いやぁ、面白かった!
第一弾、第二弾が正直微妙だったので、どうなんだろう?と思いつつ京都まで観に行ったんですけど、予想以上に良かったです。
(第一弾『GOZEN~純恋の剣~』の感想はこちら、第二弾『死神遣いの事件帖~傀儡夜曲~』の感想はこちら)
『GOZEN』は完全にギャグだったし、『死神遣い』の方も割とコメディ寄りだったけど、今回の『漆黒天』はタイトルどおりダークなお話。人間の「負の側面」、「狂気」を描いた悲劇です。『PSYCHO-PASS』の槇島さんが好きな人はきっと好き――って、単に私が槇島さん好きなだけですが(^^;)
(※以下、ネタバレありまくりです。これからご覧になる方はご注意下さい。何も知らずに見た方が絶対に楽しいと思います。いつもながら記憶違い等誤りはご容赦を)
(※公式サイトはこちら)
予告にもあるとおり、荒木宏文さん扮する主人公には記憶がない。自分が何者なのか、なぜ命を狙われるのか、さっぱりわからぬまま、圧倒的な剣技で数々の刺客を返り討ちにしてきた。
のっけから「ボロを纏って髪もボサボサ」の荒木さんが大勢の侍たちと大立ち回り。その格好いいアクションに引き込まれます。
ムビステ第一弾は「御前試合」がモチーフのはずなのに全然試合しなくてチャンバラ好きには本当に物足りなかったけど、今回はさすが坂本監督、アクションたっぷりで楽しい!
主人公の戦い方、必ずしも「剣の腕」だけじゃなくて、蹴りやら何やら体術部分がまた凄いんですよ。単純な「チャンバラ」じゃないところがまた坂本監督らしくて好き。
それに主人公のキャラクターというか「背景」的にもこの、「何でもあり」っぽい戦い方に意味があるんだって、しだいにわかってくるんですよね。武士の剣技とは少し毛色が違う強さ。
刺客たちは口々に「あいつを殺すことはできない」「寝込みを襲っても獣のような直観で反撃してくる」「化け物のように強い」とか言ってて、「それでも我々はヤツを倒す!」と悲愴感たっぷりに打ちかかっていって、バタバタと死んでいく。
自分が何者なのかわからない主人公はそのうちの一人に「おい、死ぬな、俺は一体誰なんだ、おまえたちはなぜ俺を襲うんだ」と問いただすんだけど、相手は意味深なことしか言わずに息を引き取ってしまう。
その男が残した唯一の手がかりが「宇内陽之介」(うだい・ようのすけ)という名前で、「おまえを殺すのは宇内陽之介の怨念だ」とかなんとか。
で、主人公は江戸の町にやってきます。もしかしたら自分を知っている人間がいるかもしれないと思って。
そこで出会ったのがイエローバスター・小宮有紗ちゃん扮する喜多。チンピラに追われていた彼女を助けたことで、主人公は彼女から“名無し”という名前をもらいます。
「いや、それ名前じゃねぇじゃん」というツッコミはお約束。
喜多ちゃんとの出会いはあまりにも「ありがち」なんだけど、そこにもちゃんと意味があるんだよなぁ。よくできてる。
喜多の知り合い、狂言作家の玄馬宗吉の家に厄介になることになった“名無し”。玄馬役は仮面ライダー555の海堂さん等でお馴染み唐橋充さん。
東映ですからね、特撮でお馴染みの方々がたくさん出ています。私などはそれ目当てに観に行ってるようなものですから、ええ。喜多を追いかけてたチンピラの兄貴の方は鎧武の城乃内、松田凌さん。城乃内、立派なチンピラになって~。
荒木さんはゲキレンジャーのリオ様ですし、同じくゲキレンジャーのジャン・鈴木裕樹さんは今回与力の玖良間役。ジャンもすっかりおじさんになって~~~(そりゃそう)。
目がすごい印象的でしたね、鈴木さん。基本ずっと睨みつけてる感じのキャラクターだから、大きな眼が活きる。この玖良間って与力が例の刺客たちのリーダー格っぽくて、最初からものすごく思わせぶりなんだけど、なかなか正体を――なぜ“名無し”を追っているのかを明かしてくれない。
なんせ「“名無し”は一体誰なのか」がこの映画の肝(きも)で、「誰なのかわからない」ことに意味があるんだもんなぁ。
“名無し”以外の登場人物はみんな、彼を「○○」だと思っている。
でも“名無し”本人と映画を見ている観客にはなかなか情報が開示されない。
かつて江戸を騒がせた「日陰党」の話を聞き、何やら思い出しかける“名無し”。何も覚えていない彼が唯一覚えているのが、「武家の妻らしき女性と子ども2人が血の海の中に倒れている」光景で、「あれはきっと私の家族だ」――「日陰党とやらに殺されたのでは」。
そうして“名無し”は廃墟となった武家屋敷で、「自分はここに住んでいた」「ここで妻と子どもが殺されていた」ことを思い出す。
自分は、「宇内陽之介」だと。
最初に「おまえを殺すのは宇内陽之介の怨念」と言われていたのに、“名無し”自身が宇内陽之介???
もしかして、入れ替わられたのか?
何者かが宇内陽之介になりすまし、本物の方に妻子殺しの罪をなすりつけた。追われる身となった本物の陽之介は逃亡の果てに記憶を失い、“名無し”となった――?
実は、現在の“名無し”の状況とは別に、「謎の父子」の物語がちょこちょこ差し挟まれていてですね。それを見ている観客は、「この子どもが“名無し”なのかな、それとも?」とずっと考えさせられていたんです。
鴻上会長こと宇梶剛士さん扮する父親・九善坊は相当な悪人らしく、息子に人殺しの技その他、「日陰の道」で生きていく術を文字通り殴ったり蹴ったりして「叩き込んで」いる。「俺をこんなふうに育てたのはあんたじゃないか」「いつか必ず殺してやる」と息子は彼を憎んでいるけど、そもそも二人は本当の親子じゃない。
首を絞められ地中に埋められていた赤子。奇跡的に息を吹き返して泣いていた赤子を、九善坊は拾って育てた。「いつか日の当たる道に」という希望をこめ、「旭太郎(くたろう)」と名付けて。
九善坊、ほんとにめっちゃ旭太郎のこと叩きのめすし、いい父親とは絶対に言えないんだけど、旭太郎にかける「生きているうちが花だ」「せめて生きているうちは笑えよ」といった言葉はなんか妙に良くて、最後旭太郎に殺される時の台詞や表情からも、彼は彼なりに旭太郎を愛していたんだろうなぁ、と思えて、なんか、すごく良かった。
旭太郎にしてみれば、「あのまま地中で死んでいた方が良かった」と思える過酷な十数年だったんだろうけども。
で、「この旭太郎が“名無し”なのか?」と思うわけなんだけど、「首を絞められ埋められていた赤子」という時点で、「あ~、双子か」とも思うので、「宇内陽之介と“名無し”は双子」「“名無し”と陽之介が入れ替わった」のかな?と思いながら続きを見ていくことになる。
九善坊に「笑え」と言われ続けて、でも一度も笑ったことがなく、「笑い方がわからない」旭太郎は、「笑み」を刻んだ面を作っていて、江戸の町で「自分自身」を探す“名無し”の前に、その面を被った男が現れる。
面の下は案の定、“名無し”とそっくり同じ顔。
で、ここからずーっと、「どっちがどっちなんだ?」ってなるんですよ。
他の登場人物はみんな“名無し”こそ旭太郎=日陰党のリーダーだと思ってる。でも“名無し”本人は自分を「宇内陽之介」だと思っていて、妻子の無惨な死を心底悲しんでいるふうなんです。
だから、見ている方としては、旭太郎がうまいこと本物の陽之介と入れ替わって、みんなが旭太郎だと思っている“名無し”こそが宇内陽之介なのでは???と思ってしまう。
本物の陽之介と思われている方も、暗~い、やさぐれた顔をしてるし、映画冒頭から“名無し”の方が主人公として出てきてるから、どうしてもそっちに肩入れして、「彼の言っていることの方が本当」と思いたくなる。
なるんだけど、でも、最初の大立ち回りから一貫して描かれている“名無し”の圧倒的な強さ、あれは侍のそれではなく、九善坊に仕込まれた“獣”の――日陰を生きるものの強さだよなぁ、とも思って、「やっぱり“名無し”が旭太郎???」と堂々めぐり。
どっちなんだー、どっちが本物の宇内陽之介なの!?
もうこの「混乱」だけですごく面白くて、緊張感MAXでたまらないんだけど、最後、“名無し”と陽之介の一騎打ちになるところがまた。
荒木宏文さんの一人二役、着物も髪型も陽之介と同じにした“名無し”が、「本物の宇内陽之介の座を賭けて」闘う――周りの人間も「え?どっちが本物?どっちに加勢すればいいの?」ってなるわけで。
本物の陽之介、こうなる前に顔に刺青でも彫っとけば良かったのにねぇ。同じ顔の男を「極悪非道の敵」として追うなら、それぐらいの準備はしておけよ。
えーっとそれで、その「同じ顔同士の一騎打ち」の前に、喜多ちゃんとか城乃内とかもみんな「旭太郎を追う側」だってことがバラされて、“名無し”に返り討ちにされるんです。
最初の出会いが「ありがち」だったの、みんなで「お芝居をしてた」からだった……。
喜多ちゃんを躊躇なく殺せる“名無し”、やっぱりおまえが旭太郎か。
でも最初から喜多ちゃんたちに殺気があったこと、自分に対する敵意を隠していることに“名無し”は気づいていたから、だから、仕方ない、うん、向こうが襲ってくるんだもん。自衛するしかないよね。
喜多ちゃんを斬って、玄馬のもとに戻ってきた“名無し”は、「もしも自分が旭太郎だったとしたら」と言って、「あったかもしれない話」を語り始める。
もしも、自分と同じ顔をした双子の片割れが、武士として日の当たる道を歩いていることを知ったら、そのはじめから「生を否定され」、日陰者として生きるしかなかった旭太郎はどう思ったか。どう行動したか。
「あり得たかもしれない人生」を、まざまざと見せつけられたとしたら。
そう、どちらが本物の宇内陽之介として育てられるか、それは、ただの偶然にすぎなかったはず。親か、家臣の一人か、誰かがたまたまどちらかを抱きあげて、そちらを「殺す」ことになった。どちらがどちらと区別することもなく、ただ、「双子の片方」を捨てた。
子どもは親を選べない。生まれる場所を選べない。たまたま双子に生まれて、たまたま、捨てられた。殺された――。
旭太郎は陽之介を観察し、その仕草、振る舞いを自分のものにして、彼の屋敷に入り込む。そうして陽之介の妻、富士から決定的な一言をもらう。
「あなたは宇内陽之介です。私が言うのですから間違いありません」
奥さんに認められちゃったらねぇ、もうねぇ、「俺が本物」だよねぇ。
ここで「錯誤」が起きて、旭太郎は本当に陽之介になっちゃうんだよ。
いや、ここじゃないか、富士と子どもたちを殺した時には、「陽之介からすべてを奪ってやる」と思っていたんだから。
もう一人の自分が羨ましくてねたましくて、その妻子を殺した。
でもその妻子は「ありえたかもしれない自分の妻子」でもあって、その罪を贖うため、陽之介となった旭太郎は自分自身を殺す。
だから、“名無し”には旭太郎だった時の記憶がない。
ただ、妻子を殺された悲しみが――その光景の記憶だけがある。
「狂ってる」って、言われるんだけど。
でも、人間ってそういうものかもしれない。「自分が何者か」なんて、本当にわかっている人がいるんだろうか。名前や肩書き、「自分を○○だと知っている家族や友人」、色々な記憶。でもそんなものは、何一つ確かなものではないのでは?
旭太郎をなんとしても殺そうと躍起になってる玖良間たちの方も、もはや狂ってるように見えるし。大勢の仲間を殺された恨み、もともと公儀の命ではなく自分達で勝手に始めた日陰党討伐だったから、引くに引けずに怨念だけが積もって、彼等の方も「正義」ではなく「妄執」になってる。
本物の陽之介も、妻子を殺されたことで復讐の鬼みたいになって、まっとうなひなたの道から日陰の道へと転落してしまった。
旭太郎が陽之介になりすまして、富士から「あなたは宇内陽之介だ」と言われた瞬間、二人の立場は反転した。陽之介があの「面」を付けて現れるのは、そういう意味でもあるだろう。
映画の冒頭、「太陽はいつも照っているけど、その陽が当たるところと当たらないところがある」みたいな文章が映されていたけど、人がどちら側にいるかって、本当に偶然にすぎなくて、何かの拍子にあっさり日陰へと落ちてしまうものなんだなぁ、って。
同じ顔で、同じ衣裳で、どっちがどっちかわからない“名無し”と陽之介の一騎打ち。たぶん、勝ったのは“名無し”の方なんだけど、「おまえは誰だ」と問われて、彼は答えない。ただ天を――太陽を仰ぎ、陽の光のもとで、なんとも言えない笑みを見せる。
おそらくは、生まれて初めての、笑み。
その笑顔のアップで映画は終わるんだよぉ。彼が「どっちなのか」は明示されないまま。ひゃあああ、たまらん。
あそこで「俺は宇内陽之介だ」って言わないのがほんといいよね。勝ち残って、その名を手に入れて、日陰からひなたへ出る、そうであってこそのあの笑みだろうに、名を答えることはしない。
どちらが本物の宇内陽之介だったのか、それを問うことに意味はない。
本物とか偽物とかいうことに、意味はないんだ――。
荒木さんはアクションも見事だし、最後の笑みとか、お芝居も素晴らしくて。前半の、「心から家族(と思われるものたち)の死を悼み、自身の記憶がないことに恐れを抱いている」部分、同じ顔の陽之介と再会し、しだいに狂気が滲み出てくる部分、そして、陽之介の方のお芝居も。
『GOZEN』も『死神遣い』もテンポが悪くて間延びした感じがあったけど、今回は全然そういうのなくて、終始緊張感あって、1時間20分、ずっと息を呑んで「“名無し”は誰なの?どっちなの!?」とヒリヒリしながら見てた。
近所で上映してるんだったら、もう一回見に行きたいぐらいです。
種明かしされたあとで前半をじっくり見返したい。みんな嘘つきだった前半……。“名無し”だけが嘘をついてない――って、彼も周りが嘘ついてることに気づきながら知らんふりしてたんだけど、そういう細かい機微をもう一回じっくり見たい。最後、本当に“名無し”には旭太郎の時の記憶がないのか、もう自分でも自分がどっちだかわからないのか……。
ああ、最寄りで上映してたらなぁ。
舞台『始の語り』の方もめちゃめちゃ気になります。
舞台の方は映画よりも前の時間軸、本物(?)の宇内陽之介の方が主人公のようで。でももちろん“名無し”=旭太郎も出てくるみたいだし、舞台での一人二役、ぞくぞくしますね。
そもそも「この先何が起こるか」を知った上で、平穏だったはずの陽之介の人生を見るっていうのがぞくぞくする。
「俺がその夢を恐れたのは、それが夢には思えなかったからだ―」っていう惹句も気になりすぎる。この「俺」は陽之介のことだよね? 夢でずっと「もう一人の自分」を見てたのかな。捨てられたもう一人のこと、きっと知らずに育ったんだろうになぁ。
映画では日陰党の回想シーンにちょろっと出てくるだけだった松本寛也さんや橋本祥平さんも舞台では大暴れするのかしらん。
そうそう、入場者特典ブロマイドは三郎太でした。
目がすごい印象的でしたね、鈴木さん。基本ずっと睨みつけてる感じのキャラクターだから、大きな眼が活きる。この玖良間って与力が例の刺客たちのリーダー格っぽくて、最初からものすごく思わせぶりなんだけど、なかなか正体を――なぜ“名無し”を追っているのかを明かしてくれない。
なんせ「“名無し”は一体誰なのか」がこの映画の肝(きも)で、「誰なのかわからない」ことに意味があるんだもんなぁ。
“名無し”以外の登場人物はみんな、彼を「○○」だと思っている。
でも“名無し”本人と映画を見ている観客にはなかなか情報が開示されない。
かつて江戸を騒がせた「日陰党」の話を聞き、何やら思い出しかける“名無し”。何も覚えていない彼が唯一覚えているのが、「武家の妻らしき女性と子ども2人が血の海の中に倒れている」光景で、「あれはきっと私の家族だ」――「日陰党とやらに殺されたのでは」。
そうして“名無し”は廃墟となった武家屋敷で、「自分はここに住んでいた」「ここで妻と子どもが殺されていた」ことを思い出す。
自分は、「宇内陽之介」だと。
最初に「おまえを殺すのは宇内陽之介の怨念」と言われていたのに、“名無し”自身が宇内陽之介???
もしかして、入れ替わられたのか?
何者かが宇内陽之介になりすまし、本物の方に妻子殺しの罪をなすりつけた。追われる身となった本物の陽之介は逃亡の果てに記憶を失い、“名無し”となった――?
実は、現在の“名無し”の状況とは別に、「謎の父子」の物語がちょこちょこ差し挟まれていてですね。それを見ている観客は、「この子どもが“名無し”なのかな、それとも?」とずっと考えさせられていたんです。
鴻上会長こと宇梶剛士さん扮する父親・九善坊は相当な悪人らしく、息子に人殺しの技その他、「日陰の道」で生きていく術を文字通り殴ったり蹴ったりして「叩き込んで」いる。「俺をこんなふうに育てたのはあんたじゃないか」「いつか必ず殺してやる」と息子は彼を憎んでいるけど、そもそも二人は本当の親子じゃない。
首を絞められ地中に埋められていた赤子。奇跡的に息を吹き返して泣いていた赤子を、九善坊は拾って育てた。「いつか日の当たる道に」という希望をこめ、「旭太郎(くたろう)」と名付けて。
九善坊、ほんとにめっちゃ旭太郎のこと叩きのめすし、いい父親とは絶対に言えないんだけど、旭太郎にかける「生きているうちが花だ」「せめて生きているうちは笑えよ」といった言葉はなんか妙に良くて、最後旭太郎に殺される時の台詞や表情からも、彼は彼なりに旭太郎を愛していたんだろうなぁ、と思えて、なんか、すごく良かった。
旭太郎にしてみれば、「あのまま地中で死んでいた方が良かった」と思える過酷な十数年だったんだろうけども。
で、「この旭太郎が“名無し”なのか?」と思うわけなんだけど、「首を絞められ埋められていた赤子」という時点で、「あ~、双子か」とも思うので、「宇内陽之介と“名無し”は双子」「“名無し”と陽之介が入れ替わった」のかな?と思いながら続きを見ていくことになる。
九善坊に「笑え」と言われ続けて、でも一度も笑ったことがなく、「笑い方がわからない」旭太郎は、「笑み」を刻んだ面を作っていて、江戸の町で「自分自身」を探す“名無し”の前に、その面を被った男が現れる。
面の下は案の定、“名無し”とそっくり同じ顔。
で、ここからずーっと、「どっちがどっちなんだ?」ってなるんですよ。
他の登場人物はみんな“名無し”こそ旭太郎=日陰党のリーダーだと思ってる。でも“名無し”本人は自分を「宇内陽之介」だと思っていて、妻子の無惨な死を心底悲しんでいるふうなんです。
だから、見ている方としては、旭太郎がうまいこと本物の陽之介と入れ替わって、みんなが旭太郎だと思っている“名無し”こそが宇内陽之介なのでは???と思ってしまう。
本物の陽之介と思われている方も、暗~い、やさぐれた顔をしてるし、映画冒頭から“名無し”の方が主人公として出てきてるから、どうしてもそっちに肩入れして、「彼の言っていることの方が本当」と思いたくなる。
なるんだけど、でも、最初の大立ち回りから一貫して描かれている“名無し”の圧倒的な強さ、あれは侍のそれではなく、九善坊に仕込まれた“獣”の――日陰を生きるものの強さだよなぁ、とも思って、「やっぱり“名無し”が旭太郎???」と堂々めぐり。
どっちなんだー、どっちが本物の宇内陽之介なの!?
もうこの「混乱」だけですごく面白くて、緊張感MAXでたまらないんだけど、最後、“名無し”と陽之介の一騎打ちになるところがまた。
荒木宏文さんの一人二役、着物も髪型も陽之介と同じにした“名無し”が、「本物の宇内陽之介の座を賭けて」闘う――周りの人間も「え?どっちが本物?どっちに加勢すればいいの?」ってなるわけで。
本物の陽之介、こうなる前に顔に刺青でも彫っとけば良かったのにねぇ。同じ顔の男を「極悪非道の敵」として追うなら、それぐらいの準備はしておけよ。
えーっとそれで、その「同じ顔同士の一騎打ち」の前に、喜多ちゃんとか城乃内とかもみんな「旭太郎を追う側」だってことがバラされて、“名無し”に返り討ちにされるんです。
最初の出会いが「ありがち」だったの、みんなで「お芝居をしてた」からだった……。
喜多ちゃんを躊躇なく殺せる“名無し”、やっぱりおまえが旭太郎か。
でも最初から喜多ちゃんたちに殺気があったこと、自分に対する敵意を隠していることに“名無し”は気づいていたから、だから、仕方ない、うん、向こうが襲ってくるんだもん。自衛するしかないよね。
喜多ちゃんを斬って、玄馬のもとに戻ってきた“名無し”は、「もしも自分が旭太郎だったとしたら」と言って、「あったかもしれない話」を語り始める。
もしも、自分と同じ顔をした双子の片割れが、武士として日の当たる道を歩いていることを知ったら、そのはじめから「生を否定され」、日陰者として生きるしかなかった旭太郎はどう思ったか。どう行動したか。
「あり得たかもしれない人生」を、まざまざと見せつけられたとしたら。
そう、どちらが本物の宇内陽之介として育てられるか、それは、ただの偶然にすぎなかったはず。親か、家臣の一人か、誰かがたまたまどちらかを抱きあげて、そちらを「殺す」ことになった。どちらがどちらと区別することもなく、ただ、「双子の片方」を捨てた。
子どもは親を選べない。生まれる場所を選べない。たまたま双子に生まれて、たまたま、捨てられた。殺された――。
旭太郎は陽之介を観察し、その仕草、振る舞いを自分のものにして、彼の屋敷に入り込む。そうして陽之介の妻、富士から決定的な一言をもらう。
「あなたは宇内陽之介です。私が言うのですから間違いありません」
奥さんに認められちゃったらねぇ、もうねぇ、「俺が本物」だよねぇ。
ここで「錯誤」が起きて、旭太郎は本当に陽之介になっちゃうんだよ。
いや、ここじゃないか、富士と子どもたちを殺した時には、「陽之介からすべてを奪ってやる」と思っていたんだから。
もう一人の自分が羨ましくてねたましくて、その妻子を殺した。
でもその妻子は「ありえたかもしれない自分の妻子」でもあって、その罪を贖うため、陽之介となった旭太郎は自分自身を殺す。
だから、“名無し”には旭太郎だった時の記憶がない。
ただ、妻子を殺された悲しみが――その光景の記憶だけがある。
「狂ってる」って、言われるんだけど。
でも、人間ってそういうものかもしれない。「自分が何者か」なんて、本当にわかっている人がいるんだろうか。名前や肩書き、「自分を○○だと知っている家族や友人」、色々な記憶。でもそんなものは、何一つ確かなものではないのでは?
旭太郎をなんとしても殺そうと躍起になってる玖良間たちの方も、もはや狂ってるように見えるし。大勢の仲間を殺された恨み、もともと公儀の命ではなく自分達で勝手に始めた日陰党討伐だったから、引くに引けずに怨念だけが積もって、彼等の方も「正義」ではなく「妄執」になってる。
本物の陽之介も、妻子を殺されたことで復讐の鬼みたいになって、まっとうなひなたの道から日陰の道へと転落してしまった。
旭太郎が陽之介になりすまして、富士から「あなたは宇内陽之介だ」と言われた瞬間、二人の立場は反転した。陽之介があの「面」を付けて現れるのは、そういう意味でもあるだろう。
映画の冒頭、「太陽はいつも照っているけど、その陽が当たるところと当たらないところがある」みたいな文章が映されていたけど、人がどちら側にいるかって、本当に偶然にすぎなくて、何かの拍子にあっさり日陰へと落ちてしまうものなんだなぁ、って。
同じ顔で、同じ衣裳で、どっちがどっちかわからない“名無し”と陽之介の一騎打ち。たぶん、勝ったのは“名無し”の方なんだけど、「おまえは誰だ」と問われて、彼は答えない。ただ天を――太陽を仰ぎ、陽の光のもとで、なんとも言えない笑みを見せる。
おそらくは、生まれて初めての、笑み。
その笑顔のアップで映画は終わるんだよぉ。彼が「どっちなのか」は明示されないまま。ひゃあああ、たまらん。
あそこで「俺は宇内陽之介だ」って言わないのがほんといいよね。勝ち残って、その名を手に入れて、日陰からひなたへ出る、そうであってこそのあの笑みだろうに、名を答えることはしない。
どちらが本物の宇内陽之介だったのか、それを問うことに意味はない。
本物とか偽物とかいうことに、意味はないんだ――。
荒木さんはアクションも見事だし、最後の笑みとか、お芝居も素晴らしくて。前半の、「心から家族(と思われるものたち)の死を悼み、自身の記憶がないことに恐れを抱いている」部分、同じ顔の陽之介と再会し、しだいに狂気が滲み出てくる部分、そして、陽之介の方のお芝居も。
『GOZEN』も『死神遣い』もテンポが悪くて間延びした感じがあったけど、今回は全然そういうのなくて、終始緊張感あって、1時間20分、ずっと息を呑んで「“名無し”は誰なの?どっちなの!?」とヒリヒリしながら見てた。
近所で上映してるんだったら、もう一回見に行きたいぐらいです。
種明かしされたあとで前半をじっくり見返したい。みんな嘘つきだった前半……。“名無し”だけが嘘をついてない――って、彼も周りが嘘ついてることに気づきながら知らんふりしてたんだけど、そういう細かい機微をもう一回じっくり見たい。最後、本当に“名無し”には旭太郎の時の記憶がないのか、もう自分でも自分がどっちだかわからないのか……。
ああ、最寄りで上映してたらなぁ。
舞台『始の語り』の方もめちゃめちゃ気になります。
舞台の方は映画よりも前の時間軸、本物(?)の宇内陽之介の方が主人公のようで。でももちろん“名無し”=旭太郎も出てくるみたいだし、舞台での一人二役、ぞくぞくしますね。
そもそも「この先何が起こるか」を知った上で、平穏だったはずの陽之介の人生を見るっていうのがぞくぞくする。
「俺がその夢を恐れたのは、それが夢には思えなかったからだ―」っていう惹句も気になりすぎる。この「俺」は陽之介のことだよね? 夢でずっと「もう一人の自分」を見てたのかな。捨てられたもう一人のこと、きっと知らずに育ったんだろうになぁ。
映画では日陰党の回想シーンにちょろっと出てくるだけだった松本寛也さんや橋本祥平さんも舞台では大暴れするのかしらん。
そうそう、入場者特典ブロマイドは三郎太でした。
最近の若い人が全然わからないので、映画見ながらずっと、「キング(竜星涼)と戦兎くん(犬飼貴丈)を足して割ったようなお顔だなぁ」と思ってたんですが、長妻怜央さんとおっしゃるのね。
あと、これは余談ですが、双子が一方を殺してそちらになりすますっていう話、曽祢まさこさんの「わたしが死んだ夜」という作品(漫画)を思い出しました。小学生の頃に読んだきりなのでうろ覚えだけど、双子の姉妹の片方が、恋のために片方を殺して、自分がそちらになりすます――というか、まさに今回の映画のように、心底自分をもう片方だと思い込んで生きていく、みたいな話だったんですよ。
ゾッとすると同時に、人の心の闇、「自我」というものの強さと脆さ、狂気を感じてすごく印象に残ってるんですよね。
今ならサクッとKindleで読めます。どうしよう、覚えてるのと全然違う話だったら(笑)。
「存在の危うさ」、「さみしい狂気」という部分ではウールリッチの作品とも通じるかも。
時代劇というファンタジーの枠組みを存分に活かしたアクションたっぷりの心理サスペンス。堪能いたしました♪
【2022/07/06追記】
記事を書き終わったあとでニコ生の『漆黒天』特番を見て、さらに舞台『始の語り』への興味がかき立てられたのですが。
なんか、やっぱり「入れ替わってる」説もありそうでは???
入れ替わってなかったとしても、陽之介の方にも何か、「暗い衝動」のようなものが――旭太郎の中に「光」への渇望があったように、清く正しい道場主であるはずの陽之介の中にも、「闇」が潜んでいたのでは。
光と闇、善と悪。
誰の心にも両方があって、その時々でどちらが優勢になるか変わるだけ。
もしかしたら、富士さんと子どもを殺したのは陽之介自身かもしれないよね? 屋敷に入り込み、富士と言葉を交わす旭太郎を見ていたとしたら。自分の妻が、偽物の方に「あなたこそ陽之介」と言っているのを聞いてしまったとしたら。
逆上しないだろうか?
あの、“名無し”が語る「あったかもしれない話」はあくまでも「あったかもしれない話」で、そもそも富士さんが本当にあの一言を言ったかどうかもさだかではない。もしかしたら全部作り話――妄想である可能性もある。
「現実に起こったこと」とは限らないのだ。
何があったのか、“名無し”がどっちなのか、本当のことはわからない。
舞台版も、混乱させるだけ混乱させて、やっぱり「どっちかわかりません」っていうのだと良いなぁ。ふふふ。
※PrimeVideoのレンタルで今すぐ映画見られますよ~♪→映画『漆黒天~終の語り~』
【関連記事】
・『GOZEN~純恋の剣~』観てきました
・『死神遣いの事件帖~傀儡夜曲~』観てきました
0 Comments
コメントを投稿