哲学者になりたい、哲学する人でありたい、と思っているくせにプラトンを読んだことありませんでした。わははは。

いや、大学の時にちょろっとなんか読んだ気がしないこともないんだけど、読んだことを覚えてないんじゃ読んだうちに入りませんわね。

古典新訳文庫にプラトンが入ったので――そして200頁程度と手に取りやすい分量だったので、初挑戦。

いや、読みやすかったし、面白かった。

他の方の訳文を読んだことないので比較できないけど、すごく読みやすい訳文だと思います。訳者の中澤務さん、私よりたった3歳年上なだけ!若い!! なるほど「古典新訳」だな、と思います。

もちろん日本語が読みやすいことと、その内容が「理解できる」かどうかはまた別の話で、わかったようなわからないような箇所もあるんだけど、カントさんの『純粋理性批判』に比べたらうーんとハードル低い! 「対話形式」、物語風になっているのでとっつきやすいです。

プラトンさん偉大だな。

表題の「プロタゴラス」というのは当時有名なソフィスト。ソフィストというのは「知識をお金で売る人」。Wikipediaでは「金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家・教育家」と説明されています。

アテネにやってきた高名なプロタゴラスに、まだ若い(36歳頃と設定されている)ソクラテスが論争を挑む。

「徳(アレテー)を教える」ことを仕事にしているプロタゴラスに向かって、ソクラテスは「徳」というものは教えられるものではないのではないか、と問うのだ。

「徳」が教えられるものかどうか、を考えるために、そもまず「徳」とは何か?という問答が繰り広げられる。

ソクラテスの質問の仕方を読んでたら、なんか「相棒」の右京さん、思い出しちゃった。

「AだとすればBですよね?」「BだとすればCになりますよね?」「おや、でもそれではおかしなことになりますねぇ。あなたはさきほどDとおっしゃった。これは矛盾するのではないでしょうかねぇ」

みたいな(笑)。

ソクラテスと右京さんじゃだいぶ性格は違うけど、相手の矛盾をついていく論法は似たとこがあるなぁと。

なかなか強引というか、「重箱の隅をつつく」みたいな感じで苦笑しちゃうけど、でも「哲学」しようと思ったらこんなふうに「言葉」や「概念」の定義についてこまごまと、ちまちまと、これでもかってぐらい考えなきゃいけないんだろうな。

「勇気」とか「分別」とか、私達はあたりまえにその言葉を使うし、それがどんなことを指しているのかも、わかったつもりでいる。でもいざそれを詳しく説明しようと思うと、とたんに曖昧になってしまう。

「机」や「椅子」といった具体的な物体を指す言葉でさえも、どこまでが「机」なのか、色々な形状の「机」がある中で、なぜ私達はそれをぱっと見ただけで「机」だとわかるのか。

プラトンがイデア説を唱えたのもわかる、それは不思議な人間の認識能力だなと思うのだけれども。

抽象的な概念についてはいっそう、「勇気」とは何を指すのか。何か、それを他と区別する特徴があるからこそ、人はそれに名前をつけたんだろうけど、一旦「勇気」と名前がついてしまうと、「勇気は勇気だよ」というふうにしか説明できない。

うーん。

ソクラテスはプロタゴラスと「徳とは何か?」という対話を続けることで、最初の自分の主張とは反対のことを導き出す。

そして、そもそもの事の発端だった「徳は教えられるものか否か」という問題については、「また今度」になってしまうのだ。

えーっ!?

「また今度」っていつよ。

せっかくここまで「ふむふむ、なるほど」と読み進んできて、さぁそれで徳は教えられるの?どうなの?と楽しみにしてたのに。

他の著作も読みなさい、というプラトンの罠なのか(笑)。

いえ、この「正解が出ない」ということこそ、「哲学」なのでしょう。

決まった正解へたどりつくことが目的ではなく、あれかこれかと考え続ける、「思考すること」こそが哲学。

ソクラテスの哲学は「無知の知」という言葉で知られているけれども、「私は何も知らない」ということを自覚し、「知ろう」とすること、「わかろうとすること」が肝要なのですね。

橋本治さんの著書にもありましたね、「わからない」という方法 (集英社新書)

今は黒か白か、二者択一の極端な考えが幅をきかせているような気がします。

先日秋葉原の歩行者天国再開のことを取り上げた「クローズアップ現代」でも識者の方がそのような指摘をされていました。

これはダメ、あれはダメ、と細かく具体的に決めないと落ち着かない。黒か白か、グレーゾーンを許さなくなっている。

それってつまりはその都度自分で判断できない、判断したくない、ってことですよね。

誰かに「正解」を決めておいてもらえば、自分で考えなくてすむ。責任を負わなくてすむ。

でももちろん「遭遇するすべての事柄」についてあらかじめ「これこれの時にはこうする」と決められるわけもない。時と場合によって、またそれぞれの人によって、それぞれの「正解」がある。

そもそもそれが「正解」かどうか、検証することなんてできないだろう。

決まり切った「正解」がないことに耐えること。

ああかこうかと考え続けられること。

本当に、橋本治さんが常におっしゃっていることだよなぁ。

2000年以上昔に同じことを考えている人がいて、2000年経っても、人は同じことを考え続けてる。