(1巻&2巻の感想はこちら

『ローマ人の物語』続編にあたる書の後半です。

正直、ちょっと退屈でした(^^;)

海賊を主としたイスラム軍と迎え撃つキリスト教圏の海軍との戦い、局地的にはどちらかの勝利になっても全体としては膠着状態と言ってよく、あまり状況が変わらないまま同じような話が繰り返される感じで。

読み終わってから少し時間が経ってしまったこともあり、あまり内容を思い出せない……。

印象に残ったのは、キリスト教圏も一枚岩じゃ全然なくて、共通の敵であるはずのオスマントルコに対する時も足並みが揃わず、「たとえイスラムに対抗するためでもあいつら(キリスト教圏の別の国)に利することはやりたくない」とか言ってるの、現代とちっとも変わらない。

「裏切り者!」と言われつつトルコと同盟を結ぶ国もあったりして。

必ずしも「宗教」だけが対立要素じゃないんですよねぇ。

地中海世界を席捲した海賊たちの宗教がイスラムだったのはたまたまという気がしないでもないし、それをオスマントルコが利用してお墨付きを与えたとはいえ、地中海の日常風景としては「職業として海賊やってる連中とそいつらに“カモ”として襲われる海辺の町の住人」の対立であって。

でもやっぱり、そこに「宗教」が絡むことで話がややこしくはなってしまう。

宗教が介在しなければ、敵は単なる敵にすぎない。立場の上下も、力の弱い者が強い者に屈したにすぎない。だが、宗教が介在してくると、敵は敵でも単純な敵ではなくなる。 (第3巻P82)

権力や利益をめぐっての抗争ならば「勝者」と「敗者」にしか分れないが、そこに宗教が入ってくると、「正」と「邪」に分れてしまうからである。 (第3巻P133)

よく「同じ人間じゃないか」みたいな言い方をしますが、一神教徒にとって「異教徒」というのは「同じ人間」ではなくて「イヌ同然」。どんな扱いをしてもいいことになってしまう。

「異教徒」だけじゃなく、同じキリスト教・イスラム教の中でも「異なる宗派」は「異端」ということになって、場合によっては「異教徒」以上に排斥の対象になるわけで。

なんだかなぁ。

同じ一神教同士であるイスラム教とキリスト教のちがいは、それぞれの信仰の対象のちがいにはなく、信仰のしかたが正しいか誤っているか、にあったということだ。イスラム教徒にすればキリスト教徒は、唯一神への信仰を深める途次で誤った道に入ってしまった人々であり、それゆえに不信仰の徒であり、人間ではなくてイヌ、なのである。 (第3巻P109-P110)

こういうのを読むと、なんで人間は「一神教」なんか発明しちゃったんだ、という気になります。神様に頼るのはしかたない、宗教が生まれるのはしかたない、でも「他を認めない」形のものを……。

前に新聞記事でイスラムからキリスト教に改宗した人だったかその反対だったか、インタビューのようなものが載ってたのですが、どちらも「唯一絶対の神」を崇める一神教ですから、その方は「どちらの信徒の気持ちもわかる」にはならなくて、以前の信仰を完全否定してしまってる感じだったのですよね。

どちらかしか選べない、選ばない。せっかく二つの信仰を経験しているのに、「あっちは間違ってたからこっちに乗り換えた」にしかならないのって、なんかすごくもったいないことに思える。それが「一神教」だと言われればそれまでなんだけど、八百万の神の住まう日本に生まれた者にとっては、「あれはあれで“神”ではあった」にならないのがどうにも不思議に思える。

まぁ日本人だって「葬式仏教」と言われながら浄土宗と浄土真宗の間を移動するのは(別のお寺の檀家になるようなこと)かなり面倒くさそうだし(それは教義の問題というよりお金の問題のような気もするが)、「同じ仏教だと思ってたけどこんなにしきたり違うのか!」と嫁に来てびっくりしてたりするんですけども。

キリスト教徒であれイスラム教徒であれ、仏教徒であれ、「その信仰を自分で選び取った」という人はたぶん少なくて、「キリスト教徒の家に生まれたから自分も自然にキリスト教徒」「イスラム教徒の家に…(以下同文)」という人が圧倒的に多いでしょう。

たまたま日本の、神事にも仏事にもあまり熱心でない家に生まれたおかげで「キリストさんもマホメットさんもお釈迦さんも天照大神さんも菅原道真その他の皆さんもみんなありがたいってことでいいんでないかい」というテキトーな多神教観が育まれた私も、中東に生まれていればイスラム教徒だったのでしょうし、ロシアに生まれていれば正教会に通っていたのでしょう。

多神教の土壌で、自ら一神教の信仰を選び取る人はいて、でも一神教の土壌に生まれて多神教徒になる人はやはり少ないのでしょうか?

無神論は、一神教の裏返しで、やはりどこか「絶対の真理」を求めている気がします。「あれもこれも神様でええやん」という“緩さ”というのは、後天的には取得できないものなのでしょうか。

自分の生活が脅かされることさえなければ、現代人はことさらに「異教徒」を排斥したりしない……と思うけど……思いたいけど……。

1&2巻の感想でも書いたように、イスラム教徒とキリスト教徒がうまく共存した「シチリアの奇跡」のような事例だってちゃんと存在して、結局「ちゃんと食っていけさえすれば、異教徒であろうとなんであろうとむやみに争うことはない」っていう、そういうことなんじゃないのか。

文庫4冊にわたる「中世地中海世界の物語」の最後は、

「パクス」(平和)とは、所詮は普通の庶民の安全を保証することである、と思わずにはいられなくなる。そして、こみあげてくる苦笑とともに思う。人間とは、安全さえ保証されれば、けっこう自分たちでやっていける存在なのだ、と。 (第4巻P305)

で締められる。

畑を耕すにしても商売をするにしても、「安全にそれが行える」というのは大前提。特に農業なんて、その土地の安全が確保されていなければ、半年や一年かけて作物を育てるということはできない。

人の物を奪わなくても食っていけるなら別に海賊なんかやるまい、ということで古代ローマ帝国も

海賊業に関係していた人の全員を内陸部に移住させ、農地を与えて農耕の民に変えることによって、この難問を解決 (第4巻P307)

しています。

ローマほどの軍事力を持たなかったヴェネツィア共和国は

海賊たちの本拠地のすべてをガレー船の漕ぎ手の供給地にすることで若者には雇傭を確保し、生鮮食料を買い、船の修理所も建てることで中高年の雇傭も保証する (第4巻P307-308)

というやり方で海賊に対処した。

…空爆すればいいってもんじゃないんだよなぁ…。

「平和」だから「食っていけ」て、「食っていける」からよその国や人とむやみに争う必要が無く「平和」にやっていける。鶏が先か卵が先かみたいな話ではあるけれど。

あと。

びっくりしたのが「レパントの海戦」。

レパントの海戦といえばスペイン無敵艦隊、と記憶していたのだけど。

地中海世界最大で最後の海戦になる「レパントの海戦」とは、いずれも「海のプロフェッショナル」であることでは同じの、一方は海賊、他方は、常設の海軍を維持していた唯一の国であるヴェネツィアの男たちが、初めて正々堂々と正面きって激突した、海戦であったと言えるかもしれない。 (第4巻P249)

スペインも参戦していたけど、主力として戦ったのはヴェネツィアの海軍。

「無敵艦隊」と言われているスペイン海軍はレパントの17年後にはもうイギリス海軍に負けている。

トルコ艦隊も、海戦をしない間だけ「オスマン帝国の偉大なる海軍」であったが、スペインの「無敵艦隊」も、ヴェネツィアの参加もなしに彼らだけで闘うとなると、海戦しない間だけ無敵であったのだろう。 (第4巻P262)

わはははは。塩野さんたら辛辣。

スペインと同じく「海軍はたいしたことがなかった」らしい「オスマン帝国」。ちょっとWikipediaさんをのぞいたところ、今は「オスマントルコ」という言い方はしなくなってきているのですね。私が学生の頃は教科書に「オスマントルコ」と書いてあったような気がしますが。

なぜ「トルコ」をつけないか、Wikipediaさんによると

支配階層には民族・宗教の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の国家とは規定しがたいことを根拠としている。

だそうです。

塩野さんも

トルコ帝国では、宗教は、スルタンへの忠誠への絶対の条件ではなかったのである。生れたときはどの宗教を信じていようと、その後イスラムに改宗すれば問題はないということだ。 (第4巻P167)

と書かれていて、オスマン帝国が「海軍」として使ったイスラムの海賊の世界も「同時代のキリスト教に比べればよほど開放的ですらあった」と。

それに対してイスラムの海賊の世界では、市民権は「血」ではなく、「能力」に与えられるのである。赤ひげのようにギリシア人でも、シナムのようなユダヤ人でも、ウルグ・アリのようにイタリア人でも、イスラム教に改宗さえすれば道は無限なのであった。 (第4巻P151)

改宗しなくても一応「二級市民」として帝国内で生きてはいけたそうで。

住人として異教徒をまったく認めないキリスト教世界よりは「寛容」だったそう。

イスラム側が敵の総督に対して「そこまでするか!?」と思うような仕打ちをしたことも書かれてあって、「人間ってホントになぁ…」と思ったりもしますが。

領土欲や支配欲に駆られる権力者はともかく、庶民は「安心して食っていけさえすれば」ね……。

それが、一番難しいこと、なのかな……。(それを支配者が逆手にとって……ということもあるんだろうなぁ……)