『ローマ人の物語』、文庫で出ている31巻までをとうとう読了してしまったので、塩野さんの他の著作を買いあさり始めました。
手始めはエッセイ『男たちへ』。「フツウの男をフツウでない男にするための54章」という副題がついています。

男女の機微に関する諸々が、塩野さんのあの明晰な文章で痛快に語られます。一つ一つの分量が短いせいもあって読みやすく、かつ楽しく、どんどんと読み進んでしまいます。

まぁでも、これを読んだからって、日本のフツウの男はフツウではなくならないだろうという感じがいたします。
このエッセイが書かれたのはもう20年以上も前で、既にして日本の男達は軟弱になりかかっていました。そして塩野さんは、既に長くイタリアで暮らしていたのです。
男前なラテン男、そしてヨーロッパの本物の貴族達を見て過ごしている人の「いい男論」ですから、フツウの日本の男に太刀打ちできるはずがありません。
まったく、これを読んでいると塩野さんの旦那様はどんな素敵な男の人なのだろうと想像をたくましくしてしまいます。

そしてまた、塩野さん自身が非常に「いい女」である、ということがよくわかる。頭脳明晰で高い審美眼と矜持を持つ、実にキュートでセクシーな大人の女性。こういう人も、フツウの日本の女には歯が立ちません。

この文章が書かれた時、塩野さんは50歳前後。
塩野さんて、うちの父と一つしか違わないのですね。
あの年代で、「東大進学率ナンバーワン」の都立高に進学して、学習院大卒、なわけですから、本人の頭の出来が良かったのはもちろん、生まれもお育ちも相当に良かったのでしょう。
だってうちの父は高卒、それも家計を助けるため働きながらの定時制。
塩野さんより5つ年下になる母は中卒。当然その後は働いています。
男だって、そうそう大学に行ける時代じゃなかったんですよ。いくら頭が良くたって、先立つものがなければ進学なんかできないんですから。

全編に、ハイソな香りが漂っています。
ハイソサエティ。
こんな言葉も、日本ではもはや死語でしょうか。
塩野さんはイタリアの首相ともお話になりますし、ルキーノ・ヴィスコンティとも親しくお付き合いなさります。
「住む世界が違うとはこーゆーことか?」というようなものです。

しかし、そうであっても――いや、そうだからこそ、非常に楽しい。エスプリとかウィットとか、そーゆー真の大人の愉しみが味わえます。
なんか、憧れるよね〜。イブニングドレスでオペラや夜会に出かけ、頭が良くて素敵な人達と芸術や哲学について語り合うんですよ。夫や姑の悪口とか、子どもへの不満といった、卑俗な話題ではなく。
「サロン」というのですか?
実際にそんなとこに入ったら、お育ちの悪い私はおどおどしているしかできないでしょうけれども。

「頭の良い男について」「女の性(さが)について」「男の色気について」「インテリ男はなぜセクシーでないか」……。
塩野さんの鋭い指摘を読みつつ、私ならどう書くだろう、と「いい男論」を頭の中で考えてしまったりして。
う〜ん、こんなに明晰に書けるほど、私の「いい男」は輪郭がくっきりしていないなぁ。男に関する経験知が全然足りないと思うし(笑)。

塩野さんが、
「私自身が、自分に最も強く要求しているものが“スタイル”だ」
と仰っている個所があります。
「スタイル」。生き方、信念といったもの。

今さら生まれや育ちを変えることはできないし、深い教養だの高い審美眼についてもまったく自信はないのだけど。
「自分のスタイル」を持った人間ではいたいな、と思います。