2013年4月22日月曜日

『失われた時を求めて』第3巻~ダメだ、寝てまう~/プルースト



(1巻の感想はこちら。2巻の感想はこちら

2巻の「スワンの恋」が予想以上に面白かったので、期待してしまった3巻。

面白くない(笑)。

いや、面白いとか面白くないとか、そういう話じゃないんだよね、これ。

また1巻の1人称うだうだに戻って、「そんなのどーでもいいよー」という“私”のコイバナ&社交界話がだらだらだらだら……。

2巻の最後もすでにそうだったから、予想してしかるべきだったけど。「最後だけ」ならまだ付き合える。でも1冊丸ごと「最初から最後までだらだら」というのはホントにきつい……。

“私”はスワンとオデットの間の娘であるジルベルトに恋していて、シャンゼリゼで彼女と会うことをとても楽しみにしている。そんで、スワンと“私”の両親は、昔は付き合いがあったのに、今はあんまり仲が良くなくて(それはどうもスワンが高級娼婦のオデットと結婚したせいらしい)、“私”はジルベルトの家に遊びに行くことはできない。

スワンが“私”を嫌っているらしい話が出たり、“私”が「あなたを尊敬しています。だから嫌わないで」みたいな手紙をスワンに書いたり、その手紙を突き返されたり。

でもひょんなことから“私”はあっさりスワン家を訪れることができるようになり、あっという間に常連になって、ジルベルトとも「親公認の仲」みたいになる。

が、しかし。

肝心のジルベルトが“私”を鬱陶しく思うようになって、“私”も「ジルベルトとは会わないぞ」と決心しちゃう。

“私”が足繁く通ってきて、「彼が来てるんだから外出はやめなさい」みたいに親に言われてしまうジルベルトが“私”を鬱陶しがるのはヒジョーによくわかる。いくら好きな相手だからって、そうそうしょっちゅう会ってたら飽きちゃうし、人生の楽しみは何も“恋”だけじゃないよねー。ジルベルトがどれくらい“私”を好きなのかはよくわかんないけど、“好き”だったとしても、彼以外の友だちと過ごす時間も必要って、当たり前でしょう。

で、“私”の方は「会わない」ことにすれば向こうから「会いたい」と思ってくれるんじゃないか、とか思うわけ。もともと“私”はジルベルトの母であるオデットにも憧れているから、ジルベルトの留守を狙ってスワン夫人に会いに行く、なんてことをする。そうすればジルベルトに自分の話はそれとなく伝わるはずだし。

前巻からそんなに時間経ってないと思うから、“私”もジルベルトも16歳くらいのはずだけど……。“私”のぐだぐだに共感できなくてつらい。

「スワンの恋」みたいに3人称で描かれてるんならまだしも、1人称だからなぁ。この子の“感性”についていけないとつらいよ。観察力とか比喩力とかすごいけど、彼が観察するこまごまとしたことに興味が持てん。

訳者さんによる「読書ガイド」には

プルーストを読まない、あるいは読んでも心惹かれない知識階級のフランス人は確かにいて、彼らはしばしば、バルザックは「人間の社会」を描いたのに、プルーストが描いたのは「社交界」にすぎなかったなどと異口同音に言う。 (P520)

なんてことが書かれてある。

もちろん訳者さんはプルーストに惚れ込んでいらっしゃるので、その後「反論」が続くのですけども。

「社交界」を描く云々よりも、この一文の長いだらだらした書き方が問題なんじゃないのかな。会話が少なくて事件よりも“私”の感じたことがだらだらと続く、たとえばオデットが弾いてくれるソナタの話が延々何ページも続く、みたいなのが。

どーでもいいよ、って気になる。

いや、もちろん比喩や観察力はすごいなーと思う箇所あるんだけど、そしてこの作品はそのような“珠玉の心象風景”を味わうものなんだろうけど。

『モンテ・クリスト伯』のジェットコースターエンターテインメントの後では、いっそうつらい。

どきどきわくわく血わき肉おどる痛快娯楽冒険小説の方がいいわ~~~~~。

読んでると眠くなるの。

睡眠薬のようなの。

頭に入ってこないの。

じゃあ読まなきゃいいのにね……・。

ホント、最後の方はもう内容を頭に入れようなどと思わずとにかく字を追って「読了」を目指すという苦行のような読書で、一体私は何のためにこんなことやってんだろうと思いました。内田センセが「いつか『失われた時を求めて』を掌を指すように読める日が…」みたいなことをどこかに書いてらして、なんか憧れの書というか、「挑戦したい」という気持ちだけで読んでます、ええ。

修行や「闘い」としての読書。

ところで。

著者のプルーストさんって、オートゥイユで生まれてるんですね。『モンテ・クリスト伯』の中でヴィルフォールが赤ちゃんを埋めたオートゥイユ!!!

フォーブール・サン・ジェルマンとか、『モンテ・クリスト伯』でも聞いた地名が出て来るとなんか嬉しい。考えたら『レ・ミゼラブル』からずっとフランス文学三昧なんですもんね。

一口にフランス文学と言っても『レ・ミゼラブル』『モンテ・クリスト伯』『失われた時を求めて』はそれぞれ毛色が違いすぎて、「古典」とか「名作」というくくりはともかく、「同じ種類の文学」とはとうてい思えません。一口に「日本文学」と言っても太宰治に吉川英治、三島由紀夫に村上春樹と色々なんですから、「フランス文学」というくくりで語ることにあんまり意味はないのでしょう。

1871年生まれのプルーストさんはデュマさん達よりだいぶ若くて、「同じフランス」ではあっても時代が違う。

ちなみに

デュマさん1802年-1870年
ユーゴーさん1802年-1885年
モーリス・ルブラン1864年-1941年
プルーストさん1871年-1922年

という生没年。デュマさんとユーゴーさんは同い年で、62年後にルブランが生まれ、69年後にプルーストさんが誕生。ルブランさんとプルーストはさんおおむね同時代人と言って良さそうだけど、書くものはえらい違いですよねぇぇぇぇぇ。

まぁ現代日本でも芥川賞作品もあればラノベもエロ本もあるんですから、当たり前といえば当たり前なんですが。

ちなみに日本人作家だと島崎藤村さんが1872年年生まれ(1943年没)で、プルーストさんとほぼ同い年。デュマさん達が生まれたのは江戸時代だけど、プルーストさんだともう明治になっているのです。

日本も江戸期の『里見八犬伝』という超エンターテインメントの後、うだうだ私小説の近代自我模索が来たりしますが、『失われた時を求めて』のうだうだも、何かそういう「時代性」があったりするのでしょうか。

ちなみに

『里見八犬伝』は1814年刊行開始1842年完結。
『モンテ・クリスト伯』1844年-1846年
『レ・ミゼラブル』1862年
『奇巌城(アルセーヌ・ルパン)』1909年
『失われた時を求めて』1913年-1922年
『破戒』(島崎藤村)1906年
『蒲団』(田山花袋)1907年
『ヰタ・セクスアリス』(森鴎外)1909年
『こころ』(夏目漱石)1914年
『城の崎にて』(志賀直哉)1917年

『里見八犬伝』古いですね。古いのにあの壮絶エンターテインメントですよ。日本人素敵。

どの時代にもエンターテインメントと、そうでない内省的・哲学的な作品とあるのでしょうけど、やはり私は断然エンターテインメントが好き……というか、「物語」が好きだなぁ。

うん、『失われた時を求めて』って、いわゆる「物語」じゃないよね。“自伝”“回想録”みたいな感じで、もう少し段落や章立てが短く分けられていたら一つ一つは珠玉のエッセイと呼べそうな。何か「事件」があって、「起承転結」が……っていうのとはここまで読んだ感じでは違う。

訳者さんは「描かれた事件の大小で作品の偉大さが決まるのではない」って言ってるけど。それはそうだけど…なんか事件起これよ!(笑)

ちなみにこれまで読んだロシア文学の年譜。

『オブローモフ』1859年
『戦争と平和』1864-69年
『カラマーゾフの兄弟』1880年

全部『失われた~』に比べるとずっと古いですね。『オブローモフ』と『戦争と平和』の間に『レ・ミゼラブル』が入るのか。

さて。

うだうだだらだら、16歳~17歳くらいの男の子の堂々巡り1人称“コイバナ”がめんどくさくてついていけない3巻ですが。たとえば“私”は将来の職業について

いつかは大使としてジルベルトのいないどこかの国の首都に派遣されるかもしれないという考えに耐えられなかった。 (P28)

と言います。好きな女の子と離れるのが嫌だから外交官にはなりたくないって……。

まぁ、“私”は体が弱くて、オペラだかなんだかを見に行くのも「体にさわる」と周囲から心配されるぐらいなので、「外交官」みたいなタフな職業はそもそも体力的に無理だろうとは思うんですけど。

うーん、内省的でうだうだだらだらっていうの、いかにも腺病質な子どもって感じだもんね。こういうこと言うと偏見になってしまうかもしれないけど、やっぱり体育会系の「だーっ!」とそこらを走り回ってる子どもじゃ、こういう文章にならない気がする。

かく言う私も運動音痴のインドア人間でございますし。

“私”の――つまりはプルーストさんの――世界を見る目・比喩は確かに素晴らしくて、

一般に、私たちはそうした相手の性格の特徴、ときには矯正したいと思うような特徴にさえ強い愛着を覚えているから、女は、いつしか男のそのような特徴に慣れて寛容になり、親しみを込めてからかうようにもなる。 (P96-P97)

一般に、不名誉な結婚がもっとも尊敬すべき結婚と言えるのは、純粋に個人的な幸福のために、ある程度は自尊心を満たしうる境遇を犠牲にすることを前提としているからである。 (P99-P100)

元日という日に、自分でひねくり回した特殊な観念を押しつけようとしても意味がなかった。元日自身は人から元日と呼ばれていることも知らずに、今までと変わったことは何ひとつないままに黄昏のうちに終わろうとしていると私には感じられた。 (P141)

とか、「お!」と思う表現はいくつも出てきます。

上記引用の2つめの「不名誉な結婚」というのはスワンとオデットの結婚のことだと思うのだけど(話が頭に入ってこないのでうろ覚え)、2巻「スワンの恋」で一旦は別れたかに見えた2人がなぜ結婚したのか、よくわかりません。子ども(ジルベルト)ができたから、結婚したのかなぁ。

スワンはプリンス・オブ・ウェールズとも知り合いとかいう上流の人間で、オデットは高級娼婦。もしもスワンが諦めず彼女に熱を上げ続けていたとしても、「結婚」はあり得ないと周囲からは思われていたようで。

その不釣り合いな結婚は、周囲に色々な波紋をもたらしたようなのですよね。

スワン自身の「社交界」での立ち位置、暮らし方も変わってしまったようで。オデットに合わせて付き合う人間までも変えてしまったように見えるスワン。そしてそれを苦々しく思うどころか喜んでやっているように見えるスワン。でも。

彼は空想のなかで夫人に妻と娘を紹介する場面を微に入り細を穿って演じてみるのだったが、その細かさは、自分で勝手に宝くじの賞金額を決めて、もしそれに当たったら賞金をどう使おうかこと細かに考える人たちの場合と似ていた。 (P101)

「夫人」というのはゲルマント公爵夫人。公爵だから、きっと非常に身分の高い、オデットなんかが会えるわけもない人なんでしょう、たぶん。スワンは実際に結婚する前に、オデットや娘を公爵夫人に紹介する場面を繰り返し夢想していたらしい。

考えたら、なんでそんなスワンの「夢想」を“私”が知り得ているのか不思議だけども…。

(スワンがオデットと結婚したのは)もはや彼女に愛を感じなくなってから、すなわち、彼女と生涯ともに暮らしたいとあれほど願いつつも断腸の思いで諦めたスワンの内なる存在が死んでしまってからだったのだが、その結婚は、スワンの人生において、死んだあとに起こるはずの出来事の予兆に似た、いわば死後の幸福のようなものではなかったか。 (P103)

だから「愛を感じなくなってから」とかなんで“私”が知ってるんだろう……。この先スワン本人から“私”が結婚の顛末を聞く場面とか出て来るのかなぁ。

大地の上を歩くとき、大地は動かないように見える。だからこそ人びとは平穏に暮らしている。人生における「時間」もそれと似たようなものだ。 (P128)

これは“私”が父親に言われたふとした言葉に、「自分は時間のらち外にいると思っていたのにそうじゃなかった」ということを感じて愕然とする、みたいなところ。つまりは「自分もあっという間に年を取ってしまうんだ。いつまでも少年ではいられないんだ」みたいなことをふと実感する、みたいな場面。

大地が動かないと思っていることと、人生における「時間」や「死」というのは確かに似たようなものだと感じます。でも“私”はもう16歳ぐらいだから、それを実感するのはちょっと遅い気がしなくもない。

私は本当に「時間」が怖くて、年を取るのも死ぬのも怖くて、大人になるのが本当にイヤだったなぁ。イヤでも応でもなるんだけどさ。もちろん今でもどこかで“自分だけは「時間」のらち外にいられるんじゃないか”と思っているけれど。そうだったらいいのに、と。

さて。

“私”が恋い焦がれ、嫌われたのではないかと悶々とし、「会いたい!」と向こうから言ってもらうためにわざと会わないでおく、なんて戦法を取ってさらに悶々とする、そのお相手のジルベルトちゃん。

「それがどうしたっていうの?ほかのひとの考えなんて。気持ちの問題で他人がどうこうって気にするのはばかげていると思う。気持ちなんてみんな自分のためにあるのよ。世間のためじゃないわ」 (P287)

と言うような女の子です。

なかなかいいタマですね。

“私”は色々とジルベルトの気持ちを夢想し、期待し、延々と「会いたいけど会えない時間」に悶え続けるのですが、しかし一体ジルベルトは“私”のことをどう思ってたんだろう。“私”が思うほど、またオデットが「あなたがあの子の一番のお友だちよ」と言うほど、ジルベルト本人は“私”を好きじゃなかったような気がしなくもない。

“異性”として、“恋愛対象”としてどれくらい好きだったのか。

“私”の1人称語りだから、ジルベルトの内面というのはわからないのよね。“私”が彼女のもとを訪れなくなって、果たして彼女は寂しがっていたのか? なんか最後の方では「若い男と連れだって歩くジルベルト」を“私”が目撃したりもしてるんだけど。

兵士は殺されるまでにはまだ無限に引き延ばすことのできるそれなりの猶予期間が与えられるものと固く信じている。泥棒は捕まるまで、一般に人は死ぬまで、同じように猶予期間があると信じている。それは個々の人間を――ときにはそれぞれの国の国民を――危険からではなく、危険への恐怖、すなわち、危険が存在しているという思いから守ってくれる護符であり、ある場合には、勇敢である必要もなく困難に敢然と立ち向かうことを可能にするお守りである。 (P433)

実に素晴らしい、実に納得できる「人間観察」ですが、しかしこの観察が“私”の恋の堂々巡りに適用されたとたん「うへぇ」と思ってしまうのよ……。

せめてもう少し短ければねぇ。いちいちの文章も、堂々巡りも。

それは確かに恋の本質だろうけど、付き合ってられん……。

結局二人の“恋”(などというものが存在していたとして)は終わったということでOKなのかな。もう4巻ではスパっと諦めてさくさく別の話に進んでくれるんだろうか。

別の話になってもきっと相変わらずうだうだしてるんだろうけどなぁ。この先まだ10巻以上とか……付き合える自信がない……。

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