『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』がすごく面白くて、西洋篇であるこちらも割とすぐに入手したんですが、読んでしまうのがもったいなく、大事に大事に後回しにしてました(笑)。

「東洋を先に読んでしまうと西洋は……」と以前の記事に書いたとおり、やっぱり東洋に比べると感動の度合いは薄いのですが、飲茶さんの語り口はわかりやすく面白く、かつ熱いので、「一応知っているけどちゃんとわかってはいなかった」西洋の有名哲学者の考えがすっと頭に入ってきます。

あー、そーかー、なるほどそーゆーことかー。

哲学に興味のある人はもちろん、そんなに興味のない人でもきっと面白く読めると思います。

この本では全部で31人の哲学者(とその思想)が紹介されているのですが、飲茶さんは31人をざっくりと

第一ラウンド 真理の『真理』
第二ラウンド 国家の『真理』
第三ラウンド 神様の『真理』
第四ラウンド 存在の『真理』

と四つのジャンルに分けてくれています。ここがまず、とってもわかりやすい。

それぞれのジャンルで「古代ギリシャの哲人たちはどう考えたか」→「近現代ではどう考えられているか」と思想の流れがよくわかり、最後には飲茶さんご自身の考え方も述べられていて、「今を生きる私たちはどうすれば良いのか」と考えさせられる内容になっています。

東洋は思索の方向が内なる「私」に向かい、西洋では外側の「世界」に向かう、と『東洋の哲人たち』の方の感想で書きました。

「真理」も「国家」も「神様」も、「外なるもの」ですよね。

中でも「この世界を成り立たせる絶対的な真理」を探究する、というのは西洋哲学の中心的な命題で、四ジャンルのうちで最も多い12人の哲学者が紹介されています。

一番最初に登場するのが古代ギリシャのプロタゴラス。プロタゴラスは、「絶対的な真理なんてない!」と言った人だそう。

ええっ、いきなり!?

「価値観なんか人それぞれさ」という相対主義的な考え方なんか、人類は、もう二〇〇〇年以上も前にとっくに通過しているのである。 (P24)

古代ギリシャ恐るべし。

その時代にすでに「価値観なんて人それぞれ。真理なんてない」という身も蓋もない結論が出ちゃってるのに、なんでその後延々と西洋の哲学者たちは「絶対の真理」を求めて呻吟し続けるのか。

それはプロタゴラスのすぐ後にソクラテスが続いたから、かもしれません。

当時のギリシャは「民主主義」社会で、政治家達は大衆から選ばれるために弁舌を磨いていたわけなんですが、そこでプロタゴラスの「相対主義」が大いに利用されて、「どんな主張でも覆し、黒を白に、白を黒に、見せかけることのできる最強の議論テクニック」として重宝されていたそう。

プロタゴラスから相対主義の哲学を学んだ政治家たち。(中略)彼らは、決して民衆に向かって真面目に政治の話なんかしたりはしない。だって、真面目に政治を語って、政治に興味のない民衆を退屈させるよりは、ただ耳に聞こえのいい、内容のないキャッチフレーズを繰り返した方が受けがいいに決まってるからだ。 (P28)

恐るべし古代ギリシャ(´・ω・`)

人類って結局当時から進歩してないというか、ぐるぐるループしてるだけなんじゃ……。

そんな「衆愚政治」に鉄槌を下すべく奮闘したのがソクラテス。奮闘しすぎて「危険人物」として処刑されちゃうっていうのもなんか、古代ギリシャ全然現代、って感じですね。

「価値観は人それぞれ」を盾に見せかけだけの言葉を弄するのでなく、やっぱり人間は絶対的な価値、真理、「ホントウの善」といったものを追究していかなければならないのだ!

というわけで西洋の哲人たちは「真理」を追い求め続けます。

『純粋理性批判』は1巻であえなく挫折し、『十五大哲学』でもやっぱりピンと来なかったカント大先生。でもこの『哲学入門』だと「なるほど」と思えます。「カント大先生がアプリオリだなんだと言ってたのはその前にヒュームの“結局全部経験だよ”って考え方があるからなのねぇ」、と理解できる。

そしてそのヒュームの「経験論」はその前のデカルトの「我思う、故に我あり」をも「懐疑」した結果であり……と、「流れ」が見えることによって話がとても飲み込みやすくなっているのです。

飲茶さんすごい。

ヒュームの「経験論」を踏まえて、カントは「でも人間が何かを見るときには、必ず『空間的』『時間的』にそれを見ている。すべては人間が経験したことに過ぎない、そして経験というのは人それぞれに違うものだけれども、その“経験の仕方”については“共通の形式”がある」と言った。つまりは「人それぞれ(相対的)」じゃない、「絶対的なもの」があると。

で、さらにカントは

「とはいえ、それはあくまでも『人間という種』にとっての真理である」 (P59)

と言う。

これは、「真理とは、人間の上位の存在であり、生きとし生けるものをあまねく貫く普遍的なものである」という今までの常識を覆す考え方であった。つまり、カントは、真理と人間の立場を逆転させてしまったのである。 (P67)

カント大先生の「大先生」たるゆえんはここにあったのですねぇ。

レヴィ=ストロースの項での西洋と東洋との「時間」についての考え方の違いの話も面白かったし、

――明日、突然私がいなくなったとしても、何事もなかったかのように機能してゆく。私はこの世界が恐ろしいのだ……。 (P119)

というレヴィナスの「恐れ」もめっちゃわかる。
前に内田先生の『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』という本を読んで、面白かったけどよくわからなかったんですが(^^;)

「他者」というのは単純に「他人」ということではなく、

だが、現代哲学において「他者」とは、「私の主張を否定してくるもの」「私の権利や生存にまったく無関心なもの」「私の理解をすり抜けるもの」など、さまざまな意味を表す抽象的な言葉となっている。 (P121)

ということを、『他者と死者』読んでる時には全然わかってなかったような気がします。


そんなわけで第一ラウンド「真理の『真理』」部分を紹介するだけでもうページ数が尽きてしまいそうなんですが(って、blogなんでページ数とかないけど)、「神様の『真理』」に登場するエピクロスには是非触れておきたい。

エピクロスさんは紀元前300年頃の人なんですが、神様についてこんな考えを持っていたそうな。

「もし、世間で言われているような万能で全知全能の神様がいるとしたら、いちいち人間なんかを気にかけるだろうか。全知全能な神様が、人間にあれをやってはいけない、あれを食べてはいけない、なんて言うだろうか」 (P222)

それな!

もうこれだけでエピクロスさんとはお友だちになれるなぁ、と思うんですが、

エピクロスは、そこで他者に「価値」を見いだし、その他者とともに楽しく生きた思い出さえあれば、死ぬことの痛みにすら耐えられるのだということを身をもって示した。そして、人間の自然な欲望を肯定し、人生を楽しみながら生きた彼は、友人たちに囲まれて幸福のうちに息をひきとったのである。 (P224)

と聞くに及んでは、「これぞ人間としてのあるべき姿」だと感じます。理想の生き方だよねぇ。もう紀元前300年に達成されちゃってるよね。

まぁなかなかそういう生き方ができないからこそ人は悩み苦しみ、あーだこーだと哲学するのでしょうが。

「神は死んだ」でお馴染みのニーチェの項では

「道徳」が「宗教」が「教育」が、無害で無欲で謙虚な人間であることを強制してくる。弱者であることを賛美するかのような綺麗ごとの数々。しかし、それらはすべて弱者のルサンチマン(恨み)にすぎない。 (P270)

という話に「ポリコレ疲れ」の人々を連想しますし、「存在の『真理』」の掉尾を飾るソシュールのところでは大学の言語学の講義をうすぼんやりと思い出します。

「言語とは、区別のシステムである」 (P329)

「区別する価値があるから、その区別に対応する言語が発生した」ということである。つまり、言語とは、「存在をどのように区別したいか」という価値観に由来して発生するものであり、その価値観の違いこそが、言語体系の違いを生み出しているのである。 (P333)

日本人は「水」と「湯」を区別するし、「米」と「ご飯」も区別するけど、英語では「water」であり「rice」である、というようなこと。逆に英語では「cow(雌牛)」「bull(雄牛)」「ox(去勢した雄牛)」と「牛」が細分化されていたりします。

文化によって「何を区別するか」が違う。つまりは「見ている世界が違う」。

面白いですねぇ。

まぁ、「言葉はただ人間が思い込みで線を引いてるだけ」って考えは東洋ではさっさと「前提」にされていて、言語による区別=「分別智」を超えたところに梵我一如の境地=「悟り」がある、東洋哲学の「真理」は言語では説明できない、『東洋の哲人たち』の方で説明されてたんですけども。

この西洋篇を踏まえて東洋篇を読み返したらきっとさらに東洋篇を面白く読めるんだろうなぁ。


というわけでどちらも超お薦めですが、まずこちらを読んで、その次に『東洋の哲人たち』をお読み下さいませ。

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