(※これまでの感想記事はこちら→1巻2巻3巻なお、以下ネタバレありまくりですので、これからお読みになる方はご注意ください

はぁ、読み終わってしまった。
長い物語を読み終わってしまうのは、ほんとにさびしいですよね。もうこの世界に浸れない。

1巻目は少しとっつきにくいんだけど、お話が進むにつれて登場人物にも世界にも慣れてどんどんと面白くなり、この最終4巻目ではそれまでのピースがぴたりと嵌まる快感が味わえます。

3巻目で弁護士タルキングホーン氏が殺され、元騎兵のジョージがバケット警部によって逮捕されてしまう。

ジョーを最後に引き取ってくれたジョージ、後ろ暗いことには関わらない、と、報酬を提示されても「かつての上官から預かった手紙」を渡そうとしなかったジョージ。
逮捕されても

「真実にもとづいて無罪にしてもらえないなら、真実以外の、あるいは真実以下のものをつかって無罪にはなりません。それでなんとかなっても、おれには無意味なんです」 (P80)

と「良い弁護士を雇おう」というジャーンダイス氏の申し出も断ってしまう。

「弁護士は俺を有罪だと思いながら証拠を隠滅したり相手の揚げ足を取ったりして無罪放免を勝ち取ってくれるんだ」ってとこ、「それな」って思っちゃいますけども。
自分を無罪だと信じてもいないくせに、口八丁手八丁で無罪にしてもらっても……。まっすぐすぎるジョージ。ちょっと「カラマーゾフ」のミーチャを思わせる。

ただ、そうは言ってもジョージも母親には弱くて、ずっと絶縁状態だった母親が姿を見せると、「母さんの良いようにしてくれ」みたいになっちゃいます。そしてこの「ジョージの母親」が実はデッドロック夫妻のところの女中頭なんですよね。

最初からその女中頭には「音信不通の次男がいる」ってことが言及されているので、ちょっと考えれば「その次男がジョージ」は予想がつくんですけど、4巻目に入るまで予想できてませんでした。ははは。

ジョージの母がデッドロック家の女中頭だったことで悲劇が起きてしまう。
彼女がデッドロック夫人に「私の息子が殺人犯として疑われてる!」って泣きついたがために、夫人は屋敷を出て行く羽目に。

実はその前に(か、ほぼ同時刻に?)真犯人捕まってるのに――それもデッドロック家で。

お屋敷が大きすぎて全然騒ぎが聞こえないってことなの??? 誰か夫人に一言「タルキングホーン氏殺害犯は捕まりましたよ」って言いに来てくれていれば……。

その捕り物の絡みでデッドロック卿は夫人の過去を知ってしまうんだけど、それでも卿の夫人に対する愛は全然変わらない。色々なショックで倒れてしまいはするけど、床に臥しながらも行方をくらましてしまった奥方の身を案じ、自分にもしものことがあった時のために、と遺言めいたことを口にする。

「神かけて言うが、奥との関係は前とまったく変わらぬ。奥に対する不満の種など何一つない。私は奥を心から愛しておる。その気持ちはいささかも減じておらん。それを奥と、世間に対して言ってもらいたい」 (P266)

「私は正常な判断力と記憶力を持った人間として言う。いいか、奥への贈与財産に変更はない。奥に与えたものの変換も求めない。奥との関係には何の変化もない。これまで奥の幸せと利便を図るためになした何事も反故にする気はない――する力はあるが。敢えて行使しないのだ。」 (P266)

労働者階級なんてとんでもない、自分のところで働いている娘を労働者の嫁にやる、という話だけでも「ぞっとする」みたいな反応を見せていた、根っからの上流階級の人間であるデッドロック卿。

この場面に来るまで、さほど「いい人間」とも思われなかったんだけど、彼の下々を蔑むような「貴族的な態度」は、彼のような生まれの人間にはある意味不可抗力のようなもので、必ずしも「悪い人」ではなかったのよね。

でもデッドロック卿がこれほどまでに愛情深い人なら、変に隠したりせずもっと早くに過去を打ち明けていれば……。デッドロック夫人はそうしようとしたけど、タルキングホーン氏が止めたんだよな。全部タルキングホーン氏のせいじゃん……。

まぁこういう状況だったからこそデッドロック卿も「愛情は変わらない」と言えたのかもしれなくて、もっと早くに告白されてたらどうだったかはわからないけど、でもこの卿の愛情溢れる言葉をデッドロック夫人はついぞ聞くことがなくて……ああ、あまりにも哀しい結末……。

真犯人を捕まえる際のバケット警部のお手並み、滔々たるセリフすごいし、その後エスターと一緒にデッドロック夫人を追いかける際の手際の良さと熱心さ。
イギリス小説で本職の「刑事」が出て来るのはこの作品が初めてらしく、イギリスミステリーの祖ともされているそう。解説によると、かのアガサ・クリスティがこの作品の映画シナリオを書いたこともあるのだとか(残念ながら日の目を見なかったそうな)。

バケット警部、エスターにはとても親切だし、ものすごく真剣に、迅速に、デッドロック夫人の身を心配して、彼女を探してくれるんだけど。

でもジョーを殺したのもバケット警部、と言えないこともないんだよなぁ。3巻の終わりでジョージを逮捕する時のやり方も……っていうか逮捕しなくても良かったんじゃないの???あの時点ではまだ真犯人はまったく当たりがついてなかったの???

ジョーに対しては、「たしかにかわいそうではありました」と言うのよね。でもそれに続けて

「それに、めんどうな存在でもありました。あの子はロンドンからも、ほかからも、とおくはなれたところにいりゃそれでよかったんです」 (P223)

そんなの勝手だよね…。じゃあちゃんとどこか施設にでも入れてあげればよかったのに。バケット警部は確かにジョーを病院には入れてくれたけど、その後はただ「遠くへ行け」だったんでしょう? ロンドンしか知らない、身寄りも頼る相手もない、まだ子どものジョーに。

バケット警部は職務に忠実なだけで、決して情のない人間ではないけど、ジョーのような立場の人間はやはり「人間」とはあまり思ってないんだろうなぁ。そしてそれが当時の現実なんだろうな……。

そういえばデッドロック夫人を探す過程で、手がかりを持ってる相手に「誰に聞いてきた?」と凄まれたバケット警部、

「二列の真珠貝のボタンがついた青いコーデュロイのチョッキをきた、マイケル・ジャクソンという名の男だ」 (P230)

って返事してて、「えっ!?」と思ったんだけど、これ、原著では「当時有名な役者の名前」とかで、テキトーにバケット警部がそれっぽい名前を出しただけなんじゃないか、と思ったんだけど、ちくま版見てみたらちくま版もマイケル・ジャクソンだったんだよね……。

「マイケル・ジャクソンという名前の男だ。真珠のボタンがダブルについている、青ビロードのチョッキを着た男さ」 (ちくま版4巻-P190)

特に訳注もないから原著もマイケル・ジャクソンなのかな。もちろんディケンズの時代に“KING OF POP”マイケル・ジャクソンはまだいないから、まったく偶然に、「よくある名前」としてマイケル・ジャクソンが使われてるんだろうか。

で。

物語が始まる前から――もう何年も、ずーっと続いているジャーンダイスvsジャーンダイス訴訟。要は「莫大な遺産相続に関する訴訟」で、相続の権利を持つ者達はその訴訟の行方に文字通り人生を翻弄されてきました。

エスターとともに荒涼館に引き取られた「ジャーンダイス訴訟に権益を持つ若者」リチャードとエイダ。二人はすぐに惹かれあい、3巻目で結婚することになるのですが、リチャードは「いずれ遺産が手に入る」と思って、まったく仕事が手に付かない。何をやっても集中できず、また、「いずれ遺産が入れば」と思ってしまうのですぐ借金してしまう。

エスターやエイダが心配し、注意しても、「これを買わなかった分のお金が儲かったから…」という考え方をして、やっぱり無駄遣いをする。実際にはお金増えてないし、そもそも無職でお金は減る一方なんだが……。

でもこれ、めっちゃ「私じゃん!」でもあって。

私も無職で稼ぎがないのに、「この数ヶ月鍼灸院行かずに済ましてる!つまりその分の数万円で○○が買える!」みたいについ思ってしまう。鍼灸院行ってない分○○を買ってもいいじゃないか、と。

いや、だからそれ、別に数万儲かったわけじゃないし。
使わずに済むなら貯金というか、余計な出費でマイナスになってたのがやっと0に戻るだけなんだよ?

うう。
リチャード、君の気持ちはわかるよ、ほんと。遺産さえ手に入れば……ジャーンダイス訴訟が決着しさえすれば、鍼灸院なんて……!

リチャードの性格描写、訴訟によって人生を狂わされていくその描写、実にうまいです。そして大方の予想通り、訴訟が決着してもリチャードは幸せにならない。

なんとなれば。
あまりに長引いた結果、訴訟費用だけで遺産は食い潰されてしまったのです!
いやぁ、もう、ほんとにね。
ジョージが「弁護士だの法律家だのってやつは信用できない」って言ってたの、めっちゃわかる。解説でも触れられてるけど、リチャードを「その気にさせていた」弁護士たちはみんな、「早晩この訴訟は遺産を食い潰して終わる」ってわかってたはずで、わかってても、訴訟に関わっていれば報酬は受け取れるわけで。

「なかなか終わらない訴訟」って、弁護士連中にとっては願ってもない金づるだったんだよなー。
当時実際にこういう「長いこと決着のつかない訴訟」があったそうで、大法官裁判所の審理の遅さは有名だったよう。そしてディケンズ自身、海賊版に関する訴訟で「自分が勝ったのに、相手側に支払能力がなく、訴訟費用を負担させられる」という憂き目に遭ったのだそう。

ジャーンダイス氏にはこんなことも言わせてる。

「おいおい、トロットおばさん! ジャーンダイス訴訟のどこが理にかなうんだね! 一番うえに理不尽と不公平があって、まんなかと土台に理不尽と不公平があって、はじめからおわりまで――おわりがあるとしてだが――理不尽と不公平だらけのあの訴訟にずっとつきあってる、かわいそうなリックがどうやってそこから理屈をとりだせるっていうんだね?」 (P311-312 ※“トロットおばさん”というのはエスターのこと)

訴訟には近づかず、エイダやエスターを引き取って後見し、リチャードに「敵」認定されてもこんなふうに「かわいそうなリック」とその窮状を心配するジャーンダイス氏。ほんとにいい人なのよねぇ。

実はジャーンダイス氏、エスターにプロポーズして、エスターも一旦はそれを受け入れたのに、エスターが本当はウッドコート氏を好きだったこと、ウッドコート氏の方もエスターを愛しているということを知って、身を引くんですよね。

「わたしはじぶんのしあわせをかんがえすぎた。きみのしあわせもかんがえたんだがね。きみがとてもわかかったころ、わたしはいつかきみを妻にむかえたいという夢をいだいた」 (P407)

ちょっとね、ジャーンダイス様いい人すぎるよね。「いつかきみを妻に」と思いつつもがっつくことなく一つ屋根の下で暮らし、プロポーズを承諾されても静かに、結婚をせっつくことなく過ごし、ウッドコート氏との関係を知ると潔く身を引くだけでなくエスターの背中を押してやる。

ジャーンダイス様、天使……!?

リチャードの造型、ジョージやバグネット夫人、そしてもちろん一人称でのエスターの「揺れ動く娘心」の描写も見事だけど、ジャーンダイス様だけは、「こんないい人現実にいるわけないじゃん」と思ってしまうなぁ。
ジャーンダイス様に幸せになってほしかったぞ。
いや、ご本人は「幸せだよ」って言ってらっしゃるけど(どこまでいい人なの(;_;))

ちなみにちくま版では「かわいそうなリック」のくだり、

「しようがないさ。このジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件に筋の通ったことなんかあるものか! てっぺんから底まで、始まりから終りまで――もっとも終りがあるかしらねえ?――筋の通らぬ不正なことばかりじゃないか。いつもその事件の周辺でふらふらしている気の毒なリックが、その結果筋の通らない人間になったとしても、しかたないじゃないか。昔からこのかた、野いばらにぶどうの実がなったり、あざみにいちじくのなるためしはないんだから」 (ちくま版4巻-P261)

と訳されています。
「野いばら云々」の部分には「新約聖書『マタイ伝』第七章第十六節参照」という訳注がついてますが、岩波版ではその箇所はまったく訳されていませんね。

2巻の感想記事に書いた、エスターがエイダのことを「鬼瓦ちゃん」と呼ぶ場面、4巻末尾の解説で少し触れられていました。
エスターの心理について、その性格描写の見事さについて解説されていて、「なるほど、ディケンズほんとすごいな」と思うんですが、そこでさらりと「鬼瓦ちゃん」の原文が「アグリー・ダーリング」であることが紹介されているんですね。

でもなぜ「アグリー・ダーリング」が「鬼瓦ちゃん」なのかは説明がない。直訳すれば「みにくい“可愛いor愛しい人”」ですよね? 「醜い」という意味を出そうとして「鬼瓦」出してきてるんだろうし、一言で日本語にするのが難しいのはわかるけど、ちょっと引っかかるなぁ。今どき「鬼瓦みたいな顔(=ブス)」とも言わないだろうし……。


ちくま版とところどころ比べながら読むの面白かったし、物語も面白かった♪
読んだことあるのに、内容まったく覚えてなくて、おかげでミステリ仕立ての部分も新鮮に楽しむことができました。

昔読んだ本も「もう読んだ」と思わず読み返すとほんと面白いですね。
『大いなる遺産』も読み返したくなってきたわ……。


(こちらは河出で新訳が出ているのね。そそるわ)