一昨日の叔父の葬儀の時、同時に初七日の法要も営まれた。
読経が終わった後で、お坊さんが少しお話をしてくれた。「葬儀に出席して、家に入る前に“清めの塩”を撒くのは仏教的には大変な間違いだ」という話。

そういえばこの間の、事故死した別の叔父の葬儀の際にも、「ご会葬御礼」に塩が入っていなくて、「塩入ってないねぇ。撒かなくていい?」と言っていたばかり。

死を「穢れ」「不浄」と考えるのは神道で、仏教にはそういう考え方はないとのこと。生あるものが死ぬのはあたりまえのことで、むしろ死ななければ困るようなものですらあって、そのあたりまえの命の営みを「穢れ」とか「不浄」と考え、「浄めなければならない」と思うのは大いなる間違いだ、と。
もしも死をそのようなものと考え、人の葬儀や墓参りに行っては、家に入る前に「お浄め」をしなければならないと思うのならば、いっそ葬儀になんか行かない方がましだ、とお坊さんは言っていた。

なるほど、と思ってしまった。
別に私は信心深い仏教徒では全然ないのだけど、やはり仏教の考え方は好きになれるところが多いな、と思った。

四十九日の法要が三ヶ月にまたがってはいけない、というのもただの語呂合わせによる迷信だし、死は穢れではないのだから、「お祓いをしてもらってからじゃないと結婚式をしちゃいけない」ということもない。

全然信心深くないくせに、叔父さん達の突然死の連続に、「ちょっとお祓いでもしてもらった方がいいかも」と思っていた私。
まぁ「不浄」という考えとは関係なく、「しばらくは誰も死なないでほしい」というだけの思いだったのだけれど。

神道と仏教。
ごちゃごちゃなのよねぇ。
日常生活における神仏習合は根強い?

ところで葬儀の時、出棺の際に「千の風になって」が流れた。最近はどこでもあれを流すのだろうか。
やめてほしい。
「さぁ泣け、すぐ泣け、もっと泣け!」と追い立てられるかのようだ。
まだ納骨も済んでないどころか、これから焼き場に行くというところなのに、「私のお墓の前で泣かないでください」って言われてもねぇ。
そんなことを考える余裕なんて、まだないと思う。
「あれはやめてほしかったよなぁ」と、母の兄も言っていた。

そもそも私は、あの歌はあまり好きではない。
死んだ人を思って泣いて、何がいけないのだ。