映画を3回見直し、勢いでノベライズも再読。我ながらこのドはまり粘着体質はなんとかならんのだろうか(^^;)

しかし映画を観た直後に読むと、「ここが違う」がさらによく分かって面白かった。昔読んだ時は映画館で一回観ただけの記憶が頼りだったからなぁ。

昔読んだ時には「上下巻合わせて1000円!もう1回映画が見られる!」とさもお高いように書いちゃってるけど、今なら文庫が1冊500円なら御の字だよねぇ。しかもちゃんとカラーページがついてるんだよ。上下とも、巻頭に映画のシーンがカラーで数ページついてる。

パンフを買ってなかった私には非常に貴重な映画のカット集。これで500円(税別476円)は安い!

で、前にも書いたとおり、映画とは細かいところがだいぶ違う。
醍醐と争って負けた金山の落ち武者達がかなり大きな動きをすること、そして鯖目が殺されずに生き延びて、鯖目とマイマイオンバとの間に生まれた半人半魔の子の一人も生き延びて、重要な役割を担うこと。

アニメではばんもんを挟んで醍醐と争っているのは「朝倉」で、原作コミックもそうじゃないかと思うんだけど(読んだのにもう忘れた)、映画では「金山」なんだよね。なんか、朝倉という名前は使いづらかったのかな。鉱山資源があって、そのせいで周囲から攻められ……みたいな設定だし、そこから「金山」という名になってるみたいだけど。

で。 

映画でも「名付け」が意味を持っていたとおり、のっけから

だが、その時、どろろはまだ『どろろ』とは名乗っていなかった。まだ、百鬼丸と出会っていなかったからだ。 (上巻P18)

という記述。続けて百鬼丸も「まだ百鬼丸じゃなかった、どろろと巡り会ってなかったから」、って。
もうね、ほんと、ノベライズは映画以上に「ボーイミーツガール」が強調されてる。映画ではベタベタした感じがなくて、「友だち以上恋人未満」な雰囲気が良かったけど、小説ではどろろの「月のもの」の話までされちゃうから。

うん、まぁね、いくら中身がガキでも体は育っちゃってるからね……。
オスカル様とかどうしてたんだろうなぁ(そこ考えない考えないw)。

胸のふくらみもさらしで抑えてるし、最後はさらしがほどけちゃって、そのやわらかくあたたかい胸に百鬼丸を抱く、みたいな。

ちくしょー、照れるぜ。

そこまではなー、書かなくてもなー、と思う一方、VFXで派手に魔物退治できない分、心理描写やその辺の二人の関係を濃密に描いていくのは仕方のないところ、とも。「脚本」ではなく、「小説」なんだもんね。

上巻の終盤で、映画で大好きだった「二人での魔物退治道中」が描かれて、ほぼ一年、二人は一緒に旅をしていることになってるから、そりゃあどろろの「月のもの」にも気がついちゃうわけだけども、ここでね、どろろのおかげで百鬼丸が「季節のうつろい」を感じるようになり、笑うこともできるようになった、ってことがしっかり描写されてるの。

(どろろは)百鬼丸の昏い怒りや恨みに共感しながら、百鬼丸には表せないほどあからさまに喜怒哀楽を表して、百鬼丸の内に鬱々と凝っていたものを徐々に晴らしていったのだ。 (上巻P205)

どろろと出逢ったことで、どろろと一緒に魔物を倒していくことで、「体を取り戻す」以上に、季節感を、笑顔を――人らしい心を取り戻していく百鬼丸。そこが丁寧に描かれれば描かれるほど、その後の、「実は自分はどろろの親の仇だった」という話がつらくなる。

それを知った時の、百鬼丸の衝撃、哀しみ、やるせなさ……。たたき落とされる孤独の淵は、以前とは比べものにならないほど深く、険しいものになる。

その後、魔物たちに言葉で嬲られるシーンでも、「血を分けた親に捨てられ、供物として魔物に捧げられ、ここまでどんな喜びがあった?一面の闇だろう?」と言われて、百鬼丸は「違う!」とどろろとの日々を思い起こす。

ああああ、これよ、これなのよ。
百鬼丸を救うのはどろろ、百鬼丸が鬼ではなく“人”として生きていけるのはどろろと出逢ったからこそ、という描写が、新アニメでは最後薄れちゃったんだよなぁ。
(新旧アニメの最終回に関する感想はこちら

まぁ、映画でもノベライズでも「どろろの背中に描かれた宝の地図」はまったく出てこないから、そこを生かしたアニメでは「どろろにはどろろの道が」も描かざるを得なくって、百鬼丸側の話とうまく絡めるのが難しくなるのはわかるんだけど。

手塚治虫自身が、そこ、ほったらかして終わっちゃってるんだもんね。

一応ノベライズでは、どろろの父親“火袋”は野盗になってから死んだ、彼を野盗に引き込んだのは“イタチ”という男、ってイタチも名前だけは出てくる。

百鬼丸という異形の子の数奇な運命を描きつつ、戦乱の世に翻弄される民衆たちの怒りや悲惨をも描いていた原作に比べると、映画もノベライズもそこはとても薄い。

マイマイオンバに子どもを(結果的に)食わせていた村のくだりで、「ひどい領主と戦のせいでとても子どもを養っていけない」という嘆きが出てくるだけ。

ノベライズでは澪と、彼女が面倒を見ていた孤児たちの話も出てきて、彼らを殺すのは金山の落ち武者たち。
そのことが、最終盤で百鬼丸を“鬼”に変える一因ともなる。

ノベライズでは醍醐景光は映画以上にいい人で、多宝丸が生まれてからは「無茶な侵略」をあまりしなくなるし、「二人を深く愛していた」ふうに描かれてるんだよね。
映画ではあっさり妻を斬っちゃってたけど、ノベライズでは妻も多宝丸も金山に殺されちゃってて、多宝丸の遺骸に金山の人間が唾を吐きかけるのを見て、百鬼丸は怒り心頭に発しちゃう。

なんでこういう展開なのかな、と思わないこともなかった。
醍醐にやられて落ち武者になって、「我らの悲惨さを想像できるか!」とか言ってる金山より百鬼丸の境遇の方がさらに悲惨だし、どろろをはじめ孤児になった子どもたちの方が……と思わせるための金山なのかなぁ。

結局のところ、領主同士の――武士同士の争いはバカバカしくて、民を苦しめるだけのもので。

金山に比べると、鯖目とマイマイオンバの子の一人が生き延びてるのはいいエピソードだった。その子どもが「母様の仇」として百鬼丸とどろろを襲うことで、「醍醐を親の仇」と狙う自分も誰かの親の仇になってしまっていることをどろろに考えさせる。

どろろもマイマイオンバの子も、結局は「仇討ち」を諦めて、そういう「恨みの連鎖」をどこかで止めない限り争いは終わらない、って話にもなる。

どろろのセリフに

『戦』なんてもんはありゃしねえ、ただ馬鹿がいるだけだ。馬鹿がいるから戦が起こり、馬鹿ばっかしだから仕舞えに出来ねえんだ! (上巻P201)

っていうのがあるんだけど、「全部戦のせい、戦が悪い」って言うけど、そうなんだよね、悪いのは人間なんだよ……。

マイマイオンバの子どもは「人間と魔物の子」で、百鬼丸以上にストレートに「人として生きるか、魔として生きるか」を選ぶことになる。どちらを選んでも、人間からは「魔物」として扱われるに決まっている。それでも彼女は“人”として、一人ぼっちになった父親に寄り添うことを選ぶ。

映画以上にいい人とはいえ「おまえを魔物に食わせたことを後悔はせん!」と言って格好つけて死んで行く景光と、細々と一人罪滅ぼしに生きる鯖目。
魔と契り、子どもを食わせた景光と、魔と契り、子をなした鯖目。

「余談かもしれないが」、と前置きして語られる鯖目と娘の話にはほっとさせられるものがあるし、本当は誰もが――人間の子として生まれた者も、改めて自身で「人として生きる」ことを選ばなければならないのではないか、と思わせられる。

ただただ醍醐の首を挙げることのみを生きがいとして狂ってしまった金山の者達と、仇討ちの妄念から冷め、父のもとへと帰った半魔の子と、どちらが「人らしい」のか――。


片耳を取り戻してもいたために、言葉を音として聞き、その表面に囚われてしまうようになっていた。 (下巻P103)

体を取り戻すにつれ特殊能力が薄れ、斬られれば激痛が走るゆえにそれが恐怖ともなり、心身ともに弱くなっていく、ということもしっかり描かれているし、

「おめえらみんなホゲタラだッ!」 (上巻P199)

という昭和版アニメへのリスペクトセリフがあるのも楽しい。
最後、百鬼丸がどろろに「金的蹴り」を喰らう前提として、「いつそこを取り戻したか」までちゃんと書かれてたりして。

あと、今回映画見直して気づいた「百鬼丸の額の十字傷」。

多宝丸の目には、百鬼丸の額に刻まれていた十字の傷は、景光の跡継ぎの証としか映らなかった。 (下巻P249)

やっぱりそういう演出なのねぇ。

どろろの背中の隠し地図以上に、このラストは原作と違うところではある。百鬼丸が「醍醐の跡継ぎ」として認められ、多宝丸によって帰りを待たれるとこ。

原作も旧アニメも、そもそも多宝丸途中であっさり死んでるし、新アニメでは大きくクローズアップされたものの、やっぱり死んじゃうもんね(^^;)

旧アニメではさらに百鬼丸、一人寂しくどこやらへと去ってしまって……。原作も旧アニメも、どろろと百鬼丸が出逢ったことの意味が最後、よくわかんなくなっちゃうんだよなぁ。旧アニメのどろろは「兄貴の分も幸せにならなきゃ」ってとってつけたように言ってるけど、もともと一人でたくましく生き抜いてきたどろろ、百鬼丸に逢ってなくても人生そんなに変わってそうじゃない。

体を取り戻したあと、魔物を全部討ち果たした後、百鬼丸には何が残るのか。ゴールではなく“普通の人間”としてのスタートを切るために、どろろとの出逢いがある――どろろがいる、であってほしいよね。


はぁ。
12年ぶりの映画とノベライズ、楽しかったです。