2014年6月19日木曜日

『哲学入門』/戸田山和久



たしか新聞に本書の書評が出ていて、それを読んだあとでTwitter上で感想が流れてきたんだったと思う。

「序章だけでお腹いっぱい」みたいな感想(笑)。

図書館で見つけてぱらぱらとめくってみたら、なるほど確かにこれは「お腹いっぱい」な感じ。面白そう。

というわけで借りてみた。

新書なのに446ページもあって、普通の新書2冊分くらいのボリューム。でも内容は新書らしく(?)リーダーフレンドリーで読みやすい。お値段1000円と普通の新書より高いけど、2冊分の内容と思えば決して高くない。

うん、内容すごく濃くて3冊分くらいはあるから、高いどころか大変お買い得だと思う。

フレンドリーな語り口すぎてお腹いっぱいの前に少々「うざい」感じもするけど、読んでるうちに慣れてきたのか、そんなに気にならなくなった。裏表紙のすっとぼけた「著者近影」と言い、「自由」の個所で「自由っていったい何だーい!」と尾崎豊しちゃうところと言い、一般に思い浮かべる「哲学者による哲学の入門書」とはずいぶん印象が違う。

でも内容はとっても真面目だ。

けっこう難しい。

「情報」のところとか、logとかΣとか出て来るし。

きっと戸田山さんという方はシャイで、真面目なことを真面目に語るのが恥ずかしい人なんだろう、と思いながら読んでたらあとがきのところに

「生来、私はとても恥ずかしがり屋なのだ。幼稚園のおゆうぎなどでは、いつもニヤニヤ笑いを浮かべて、イヤ拙者、こんなカッコして踊りおるのは本意でござらぬ、というメッセージを発することに心を砕いていた」

と書いてあって、やっぱり(笑)。

それはともかく、この本で繰り広げられる哲学はこないだ読んだ『世界十五大哲学』で紹介されている「哲学」とはずいぶん違うし、さりとて「人生いかに生くべきか、それが問題だ」と悶々とするようなものとも違う(最後に「人生の意味」という章もあるけど)。

戸田山さんは「科学哲学者」であり、唯物論者なので、この『哲学入門』は

私がこれぞ本道だと思っている哲学、つまり科学の成果を正面から受け止め、科学的世界像のただなかで人間とは何かを考える哲学 (P12)

についての入門書。

『ホーキング、宇宙と人間を語る』の中で「哲学者はさぼってる!」「哲学者は科学の進歩に追いついていない!」などと書かれていたけれど、ちゃんと「科学的枠組みの中に哲学を位置づけようとしている哲学者」はいらっしゃる。

ありそでなさそでやっぱりあるものの本性という哲学の中心問題にダイレクトにとりくむ、というのが本書の基本姿勢だ。 (P12)

「ありそでなさそでやっぱりあるもの」というのは「意味」とか「目的」とかいったもので、「私たちはすべて原子からできているんだ」という「モノだけ」の枠組みからは一見導き出せないような事柄のこと。

「意味」「機能」「情報」「表象」「目的」「自由」「道徳」の7つの「ありそでなさそでやっぱりあるもの」について、それぞれ1章が割かれている。単に「自由って一体何だーい!どうすりゃ自由になるかーい!」と思春期の若者のようなことを考えるのでなく、そのような「存在もどき」をどのようにして「モノだけ世界観(唯物論)」の中に描き込んでいくか、というのが本書の課題。

戸田山さん自身の考えはもちろんだけど、ミリカン、ドレツキ、デネット、ネーゲルといった哲学者の議論が多く紹介されている。

「哲学入門」っていうとカントとかヘーゲルとか出て来るんじゃないか、と思ってしまうけど、そういう本じゃ全然ない。もっとずっと「最新」の、「今ドキの科学」としての「哲学」という感じ。

うん、すごく、科学っぽい。一つ一つ、論を組み立てて、「こういう考え方にはこういう反論が来て、でもそれについてはこう反論できて……」っていう。

全部すっきり理解できたわけでもなく、文字は追っていても頭に入ってこない部分もあったけど、『十五大哲学』よりずっと楽しく読めたし、「哲学したい」という若い人には刺激的な入門書だと思う。巻末の「参照文献と読書案内」も充実していて、「入門」から詳しい各論へと目を向けられるようになってる。

まぁ、若い人に

尾崎くん、ブルーハーツくん。いまこそ哲学の出番だよ。 (P291)

という文章がどれくらい訴えるかは謎だけど(笑)。

ここ、太字になってるんだよね。『相対性理論を楽しむ本』と同じで、重要なポイントは太字で印刷されてて、この尾崎くんとブルーハーツくんのところもわざわざ太字。なのに

私は中学生の時に、谷村新司やさだまさしを好むような人間には絶対なるまい、と決心したもんね。なぜかは忘れたけど。 (P347)

という個所は太字になってなかった(笑)。

何しろボリュームたっぷりなので、最初の方に読んだことをもう忘れちゃってるのだけど

(意味、機能、目的の三つに存在する重要な共通点)それは〈いまそこにないもの〉あるいはいまそこで現実化されていないことがらにかかわるということだ。 (P113)

〈いまそこにないもの〉へのかかわりは、生命を特徴づける重要な性質だとみなすことすらできるだろう。 (P114)

という話は非常に面白かった。

私たちは外界の情報を感覚器官で取得して、それをもとに脳内イメージを作り出し、「外界を理解している」んだけど、その「イメージ=表象」は間違うことができる。

「ネズミだ!」と思ったら違った、みたいなこと。

間違うことのできる表象をもつことにどんな利点があるか (P234)

「モノだけ世界観」では、今現在人間(や他の生き物)で実現されている機能は「進化の末に獲得されたもの」なので、「どういう利点ゆえにその機能が選択され次世代以降にも伝わったのか」というふうに考える。

もしもすべてをきっちり正確に表象しようとすればデータ量が膨大になるしエネルギーも必要で不経済だろう。本当に「正確」だったら個別のネズミしか認識できなくて、小さいのや大きいのやら色違いやらがすべて「初めて見る生き物」になってしまって、非常にめんどくさい。

めんどくさい以前に「これは食べられる(=餌になる)かどうか」を毎回個別に考えてたら、結論出る前に餌が目の前から消えてる可能性大。

色の違いや形の違いを詳しく観察できる能力はあってもいいけど、「餌になるかどうか」「危険な相手かどうか」みたいな生存に必要な情報はもっと大ざっぱに「カテゴリー認識」できないと困る。

で、「大ざっぱ」に認識できるがゆえに、「間違う」こともできてしまう。

間違うためには、現実に成り立っていないことがらを表象できなければならない。 (P234)

ネズミじゃないものを見て「あ、ネズミ!」と思うということは、「現実に成り立っていないこと」を認識できるということで。

妄想、空想、実現できそうもない高い目標といった「人間らしい機能」は「間違うことのできる表象」から来ているのだ!

ふぉーっ、なるほど。

下等な動物でも「大ざっぱな認識」してるんだろうけど、「間違ってた」ということはたとえば変なものを食べて呑み込んじゃってからしかわからないというか、「意識的にはわからない」のかもしれない。

変なもの食べちゃったので死んだ、という身体的な「結果」は生じるけど、「ああ、そうか、さっきのあれはネズミじゃなかったんだ…」という「間違い」の認識や「間違ったことに対する後悔」の認識なんてものは下等な動物にはなさそう。

人間以外の生き物は

とりあえず使い道のない情報を保持しておいて、いざというときにそれを使うことができない。 (P248)

という話も面白い。

これも「現実に成り立っていないことがら」「今そこにないもの」に人間は深く関われる、ってことだよね。

「今ここで必要じゃない」ものを、人間はストックしておくことができる。

ストックしすぎてうちの本棚とか大変なことになってますけども。

「自由」の個所では決定論的世界において「自由意志」は存在しうるか、ということが問題になり。

えーっと、私たちが原子の集まりからできていて、私たちの周りのものもすべて原子から成り立ってて、そのふるまいは「物理法則」によって決まっているとすると、私たちが「次にどんな行動をするか」もあらかじめ決まっているんじゃないか。「選択肢」とか「自由意志」があるように思うのは錯覚ではないか。

そうは言ってもすべてが「ランダム」だったら「こうすればこうなる」という予測が立たないのでやっぱり「選択肢がない」わけです。色々考えて一つの行動を選んでも、その結果がどうなるかは「神のみぞ知る」だったら、「色々考える」ことに意味がなくなってしまう。

回避、不可避性、可避性などが意味をなすのは、われわれのような有限の行為者にとってだけである。 (P333)

「神様」のように「すべてを知るもの」にとってすべては「予定通り」だから、「避けられること」と「避けがたいこと」の区別はない。ただ粛々と決められた通りのことが起こるだけ。有限の私たちは有限の情報に基づいての「予測」しかできないからこそ、それが「当たったりはずれたり」、あるいは「対策を立てられたり立てなかったり(そのことによって結果に差異が生じたように思うこと)」ができる。

「自由って一体何だーい!」と叫ぶときの「自由」の意味とはなんかズレているような気もするけど、「違う行動を選ぶことができる」とはどういうことか、っていうの面白い。

「道徳」の個所では

むしろ、ディストピアはその逆、つまり市民的自由は制限されている一方で、みんな責任だけは取らされる社会だ。だとすると、われわれの現実はもうすでにディストピアなのかもしれんよ。 (P395)

という文章に苦笑。ほんますでにディストピアになってる気が…。

最後、「人生の意味」のところはちょっと「人生相談」みたいになってて楽しかった。「この大宇宙の中で、ちっぽけな僕らの生に意味なんてあるのでしょうか…(P406)」 一般人が哲学者に教えてもらいたいことってここだよね(笑)。情報理論とか機能云々とかいう話じゃなくて。

人生を生きている当の本人なのに、その人生に対して外的・客観的な観点をとりえてしまう。このギャップが人生の無意味さを生み出している。 (P409)

人生に意味はあるのかないのか。戸田山さんの最後の結論には思わずニヤリとさせられてしまった。「なるほどそうだよね」とうなずきつつ、それでもやっぱり「人生の意味探し」を完全に捨て去るのは無理だろうなとも思う。

人間はめんどくさい機能を発達させたもんですね……。

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