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摂関家の兄弟忠通と頼長、そして天皇家の兄弟後白河帝と崇徳院。兄弟同士の争いだった保元の乱は忠通・後白河帝の側の勝ちに終わりました。

しかしその実摂関家の超越は奪われ、むしろ忠通は保元の乱最大の敗者ともなっていました。

乱の後、新たに御世を動かすことになったのは信西。後白河帝の乳母の夫であり、鳥羽院に後白河帝即位を勧めた学者坊主です。

都のただなかで「合戦」が起こり、朝廷とそれに仕える貴族達というシステムの頂点に君臨していた摂関家の勢威が衰える。王朝の夢は覚めつつあったけれど、そのことに気づいていた人間はおそらくほとんどいなかった。

その時に人は生きて、世を生きる人々は、自身の生きる世に起こりつつあることを、一向に理解しない。人の世の哀れとは、このことに尽きる。 (P24)

頼長の死はまだ公にされていなかった。けれど、人は頼長がどうなったかなど気にしなかった。頼長・忠通の父であり、南都に僧兵を従えたままだった忠実の処遇が決されてしまえば、「頼長方」であったはずの南都の者達でさえその消息を問わなかった。

哀れ頼長。

「人は、このお方の死を悼むべきだ」と、玄顕は思った。 (P33)

玄顕というのは頼長の家司を務め、最後まで頼長に従い、あげく拷問を受けることになった盛憲・経憲の弟です。頼長は彼の用意した粗末な小家で息を引き取り、彼ら兄弟の手によって般若野に葬られたのでした。

朝廷側に投降したはずの兄達からは音信がなく、兄達が報告したはずの頼長の死が、南都にはまるで伝わらない。

「左府の死は、人に伝えらるべきことではないのか?」 (P33)

それはおかしい、左府の死を人は悼むべきだ、と思えばこそ、玄顕は都に赴き頼長の遺骸のありかを朝廷に申し出た。摂関家の後嗣と目され、左大臣にまでのぼり詰めた人をきちんと弔ってもらうために。

しかし玄顕のその思いはかえって仇となった。朝廷は頼長の遺骸を掘り起こし、「葬ることはまかりならん!烏の餌食とせよ!」と言ったのだ……。

死してなお無惨なり頼長。

自業自得なところはあるけど、「お主上への反逆罪」自体は濡れ衣なのにね。

頼長の一生って何だったんだろう。人の一生って……。

一方、同じく敗者となった崇徳院は讃岐へ流罪となり、9年の後、失意の内に世を去ります。手ずから書き写した経巻を都に送り、「どうか供養を」と願った。けれど経巻を託された実の弟(仏門に入っていた覚性法親王)は「関わりたくない」とばかりさっさと内裏へ奏上し、信西も後白河帝も、「そんなもの」を懇ろに扱う気はなかった。

「要らぬこと」と経巻を送り返された崇徳院は憤る。謀反の罪を問われたとはいえ、もとは御位にあったものが、後世を願うことさえ許されないのか。

「我、天下を滅亡させん!」――崇徳院は自らの血で、手元に戻された経巻に誓文を書きつけたという。

後に「怨霊」として有名になる崇徳院ですが、彼の一生もホントにね……。彼が白河院の胤だったのかどうか、真偽のほどはわからないけれど、鳥羽院に疎まれたことも、美福門院得子の登場によって御位にあることを疎まれたことも、彼の責任ではない。弟達(覚性法親王と後白河帝)の性格・思考を理解せず、世の趨勢もあまりわかっていなかったのは事実でしょう。それを「未熟」「自業自得」と言うのは簡単だけど、「天皇家の皇子」がそうそう「世慣れ」するわけもなし。

周りの人間次第の「天皇」。だからこそ白河院も鳥羽院も「上皇」という立場を望んだ。御位を下りることによってしか、「力」は手に入らない。

なんというかな……。

頼長は乱で直接死に、崇徳院は流罪の後に死に、「崇徳院方」として戦った平忠正とその子らは清盛によって斬首、同じく源為義とその子らは義朝によって。もちろん義朝が直接斬ったわけではなく、『双調』では為義は鎌田の正清に斬られたことになっている。清盛も、おそらく自分では斬っていないのでしょうが、松ケンが豊原功補さんを斬るところも見たいような。

大河では豊原さん扮する忠正は「平家の血を引いていない」清盛に対して、ずっと快く思っていなかったですよね。面と向かってそれを言ってもいたし。

だから保元の乱でも後白河帝方と崇徳方に分かれた……わけではたぶんなく、「摂関家の走狗」でしかない武士達は、一族の誰かがどっちかへつくしかなかったんでしょうね。どちらかが残ればよしと。

為義も、今さら面倒だと思いながら、「義朝がいればいい」と思って仕方なく崇徳院方に味方した。

頼長も忠通も、分かれて戦ったどちらもが「摂関家」の「長」でありうる人間だったんだもんなぁ。

で。

義朝や忠正はつまりは「死罪」となったわけですが。

朝廷において、340年余りの長きに渡って「死罪」は行われていなかった。都のど真ん中で「合戦」などという血なまぐさいことが行われ、「死罪」という血なまぐさい刑も復活した。

この時代の、民衆に対する刑罰がどうなっていたのか知らないんですが、たとえば盗賊に対しても「死罪」というのは行われていなかったのかしら? 「討伐」という形で戦ってる最中に殺しちゃう、というのはきっとあったと思うんだけど、平民がトラブルで平民を殺した場合、つまり「殺人犯」に対してどういう罰が与えられていたんだろ。そもそも捕まったんだろうか。

「死罪」がどうこうと言っても、たぶん貴族だけ、政治犯だけの話なんでしょうね。貴族の中で盗みとか殺人とかあったらどういう「裁き」が行われたのか。司法・警察の役割を担う「検非違使」という制度はどれくらい機能していたのかなぁ。

なんてことはともかく、父・為義を「斬れ」と命じられた義朝の話です。

それ以前に義朝は、「一族」なるものへの関心を稀薄にしていた。義朝にとって重要なのは、血を分けた「一族」ではなく、彼に従い彼と共に戦う一家外の男達――「郎等」だったのである。 (P56)

さすがに実の父を殺すことには多少のためらいがあったようなのだけど、父に従い、それゆえに「死罪」となった弟達のことは、なんとも思わなかったらしい。

もちろんこれは「双調平家物語」の中の話で、実際の義朝の「心の裡」なんかはわからないのだけど、東国で武者修行をした義朝が「都人士」とは違った考えを持っていたのはおそらく間違いがない。

義朝の子頼朝が都とは一線を画し、鎌倉の地に幕府を開いたのは偶然ではない。清和源氏の栄光は、都の貴族達によってもたらされるものではなく、東国の武士達によって支えられるものだったからである。 (P57)

彼に従う東国の武者達は、義朝にとっての力であり、義朝のすべてであった。その点において、「一族の栄え」をもっぱらに願った伊勢平氏――平清盛と、源義朝は決定的に違うのである。 (P58)

大河ドラマではなんか義朝の方がしっかりしてて、清盛はまだまだガキっぽくてバカっぽい感じがしますが、「一族」を大事にする清盛と、「自分に従う武者」を大事にする義朝と、どっちがより「いい人」なんでしょう。

なんてことをつい思ってしまうのは、義朝が為義の幼い子ども達を平気で「死罪」にしてしまうから。

「為義の子」ということは、義朝の「腹違いの弟」です。為義はかなりの子だくさんで、武勇をもって鳴る(というか、乱暴をもって鳴る)為朝が八男坊。さらにその下に、13歳から7歳の4人の男の子がいた。まだ「乙若」とか「亀若」とか呼ばれている、元服前の少年達。

「弟」と言っても腹違いだし、「一体何人おんねん」だから、もしかしたら義朝はろくに会ったこともなかったのかもしれない。「他人同然」でも仕方がない。でもその幼さを思えば、助命を嘆願するとか密かに逃がすとかあってもいいのに、まったく頓着しないのだなぁ。

彼ら幼い子ども達を斬らされるのは波多野の次郎信景。義朝は彼の妹との間に子をもうけていて、だから彼は義朝にとって義兄にも当たる郎等。

もともと義朝に「絶対服従」という感じではなかったこともあってか、彼は幼い子ども達を斬るといういわば「汚れ役」を押しつけられたことで、その後義朝とは袂を分かつ。そりゃあねぇ、そうだよねぇ。

またこの子ども達が首打たれる場面の冴え渡る筆ときたら。嗚呼!

為義の首ばかりは葬られ、子ども達4人の首はその辺にほったらかしにされた。信景は自身が打った子らの首を拾い、為義の墓のそばに埋め、手を合わせる。「主人」に仕え、主人を通して「朝廷」に仕える身、命令に背くことはできかねる。けれどせめてきちんと弔うことぐらいは――。無駄な優しさなのかな。可哀想に思うなら、「打った」ということにして逃がしてやればよかったのか。

人というものは……。

ただ「死罪」を復活させただけでなく、そんな幼い子らの命まで平然と奪った張本人は他ならぬ信西。

さて信西とはいかなる人間だったのか……というところで以下次回