青池保子さんが『修道士ファルコ』のあとがきの中でこの「修道士カドフェルシリーズ」のTVドラマに言及してらして、興味を持ちました。

日本ではもともと社会思想社の現代教養文庫から刊行されていたらしいのですが、社会思想社さんは残念ながら2002年に廃業。

しかしめでたく光文社文庫さんで再刊され、全21作すべて、入手可能になっています。

このシリーズ1冊目には作家若竹七海さんによる「復刊おめでとう!!!」という熱いエッセイが付いており、「カドフェルシリーズってそんなにすごい作品だったの!?知らなくてごめんなさい」という気持ちになります(笑)。

TVドラマはNHK-BSでも放送されたことがあるそうな。

で、さて。

物語の舞台は12世紀のイングランド。シュルーズベリ大修道院。主役のカドフェルは57歳の修道士。

もとは十字軍の戦士で、15年ほど前に修道院に入ったらしい。

修道院では畑と薬草園を任されていて、戦士時代に諸国で手に入れた珍しいハーブなどを丹精に育て、品種改良なども行っています。

もとは「戦士」だった、というのは「ファルコ」と似ていますね。

最初のお話が「聖女の遺骨」に絡むストーリーというのも似ています。(「ファルコ」の方は正確には2話目が遺骨話ですが)

修道院にとって、「聖遺物」というのは本当に重要なものだったのですねぇ。「ファルコ」でも修道院に「箔を付ける」ために「よそから盗んでくる」という話が語られますが、この『聖女の遺骨求む』でも、イングランドからウェールズへ、わざわざ聖女の遺骨を掘り返しに行くのです。

夢のお告げで聖女ウィニフレッドの遺骨を探しに行くことになった修道院の一行。やり手の副院長ロバート、おべっか使いのジェロームらとともに、ウェールズ出身のカドフェルも通訳としてグウィセリン村へと向かいます。

ひとくちに「イギリス」と言っても当時のウェールズとイングランドでは、互いに何を話しているのかわからないぐらい言葉が違ったようで、村の娘が「英語(イングランド語)」を喋れるのは実は……というふうに、「言葉の違い」がちょっとした小道具としても使われています。

ウェールズの王様や教会から許可を取り付け、悠々と聖女の遺骨が眠るグウィセリンの村へ入った一行。しかし村の有力者リシャートに遺骨を動かすことを反対され、ロバートと村人達は険悪な雰囲気に。

そこへ殺人事件が起こり、ウェールズ語に堪能で、知恵も勇気も思慮もあるカドフェルがもつれた事件の糸を解きほぐしていく……。

いやぁ、すごく良かったです。

なんというか、ミステリーなんだけどファンタジーぽい。現代日本の人間にとって、ウェールズやら修道院やら聖遺物にまつわる奇跡なんて、ほとんどファンタジーですよね。もちろん殺人は起こるし、12世紀だからって権力欲や嫉妬で道を誤り他者を傷つける人間の愚かさは変わらないんだけど。

でも、やっぱり時間の流れ方が違って、無人機が地上の人間を無感情に掃討するような、そんな殺伐さはない。

人と人とがちゃんと向き合って生きてるっていうのかなぁ。たとえ殺し合う時でも、向き合って。

それはカドフェルの素晴らしい性格設定にもよるし、リシャートの娘シオニッドの勇敢さと賢さを始め、出て来る若者達の活き活きとした魅力、何よりカドフェルが(そしておそらくは著者であるピーターズ氏が)彼ら若者に向けるあたたかいまなざしによっている。

「真犯人は誰か?」という謎解きの部分もしっかりハラハラさせてくれて、でも「真実はいつも一つ!」なんて野暮なことは起こらない。

カドフェルの事件解決法は決して「真実を暴く」ことではなく、必要なら真実を隠してでも、より多くの人が幸せになる道を探すこと。

「正義」ではなく「良心」。

そこがなんともいいのですよねぇ。

聖遺物が起こす「奇跡」に、カドフェルはこんな感慨を漏らしています。

なにか理由があるなら、奇跡とはいえないだろう。奇跡は理性と矛盾し、理性をひっくりかえし、理性を手玉にとり、人間の賞罰を越えたところにあらわれる。つじつまがあうなら奇跡ではない。世界はこのままでいいのだ、風変わりで、つむじ曲がりのままで。そう思うとカドフェルは慰められ、楽しむことさえできそうで……(後略)。 (P310-311)

残り20冊、しばらく楽しませてもらえそうです。ふふふ。


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