爺ちゃんのこと書いたら、やっぱり婆ちゃんのことも書かなくちゃね。

私の母方の婆ちゃんは、とにかくしっかりした人で、98歳の天寿をまっとうするまで、本当に頭もはっきりしていた。

亡くなる少し前にお見舞いに行った時も、私のことはすぐにわかったし、私の息子が中学生だということもちゃんと覚えていた。日付や曜日もしっかり把握、その日は体調も良かったのか、食事も自分で口に運んでいた。

何しろ、最後まで一人暮らしだったんだもの。

最後の5年くらいは一人暮らしと言っても病院を出たり入ったり、伯父さんの家にいることも多かったのだけど、ヘルパーさんに助けてもらいながら、一人で住んでいた。

90歳くらいまでは本当に元気で、掃除も洗濯も料理も自分でやって、また家の中が本当にスキっと片付いてて、私は婆ちゃんの血を一滴も引いてないんじゃないかと思うぐらい(汗)ビシッ!と生活していた。

家(アパート)には緊急通報用のベルをつけてもらっていたから、転んで頭を打った時も、体調がおかしくなった時も、自分でベルを押して通報していたし、「さすがに今回はダメか」と周囲が覚悟した時も、不死鳥のように蘇ってくれてた。

だから今回も、期待していたのだけど。

100歳まで長生きしてくれるんじゃないかな、って。

まぁ、看病する伯父さんも私の母も70代で、すっかり「老老介護」になってしまっていたから、子どもや孫に苦労をかけまいと気を遣ってくれたのかもしれない。

婆ちゃんは、三重県の生まれ。

とある網元の、お嬢様だったらしい。

ところが台風で漁船が流され、裕福な網元から一転貧乏になってしまったのだとか。

小学校を出たあと、婆ちゃんは女工哀史。どこやらの紡績工場で日夜労働に従事する。

お給料日にわくわくして事務所に行くと、「え?さっき父ちゃんが取りに来たよ」。

婆ちゃんの稼ぎは父親の飲み代に消えていったらしい。

今の息子と同じくらいの歳で、婆ちゃんは働いてたんだよなぁ。しかも「お給料で新しい服を」と思ったら全部父親に持ってかれるとか……。

その後、結婚して伯父さんと母を産むわけだけど、どーも、母の実父という人はあまり家にお金を入れてくれない人だったらしい。婆ちゃんは相変わらずせっせと働いていて、生活は苦しかったようだ。

母は昭和17年生まれで、物心ついた時には「戦後」だから、周りもみんな「生活は苦しかった」のだろうけれど、同級生が新しい服を着ていたりするのがとても羨ましかったらしい。

母の服は、全部婆ちゃんが縫ったもので、母は友達が着ているお洒落な服にとても憧れていたそうだ。

そんな、裕福ではない暮らしの中、親を亡くした親戚の子を預かったりして、母曰く「婆さんばっかり貧乏くじ引いてたんや」。

婆ちゃんの兄弟とかその娘さん・息子さんには私、ほとんど会ったことがないし、「婆さんばっかり」がどれくらい客観的なのかわからないのだけど、戦中・戦後苦労して二人の子どもを育てたことは間違いない。

「預かっていた親戚の子」というのは、母のいとこで、母のことを「姉ちゃん」と呼び慣わしていた。私は普通に「おじさん」と呼んでて、よくうちにも遊びに来てくれたのだけど、残念ながら5年前にくも膜下出血で急逝してしまって、婆ちゃんも本当に肩を落としていた。

その「おじさん」ところの子達も、爺ちゃんに可愛がられてたよなぁ。

うーん、どう思い出しても爺ちゃんと母やおじさんが「他人」だとは思えないわ……。

婆ちゃんが若かった頃の話はたいして知らないんだけれども、母の兄が小学校でいじめられていたそうで、婆ちゃんは「うちの子いじめとんのはどこのどいつや!」って感じで学校に乗り込んでいったらしい。

そして「大事の息子をこんな学校には預けておけん!」とさっさと隣の地区の学校に転校させてしまったそうだ。

妹である母は元の学校のまま、お兄ちゃんだけ隣の学校。

母は「なんで兄ちゃんだけ。私もあっちがいい」と思っていたらしい。

さすが婆ちゃん、って思うエピソードなのだけど、伯父さんが小学生の時ってかれこれ60年以上前の話なわけで。

そんな昔から転校するほどのいじめがあったのね……。まぁ、具体的にどんないじめだったのかは聞いてないんだけど。

母が十代後半の時、母の実父である人が亡くなって、婆ちゃんは爺ちゃんと一緒に暮らすようになった。私が知っている晩年(60歳以降)の婆ちゃんは、裕福ではないものの、それなりに幸せに見えた。

私が3歳くらいの時から爺ちゃんと二人でアパートの住み込み管理人をやっていたのだけど、大家さんからの信頼も篤かったそうだ。爺ちゃんが亡くなった後、婆ちゃんは大家さんの計らいですぐに別のアパートに住むことができた。

管理人をやってたアパートは古くてトイレも共同で、管理人の婆ちゃんが掃除とか全部やっていた。冬は冷えるし、いわゆる「高齢者」になってからの話で、大変だったろうになぁ。掃除とか洗濯とか片付けといったことはきっちりしないと気が済まない人&テキパキできてしまう人だったから……。

今年98歳だったということは大正3年の生まれということで、当然のように和裁ができた。

母が中学生の頃家庭科で「浴衣を縫う」という課題があって、母はかなり頑張ったらしいのだけど、婆ちゃんに「なんじゃこの縫い方は!」と全部ほどかれ、縫い直されてしまったらしい。

……母ちゃんの努力は……。

しかしそんな課題あったら私きっと落第してるよ(すいません、中学の時宿題のエプロン半分くらい母に縫ってもらいました。すいませんごめんなさい、もうしません)。

下手くそなのに耐えられず「貸してみぃ!」と全部縫い直しちゃう婆ちゃんがまた、とっても婆ちゃんらしくて苦笑。

私きっと婆ちゃんと一緒に住んでたら叱られっぱなしやったやろなぁ…。家事苦手、片付けない、気が利かない……ははは。

和裁のみならず洋裁も編み物も上手で、90歳近くまで常に何かしらこしらえてた。

婆ちゃんが亡くなってから母と伯父さんが遺品を整理して、出て来たハンドメイドのいくつかを形見としていただいた。

そのうちの一つ、手提げかばん。


裏地がお洒落な上にちゃんとポケットがついてる。

そして手編みのカーディガン。どちらも何歳の時に作ったのか不明だけど、きれいなのでそんなに古いものではないかと。


目が揃ってて、はぎ方とかとじ方とかがすごく綺麗なのよねぇ。細かいところがすごくきちっとしてる。私も編むのは好きなんだけど、とじたりはいだりするのが嫌いで……。

……婆ちゃんの血は、私の中でどこへ行ってしまったのでしょう……。


大正、昭和、平成、きっと激動の98年間。

お疲れ様でした。

本当にありがとう。