとこっち来て覗いてごらんよ」と中を見学させてくれる感じの本です。
『はじめに』の部分に

残念ながら日本の高校までの教育プログラムに、言語学という科目はない。その代わりにこの本を読んでくれる高校生がいたら、なによりも嬉しい。 (P6)

と書いてあり、ことばに興味はあるけど、「言語学」って言われるとどういうことを研究するのかよくわからないな、と思っている人向け。「ことばについて考えるの好きだけど、でも“文学部”に行くと源氏物語とかそういうのやらされるんでしょ?」「どういう学部へ行けばいいのかな」と進路に迷っている学生さんに特におすすめです。

私も「ことばについて考える」の好きだったけど、「国文学科」とか絶対違う、と思っていた口です(笑)。
結果的に言語学系の学科に進んだのですが、当時「言語学」がどういうものか知っていたわけではなく。

この本を読んで、一番最初の「言語学概論」みたいな講義を思い出しました。
「二重分節性とか恣意性とか、あったあった、ああああ、ソシュールぅぅぅ!」とン十年前の記憶がかすかに蘇る。

まず第1章「言語学をはじめる前に」

言語は道具ではありません。似ていないことが多すぎる。まず簡単には手に入らない。金を積んでもダメである。でも、いちど手に入れると失うことはあまりない。その使い方はずっと多様だ。そして目には見えない。 (P38)

この文章の前に、「最近の日本語は乱れている」と怒る人の話とか、日本語能力検定試験の話とかが出てくるんですが、そのどちらも「言語学」とは関係がなくて(言語学は「言葉の使い方の正しさ」を押しつけるようなものではないからです)、まったく興味がない、と黒田先生はおっしゃるんですが。

ただ一つ、「言語道具論」にだけは反論しておきたい、ということで上記の文章に繋がります。

昔むかし、言語学概論の最初の講義で、「言語って何だと思いますか?」と問いかけられて、私たち学生は「コミュニケーションの道具」とか「思考の道具」とかって答えていたんですよね。その時の「正解」が何だったのか、そもそも「正解」があったのかも覚えてないんですけど、この黒田先生の「言語は道具ではありません」にはハッとさせられました。

第1章ではさらに

言語学では「話しことば」のほうを重視している。 (P40)
言語は音が基本である。 (P40)

という話も。
そうなんですよねぇ。母音とか子音、アクセントに声調、摩擦音破裂音歯擦音etc.……脳がテキストに最適化されている私には高すぎる壁でした。
文字を研究する学問はもちろんあるし、「世界の文字」を見るのも楽しいけど(→『究極の文字を求めて』)、それは言語学とはちょっと違うんですよね。

で、第2章『言語学の考え方』で先ほどの二重分節性とか恣意性とかいう用語が出て来て、「この章で取り上げたことのほとんどはソシュールという人の考え」とソシュールの名が紹介されます。

さっきの、「言語は道具ではない」という話の“答え”、じゃあ言語は何かというと、

言語は記号の体系である。 (P55)
体系とは、一つ一つの要素が役割分担をしながら、全体としてまとまった働きをすること。 (P62)

つまりどういうことだってばよ?と思った方はこの本をどうぞ読んでくださいね。

第2章で面白かったのは、「イヌイットの言語には雪を表す語が多いという話は眉唾」って部分。
言語はそれを使う集団の生活文化に深く根ざしているので、たとえば日本語ではイネ→米→ご飯と同じものを状態によって(あるいは用途によって)別の語彙で指し示します。
英語だと雌牛と雄牛、口髭と顎髭で単語が違うとかですね。
日本語だと「兄」か「弟」か、年上なのか年下なのかが社会的に重要なので、単に「brother」と紹介されると「お兄ちゃん?それとも弟?」と気になってしまいますが、英語では長幼を区別しない、文化の違いだ!みたいなやつ。

イヌイットにとって雪や氷の状態は生活していく上で非常に重要なので、呼び名も細かく分かれているのだ、とまことしやかに言われていた(私も言語学に頭を突っ込んだ頃に聞いた)のですが、

よく調べてみると、イヌイット語で雪を表わす語の数は、英語とたいして変わらないというのだ。 (P78)

だそうで。
あれれ、そうなの?

言語学者といえども世界中すべての言語に通じてるわけではないので、時には「○○らしいよ」という話に尾ひれがついて間違ったことが流布してしまうこともあるというお話ですが、ともあれある言語におけるある分野の分類(語彙)が細かかろうと大雑把だろうと、

「X語では語彙が少ないから宇宙工学の話は理解できない」ということはない。 (P79)
人間の言語というのは、どの言語でも本当にいろいろなことが表現できるのだ。 (P79)

言語に優劣はない、という話は繰り返し出てくることで、「未開地域の言語は簡単なことしか言えない」とか「日本語は欧米の言語に比べて論理的じゃない」というような言説は全部間違っている、と第6章『言語学の使い方』にあります。

いきなり6章まで行ってしまいましたが、話を戻して第3章『言語学の聴き方』。『世界の言語入門』で紹介されていたコサ語がまた出てきます。

初めのuが高いか低いかで「あなた」か「彼/彼女」かという文法に関係するところまで示しているのである。 (P118)

なんと難易度の高い……。
でもその代わり、コサ語では区別しなくてもいい音を日本語では区別しているのかもしれず、何を「難しい」というかはそれこそ「難しい」わけですが。

なによりも大切なのは、音韻という考え方である。意味の違いに関わってくる音は、言語ごとに決まっている。 (P120)

第4章『言語学の捉え方』では文法のお話。ここでも

もちろん、変な言語などない。判断の仕方が変なのだ。 (P135)

と言語に優劣はない、ということが強調されます。
そして、「屈折語」とか「膠着語」といった文法による分類に触れ、

こうやってまとめることの悪い点は、どの言語もこのうちのどれかに属するのだという誤解が生じることだ。実際にはこういった要素がいろいろと混ざっている言語が多いし、そもそもこの分類法自体が目安にすぎないと思う。簡単な基準だけで世界中の言語を分類しようというのが、そもそも無理なのである。 (P143)

とおっしゃっています。
分類したり系統図を描いたりするとなんとなく「学問」らしく見えるけれど、言語はそうそう単純なものじゃないよ、というのは第5章『言語学の分け方』にも続きます。

そもそも地球上に言語はいくつあるか。
その答えは「不明」です。言語を数えるのはとても難しい。国の数と言語の数はもちろん一致しませんし、互いに近しい言語を「BはAの方言」と考えるのか、それとも別の言語とカウントするのか、そこは極めて政治的な問題なんですよね。

たとえばもし関西が独立国になって、ニュースも新聞も関西弁を使うってことになったら、関西弁は日本語とは別の言語としてカウントされるかもしれません(関西言語の“標準”を京都にするのか大阪にするのか神戸にするのか、めちゃめちゃ揉めそうではあります)。

国ごとに言語が違うのではない。国境線を越えたら別の言語などという単純な問題ではないのだ。だから《母国語》なんていう表現もおかしい。母国がどこかということと言語は関係ない。 (P172)

言語に名称を与えるのは政治と歴史であり、言語学では判断できない。 (P177)

あと、みんな大好き(?)日本語のルーツについて。

日本語の起源は残念ながらわからない。わかっているのは、沖縄の言語とは関係があるというだけだ。これが答えである。すべてが解明できるわけではないし、それをきちんと認めるのも科学のはずだ。わからないことをわかったという人のことを嘘つきという。 (P197)

ふふっ。
黒田先生のこういうところ、好き。

第6章『言語学の使い方』のところに「お金儲けは難しい」という節があるのも。

科目である。右から左へ金が儲かるはずない。「学校で習った科目は役に立たない」というが当たり前である。科目という基礎知識を応用して、初めて新しいアイディアが生まれるのだ。その基礎だけで生きていけるのだったら苦労はない。 (P232)