カテゴリ違うけど、ちょっと昨日の続き。
昨日の、「背が低い」イチゴくんは、無職だった。で、彼の趣味はアイドルのDVDを見たり、イベントに行ったりすることで、今までに集めたアイドル関連のグッズが「宝物」として一杯並んでいたわけなのだが。

思わず、「え?無職なんでしょ。誰の金で買ってんの?」とツッコミ入れてしまった。
だってDVDって、安くないじゃん。
今は無職だけど以前はバイトしてて、そのお金で買ったものだったのかもしれないけど、でもほとんど「引きこもり」みたいだったから、たぶん「以前も」働いてはないような気がする。

お小遣いもらってんのかなぁ。

一方では「働いても食ってけない」ワーキングプアが問題になっていて、そしてそれは彼と同世代の子たちだったりもするのに。

まぁ、私も夫に養ってもらってる「穀潰し」だから、あまり偉そうなことは言えないけど、しかし今どき「穀潰し」なんて言葉も死語でしょうか。
「働かざる者食うべからず」とか。

この1週間ぐらい橋本治さんの『このストレスな社会!』を読んでて、いつもながらものすごく色々考えさせられた。
あまりにも内容が膨大なので、「特にここが」と選び出すのも大変なんだけれども、「穀潰し」関連で言えば、「“働く”の意味が風化してしまった」という話が、とても印象的だった。

たとえば264頁。
「豊か」だったから、「働く」の意味を考える必要がなかった。(中略)「働く」がイコール「自己達成」だったら、「別にそんなにたいしたもんにならなくてもいいや」と思った途端、「働く」という行為は瓦解する。

この、「“働く”の変質」は、本のあちこちでとても重要なキーワードとして出てきて、今日本がおかしくなってることのほとんどすべての原因はこれではないか、とさえ思える。

326頁〜327頁にかけて。
「大人である」ということは、その根本に「働く」ということが根を下ろして、そのことを前提として「生きる」を進めることだとしか私には思えないのだけれど、「働く」の位置付けが曖昧になってしまっている結果、「子どもから大人へ進む」がよく分からなくなってしまっているのではないかと、そんな風に思う。

「働く」が必要じゃなくなると、子どもが大人になる必要もなくなってしまうし、「働く」が「生活する」とイコールじゃなくなると、「働く」は「ただの金儲け」になって、ライブドアは出てくるし、耐震偽造とか賞味期限切れ原料使用とか、「社会的責任」を欠いた、「儲かりゃいい」式の無茶苦茶がまかり通ってくるんだろう。

穀潰しな私もまだまだガキ……。