(前半「平治の乱・嗚呼信西」はこちら

平治の乱、後半です。

清盛が都に戻ったことで、公卿達が動きます。

「いざとなれば義朝に抗することのできる清盛がいる」という「安心感」(?)を得た公卿達は、やっと内裏へ参内するのですね。

清盛自身の胸の裡(「義朝には勝てない」)以上に、清盛は周りの貴族達から「武士」として、源氏に対抗しうる者として認められていたようです。

そうして前関白藤原忠通以下、信頼に与しない公卿達は三条東殿の炎上から10日目の朝になってやっと事件の全貌を知るわけです。

なんだかなぁ。

あんた達にとって「朝廷」とか「政治」とか何なの、ホントに。いくら「とりあえず帝も院も無事」とはいえ、自分達では何ら動こうとしないなんて……。

二条帝と後白河院をそれぞれ別の内裏の一画へ幽閉同然にし、清涼殿を我がものにしていた信頼。

しかし公卿達が参内し、権中納言藤原光頼が信頼の上座に着しただけで一切が覆されました。

面目がつぶされ、「序列の誤り」が指摘され、その場を成り立たせていた「正しさ」が覆された。つまり、すべては終わったのである。 (P107)

マナーブックでお馴染み上座下座。タクシーではどこが上座か。円卓ならどこか。

「誰かが信頼の上座に座る」。それだけで、信頼の天下は終わったのです。合戦など、清盛の力など、必要ないじゃないの。

なんというか、なんというのかねぇ……。席順怖い。

信頼の無法は不問に付され、許された。そしてその代わりに、朝議の主導権が、反信頼派の公卿達へと移された。 (P116)

肝要とは、事に際して責任の所在を不明確にする――それが王朝貴族のなしようだった。 (P132)

なんて“日本”なのでしょう。

日本っていまだ王朝の世なのかもしれませんね。

誰も彼もが情勢を窺う都に、信頼を斃そうと思う者などなかった。「信頼を討て」と、命ずる者さえもなかった。 (P140)

そして清盛も「命じてくれる」主人が現れるのを待っていました。そこへ内大臣公教からの遣いが。

お主上を信頼の手から救い出す手助けをせよとの命。

信頼に与していた藤原惟方が裏切って二条帝を内裏から脱出させる。内裏にはもちろん義朝達源氏が控えているはずで、「事を起こす」なら当然平氏の「武力」がいる。

内裏の近くで火の手を起こし、その騒ぎに乗じて惟方が帝を内裏より出す。どこへ?

六波羅。清盛の邸へ。

そして後白河は。

誰も、後白河のことを考えていなかった。惟方の兄である藤原光頼がはたと「院はどうするのだ?」と気づき、末弟成頼に「院を脱出させよ」と命じるのだけど、もしも光頼がそれを思いつかなかったら、後白河院はどうなっていたんだろう。

御代の貴族達にとって、大事なのはあくまで「お主上」でした。そもそも「院の御所」などというものに力が集まるのが本来のシステムからはずれた「おかしなこと」だったわけで、今内裏を占拠する謀叛人藤原信頼も、「院の御寵」ゆえに増長したのですから。

ともあれ成頼は一人でがんばって後白河院を仁和寺へと遷します。

今上の帝と下り居の帝、やんごとなきお二方の無事が確保され、いよいよ源氏と平氏の合戦です。

またこの合戦を描く橋本さんの筆がいいんですよね。名のある主役達だけでなく、郎等や下人の働きを生き生きと。引き込まれてしまいます。

で、情けないのが信頼。

がーがー寝てる間に大事な人質のはずの帝と院をさっさと奪い去られ、気づけば源平合戦が始まろうとしている。

しょうがない、「総大将」として美々しい武装に身を固め、自身も駒を進めようとしますが、そんなの全然ガラじゃない上に、なんでこんなことになったのか、彼にはさっぱり理解できない。

席順だけで彼の天下は覆ったとはいえ、公卿達は彼を断罪するわけでもなく、「不問に付され許された」はずなのに、なぜ合戦!?

うろたえる信頼のそばには不思議な笑みをたたえる成親ばかりがいて。

王朝の末の時の奇怪さを語る人物の典型は、信頼であり、成親である。(中略)それ(“信西と清盛さえ排してしまえば信頼殿の天下”)を囁く成親の自信は、意外なところにあった。清盛の嫡男重盛である。新興の武者の家の嫡男は、院のお覚え篤くして王朝の美学をその身に体したような成親の美貌に、恋をしていた。 (P191)

越後中将成親のぽっちゃり可憐な唇は再び笑みの形になって、愚かなる総大将を嘲笑っていた。 (P221)

信頼は「日本一の不覚仁」(by義朝)ですが、成親というのがまた、けったいな人物なのですよねぇ。しかし「ぽっちゃり可憐な唇」って!重盛の心を掴んでいる自信って!

平安時代怖い。

ちなみに成親のお姉さんは信頼の妻になっていて、そのお姉さんの腹になる信頼の子ども信親(5歳)は、清盛の娘徳子(同じく5歳)の婿になっていたのですね。平治の乱の際、信親は婿として清盛の邸にいたのです。合戦の直前に、「父のもとへ戻れ」と帰されるのですが、幼い5歳の夫婦にはもちろん何が起こっているのかはわからず。

可哀想になぁ。子どもに罪はないのになぁ。お父さんがアホやったばっかりに……。

源氏と平氏、「戦士」としての個々の強さなら源氏が勝っていたのでしょうが、しかし総大将がマヌケではどうしようもありません。憐れ義朝は敗残の将になります。

東国へ行けば自身に従う者は大勢いる。東国こそが「武士」の居場所、と思う義朝は東を目指すのですが。

どうしたらいいのかわからない信頼もあとを追いかけてきて「ボクも連れてって」。

この期に及んで、恥もなければ悔いもない。ただぬけぬけと「連れ行け」と言う。「このような男になぜ従ったか」と思うと、自身の愚かさばかりが身に迫る。 (P285)

ホンマにねぇ。馬鹿だよねぇ、義朝。

義朝に「ふざけんな!」と置き去りにされた信頼、成親、そして師仲は「そうだ、後白河院ならきっと僕たちのこと助けてくれるよ!だって僕たち院のお気に入りだもの!!!」と、後白河院のいる仁和寺に向かうのですが、そうは問屋がおろし大根。

後白河に「こいつらうちに来たよ。どーする?」とあっけなくチクられ、捕らえられる。

何だったんでしょう、この戦。平氏も源氏もかなりの死者を出したと思うんですけど、その人達一体何のために死んだんでしょう。

馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。

二条帝の六波羅遷幸をなによりの落着と思った公卿達は、院のご救出を失念していた。 (P301)

「乱が平定された後、院の御所のお力は削ぐ」――そのことで、美福門院以下、大殿忠通も含めた御世の公卿達の利害は一致したのである。 (P301)

信頼がなぜ院の御所に火をかけたかと言えば信西を討ちたかったわけで。

平治の乱って、後白河院の側近同士の争いから始まったんですよねぇ。院の近臣として政治の実権を握っていた信西は他の公卿達にとって目の上のたんこぶだったし、二条帝をいただく朝廷側にしてみれば、「つぶし合ってくれてもっけの幸い」みたいな。

そんな中、一人清盛だけが「本当に院の近臣を全部一掃してしまっていいものか。院はどのように思っておられるのか」と院の胸中を推し量る。

かくて死罪になりかけた成親は重盛のたっての願い(重盛は成親に恋してるんです、ええ、少なくともこの本の中では)と、院の胸の裡を思う清盛によって救われます。師仲も死罪は免れ、結局信頼だけが首打たれる。

成親がどのような「内実」を持つ男であるのかを、清盛を初めとする御世の男達は、まだ誰一人として知らなかった。 (P302)

そう、成親はこの先「鹿ヶ谷の陰謀」で平家を……。まぁ「あの時命を助けてもらったから」なんて殊勝なタマじゃないわなぁ。平家ごとき武者の家柄、って思ってるんだろうし。でも重盛の息子に自分の娘を嫁がせるくらい重盛とは仲が良かったらしいのに…。

成親、怖ろしい子。

さてそして、内裏は六波羅(清盛邸)から美福門院の八条烏丸御所へ遷ります。この時後白河はまだ仁和寺のまま。

合戦に敗れた義朝一行は東国を目指して逃げていましたが、近江から不破の関へ向かう途中で頼朝がはぐれてしまいます。次男の朝長は合戦時の傷がひどく「どうか父上の手でとどめを」と申し出て義朝に首打たれ、長男義平も義朝とは別の道を行く。

腹心の部下正清とともに尾張までやってきた義朝は、そこで正清の舅でもあり源氏の家人でもある長田の庄司を頼ります。こんな悪党を頼ったのが運のツキ。本当に最後まで愚かで哀れな義朝。

長田の庄司は主人であるはずの義朝をだまし討ちにし、義朝と正清二人の首をぶら下げて誇らかに都に上るのです。「賊臣を討ち取ったぞ!報奨を!」と。

もしも義朝が生きて東国にたどり着けていたら……どんな歴史になっていたでしょう。果たして義朝は東国の武士を率いて都に攻め上ったでしょうか。敗れて逃げてきた「源氏の棟梁」に従う者はどれだけいたか。長田の庄司に討たれるまでもなく、信頼というマヌケに与した時点で、義朝の命運は尽きていたのでしょうね……。

義朝が討たれたのは平治2年1月3日。そしてその3日後、1月の6日に後白河院は八条堀川の藤原顕長の邸へ移ります。八条烏丸に二条帝、八条堀川に後白河院。

その遙か北に大内裏が健在であるにもかかわらず都のはずれ近い八条の大路に、上皇御所と、御世の帝の内裏でもある女院御所の二つが、軒を並べるようにしてある――そのようなあり方は、かつての都にありえないことだった。 (P325)

橋本さんはここで「当時の都の範囲」について説明してくれます。これがなかなか面白い。美福門院の御所であり、二条帝が内裏とした八条烏丸というのは今のJR京都駅あたりですが、当時ここは「都のはずれ」だったのですね。美福門院徳子は決して高貴な家の生まれではなく、本来なら女御だの中宮だのの地位には上がれない下級貴族の出。だからこそ、彼女の住まいは「八条」という「都のはずれ」にありました。

昔は(平治2年から見た「昔」です)二条、三条あたりだけが「都」で、清水寺のあたりも都のはずれだったそうです。五条橋は此の世と彼の世の境と思われていたそうな。その向こうは「賽の河原」同然で「六原」と呼ばれ、清盛の祖父正盛が六波羅蜜堂を建て、平氏の台頭とともに「六波羅」の位置づけも変わってきたのだとか。

ちなみに義朝の邸は六条堀川にあったらしいです。

尾張の野間の内海から塩漬けにされた義朝と正清の首が上洛してきたのは1月9日。首って「塩漬け」にするんだ…そんなもの持って歩くんだ…と思いますが、義朝の死を改めて突きつけられた常盤はやっと幼い子どもを連れて「身を隠す」を実行します。

「身を隠す」と言ってもあてのない常盤。たった一人で幼子の手を引き、真冬の雪道を徒歩で逃げる。なんとも哀しく辛い道行きです。

そしてその翌日、平治2年1月10日は永暦元年1月10日に改元。ほんの1年ほどしかなかった平治…。

“平らぎ治まる世がよかろう”と平治を奏した入道は、平らげられて樗(おうち)の懸け物となった。 (P345)

ひどい、ひどいよ、左大臣伊通! あんたなんか皮肉を言うしか能がないくせに。信頼や信西を自身で排除する力も覚悟もなかったくせに、終わってみれば良い厄介払いと嘲笑うなんて。むかつく~。

信頼が「謀叛の罪」で首を刎ねられた以上、信頼が信西に対してかけた「謀叛の罪」は、無効となってもよいはずなのである。果して信西には「謀叛の意志」などがあったのか――このことは問われてもよい。しかし、平家の一門に賞を与えた朝廷の公卿達は、信西の罪の有無を僉議しようなどとは思わなかった。 (P333)

嗚呼、信西(涙)。

乱の終結とはすなわち、院のご威勢のご終焉でもあった。ところが、不思議なお心をお持ちの院は、このことをどのようにも思し召されなかった。 (P333)

後白河院にはもちろんその「威勢を終わらせる」気などありませんでした。むしろここからが「日本一の大天狗」(by頼朝)の本領発揮となるわけで……。

11巻に続く♪

(11巻の感想記事はこちら