現在恐山の院代を務めていらっしゃる禅僧の書かれた本。
直哉は「なおや」ではなく「じきさい」と読むらしい。
新聞に書評が出ていたので、図書館で借りてみた。

タイトル通り、「死ぬとは何か、ぼくとは誰か」という問いを抱えた少年と老師との七夜にわたる問答。
実際には、問答は「前夜」から始まっているので「八夜」。そして、「あとがき(あるいは解説)」のような「後夜」がついている。

少ない頁数で、文字数も多くないので、あっという間に読める。なんというか、とっても「わかりやすく」書かれているな、と思った。
それは、「ぼくとは誰か」という質問に対する答えが「わかりやすい」のではなくて、説明の仕方というか、話の組み立て方が、「わかりやすく」デフォルメされている感じ。

“少年”の問いが私にとってあまりにも慣れ親しんだものだから、そう感じるのかもしれない。
なんだかくすぐったいような気さえした。
いつの間にか、私は“老師”になっちゃってるな、と思った。

質問に、“答え”はない。
だから、“答え”が欲しい人は、この本を読んでもすっきりしないだろう。まぁ何しろ禅問答というのは、「当事者以外には何を言っているのかわからない問答」と国語辞典に書かれてしまうようなものではある。

「もうこういうことはわかっちゃったな」と思う私には、老師の世話をしていた少女が少年にちょっとした後日談を語る「後夜」は蛇足でしかないと思うのだけど、きっと著者としては“親切”のつもりで書いたんだろう。
そもそも“少女”の存在自体が、“親切”だ。
「自分以外にも人間がいる」という意味で、老師のところに少女がいるのはいいけれども、しゃべんなくていいな、と思う。

そういう“親切”をしても、わからない人にはわからないだろう。
そして少年のような問いを抱えた人間には、よけいな説明よりも、「同じようにそれを“問うている”人がいるのだ」というだけで、慰めになると思う。
少年が「前夜」で嘆いているように、まるで他の人は全然そんなこと考えてないように見えるし、そういうことを考えていることが知れると、「変わってる」「暗い」と言われたり、「そんなこと考えなくていいから勉強しなさい」なんて言われたりする。

「ぼくだけじゃないんだ」「考えてもいいんだ」と思えれば、少しは慰められる。
もちろん、慰められるだけのことで、その先に“正解”とか“ゴール”があって、救われたり報われたりするわけではない。

だって、答えなんかないんだから。
それを引き受けて、それでも、生きていくのだ。

この本の中で、私が一番慰められたのは、「そういうことを考えるのは、苦労がないからだ。飢えや病気で苦しむ人に比べれば贅沢な悩みだ」という少年の父の言葉に対して、老師の言う言葉。
「生きていくことの苦しさと、生きていることの苦しみは違うのだ」

その部分で引け目を感じることはないんだな、と思って嬉しかった。