以前、宝塚の『黒蜥蜴』を見た時に、「最後まで嘘を生ききる黒蜥蜴が見たい」「(黒蜥蜴は)明智を愛してしまった自分を許せないから死ぬ(べきだ)」と書いた。

映画の黒蜥蜴は、もちろんと言うべきか、その通りの設定である。明智を殺そうとする時(実際には明智と入れ替わらされた松吉が殺されるのだが)、黒蜥蜴はちゃんと「好きだから殺すの!」と言っている。
あなたに心を奪われた自分が許せない。このままあなたを生かしておいたら、私は私でなくなってしまうかもしれない。
だから殺すの、と。

最後に黒蜥蜴は毒を飲んで死ぬが、その時も「捕まったから死ぬんじゃないのよ」と言っている。
松吉と入れ替わっていた明智に、そうとは知らずに明智への自分の思いを聞かれてしまっていたから、その恥辱に耐えられずに彼女は死ぬのである。
明智が「ぼくも君を…」と言いかけるのを制して、「あなたの心は知らずにおきたい」と言う黒蜥蜴。
愛されるかどうかは問題ではない。
愛してしまったことだけが問題なのだ。

いいよね〜、黒蜥蜴って絶対そういうキャラだよね〜。

強烈な自負心と美意識。
そして無邪気さ。
追われる身でありながら、追っ手が現れると「明智!?」と手をたたいて喜ぶシーン。あの無邪気な表情がたまらない。

なんで美輪さんの黒蜥蜴が絶品なのかと言ったら、そのまんま美輪さんのキャラクターだからでしょう、と思ってしまう。
『黒蜥蜴』の世界観というのは徹底的に虚構で、明智の探偵の仕方にもリアリティなんかないし(そんなそっくりな替え玉がいるわけないじゃん、って思うし、松吉の衣装を脱いだらちゃんとスーツ着てる、っていうのも無茶だ)、人間の剥製を造っている黒蜥蜴は狂気の沙汰。
そんな奴本当にいるかよ、って人物。

でも徹底的に虚構だからこそ描ける何某か、というものがあって、地味にちまちま生きるしかない私達には、あの自負と美意識、そして無茶な生き様はある意味憧れでもある。
(正直私、あーゆー無茶な人大好きです)
本物の女性が演じたら、そこには変なリアルが混ざることになって、どこかいやらしいものになってしまうと思う。

これは映画だから、新幹線やら船やら、景色も「リアル」だ。リアルな背景の中で、美輪さんの演技はとても舞台的だと思うが、やはりこの話は、「同一の空間が複数の時空を表現し、作り物の背景の中で演じられる」舞台での上演がもっともふさわしいと思う。

美輪さんは、男だけど女、という在り方そのものが虚構で、だから無茶な黒蜥蜴を演じてもいやらしくなくいられるのではないだろうか。
宝塚の男役と同じ理屈ですね。
『ベルばら』の中で、モンゼット夫人がオスカルに向かって、「男だか女だか知らないけれど、その目で見つめられると私たまらないの」というようなことを言うけれども、まさしく美輪さんもそれだと思う。

女のように美しい、というのでは全然ない。
ただのきれいな男、というのとは凄味が全然違う。
男だとか女だとか、そーゆー次元は超越して、とにかく美輪明宏として美しいのである。

いや〜、ホントによくまぁこーゆー人がこの世に生を享けるよなぁ。もし次にこーゆー人が出てきたら「美輪明宏以来の美少年」と言われるのかなぁ。私的にはそれはGacktさんか?(笑) 是非一度共演してほしいものだけど。

ちなみに玉三郎さんも黒蜥蜴を舞台で演じたことがあるそうだ。美輪さんとはまたまったく違った「男でも女でもない究極の美」、玉三郎さんの黒蜥蜴。それも是非見てみたい。

リアリティなんかくそくらえ!
と常々思っている私には楽しい映画でしたが、“無茶な世界観”に慣れていない人には唖然とするばかりの作品かもしれませんね。



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