『百億の昼と千億の夜』完全版(萩尾望都)をAmazonで購入

『ニーベルンゲンの歌』を読むのはあんなに時間がかかったのに、マンガはなんてさっさと読めるのかしら(笑)。

はい、萩尾望都さん版『百億の昼と千億の夜』でございます。

このところ新しい本を読む気があまり起こらなくて、昔読んだ本を読み返してみようかと思っていて、その第1弾として光瀬龍さん版の『百億の昼と千億の夜』をひもとく予定だったのですね。

そしたら図書館でコミックの方を見つけちゃって、ついついお借り上げ。

光瀬龍さんの原作を萩尾望都さんが1977年にコミック化したもの。

1977年!

32年も前だよ。ってことは、光瀬さんの原作はもっと前に出てるってことだよね。

昔の作家さんは小説家にしてもマンガ家にしてもスケールが違うな、と思ってしまいます。

光瀬さんの原作は高校の時読んで、マンガがあるのも知ってたけど読むには至らず。

いやぁ、マンガだから、わかりやすいというか、すっと頭に入ってくるよね、やっぱり。原作は「なんだかよくわかんないけど、でもすごい!」って感じだったけど、コミックは「その情景を頭の中で思い浮かべる」作業がいらない分、物語の流れをスムーズに追うことができる。

もちろん、萩尾さんがそのように「描いて」くれてるところも大きいんだろうな。

やっぱり小説とマンガの語り口は違って、マンガとして「語り直す」時には構成なんかも変わってきて、光瀬さんの原作とはまた違う、萩尾さん版の『百億の昼と千億の夜』になっているんだろうと思う。

マンガだから、小学4年生の息子でも読めるもん。

「どーゆーお話?」って言ってひったくって、そのまま「面白い」って言って読んでるもんね。

まぁ、どこまで理解してるかはわかんないけど、もし理解してたらその後の人生に影響が大きすぎるような(笑)。

だってこれ、「世界に意味はない」みたいな話だよ。

アトランティス滅亡、シッタータに阿修羅王、イエス・キリストにユダ。

「神」とは銀河系をコントロールする「高次」の意識体であり、地球人類はただの実験動物にすぎない。

「土着の神」や「悪魔」といった伝承は、人類の生殺与奪をほしいままにする「神」へ反旗をひるがえしたものたちを写している。

祈りは何になるか。

戦って何になるか。

生きる意味はどこにあるのか。

光瀬さんにしても萩尾さんにしても、こーゆー話を書いてしまうと、もう「それ以外」が書けなくなってしまうのではないかと思うよね。

なんか、「物語を紡ぎたい」と思う根本って、ここに描かれているような「問い」で、その「答え」はたぶん、「それでも生きていくしかない」みたいなもので……。

「神」や「造物主」が地球外の「高次」の意識体であり、それら「神」と戦うお話っていうのは、SFの世界では小説であれマンガであれアニメであれ、くり返し描かれる「根本のモチーフ」だ。

人はそれだけ、「意味」を求める生き物だから。

「マトリックス」に出てきたみたいな、「肉体は仮死状態で、意識だけがバーチャルな世界で生活している」都市も描かれている。「マトリックス」の監督、これ読んだのかなぁ。

イエスの描かれ方がひどいから、キリスト教圏の人は読めないんじゃないかと思うけど。

シッタータや阿修羅王は美形に描かれてるのに、イエスはひどい。しかも、「神」ならぬ「何ものか」の手先として、人類や地球の滅亡に手を貸す「使いっ走り」。

まぁ、キリストは「神の子」であり、「神」がもし、銀河系の生殺与奪を手にするものであれば、「このようである」はいたって正しい描き方でもあるんだけど、こんなの絶対日本人じゃなきゃ描けないよなぁ。

シッタータが「人間」として「神」と対峙するのは、仏教の起源を考えればあたりまえの話で、そもそも彼の開いた「悟り」というのは「輪廻の輪=“何ものか”に強制された存在の仕方」を脱して、「もう生まれ変わらない!」「私は私としてこの生を終える!」というものだったんだもの。

この世界を創り、規定し、破壊するものが何であろうと、私は私として存在し、生きて死ぬ、というのがもともとのブッダの悟りだ(と、私は理解している)。

神などいない。

救いは外からは訪れない。


昔、「膨張する宇宙」という話を聞いた時、「膨張できるということはこの宇宙には“外側”があるのか?」と思った。

あるいはまた、ビッグバンでこの宇宙が生まれる前は、本当に「無」だったのだろうかと。

世界とはなんであるか。

時間は本当に流れているのか。

なんのために世界は存在し、なんのために時間は流れるのか。

果てしない時の彼方、いずれ「時」さえも止まり、「完全な無」が訪れるのか。

訪れる?

どこに?

何もないなら、何が訪れるわけもない。

「創世の神秘は君も我も知らない
 その謎は君や我には解けない
 何を言い合おうと幕の外のこと
 その幕が降りたら我らは形もない」

(オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』より)

たぶん、それを知っても、しかたがないのだろう。

結局、生きて死んでいくほか、私たちにはできることがないのだから。

「神」ならぬ「高次」の意識体がもしあるとして、では彼らは何のために、何ものが生み出したものだろう?

その「外側」を見たいと思い、「無意味」では嫌だと叫び。

この世界が何によって成り立っているにせよ、私たちは存在してしまった。

だから。

自ら「意味」を創り出すために、戦い続けるしかない。

阿修羅王のごとくに。


萩尾さんの描く阿修羅王は少女の姿をしている。

とっても凛々しくてかっこよくて魅力的なんだけど、この阿修羅王の造型って、やっぱり興福寺の「阿修羅像」あってのことではないかしら。

帝釈天と永遠に戦い続ける、悪鬼とも解される阿修羅を、私たち日本人は、もっと違う、美しく哀しいものとして知っている。

あの「阿修羅像」を知っているから。

遠い昔、あの阿修羅を作った人も、想っていたのだろうか。

世界の無常を、存在の意味を―――。

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