この間の、お坊さんの話の中にはこんなのもあった。
「浄土真宗では“チン”と鳴らすのはお経の始めと終わりとか、段落替えの時だけ。ただ仏壇にお供えをする時とか、手を合わせるだけの時は鳴らさない」

……鳴らしてましたね。
「チン!」とやってから、手を合わしてた。
なんとなく、仏さんの注意を引けるような気がするじゃないですか。これからご飯供えますよ〜、とか、これからお線香上げますからね〜、とかって合図するものなのかと思ってた。

考えてみれば、お盆の時期以外は仏壇に(というか自分の家に)死んだ人の霊はいないはずなのだ。
じゃあそもそも一体あのご飯は誰に食べさせるつもりで供えてるの?と思ってしまうけれど。
千の風になってるから、そのうち吹き渡ってきて、食べてくれることもあるってことでしょうか(笑)。

「千の風になって」があんまりはやると、それでなくてもお墓のお守りなんかしたくない若い人達(私も含め)が、ますますお墓をほったらかしにするのではないかと思ってしまう。正直私はお仏壇の世話をするのも面倒です(←今はもちろん義父母にお任せで、私は何もしてません)。

しかし、たとえ死んだ人がお墓にいなくて仏壇にも位牌にもいなくても、草ぼうぼうや埃だらけにしていたら、「罰が当たる」とも思ってしまう。

昨日の『風林火山』で、勘助が由布姫のお墓(というか卒塔婆?)を撫でながら、「寒くはございませんか」と話しかけていたのだけど、やっぱりあーゆー心理の方が自然というか、あそこで「姫はそんなとこにいないよ〜」とは突っ込めないというのか。

卒塔婆に雪がかぶっていて、「寒くはございませんか?」と雪を払うようにしながら話しかける。
別に、誰だって死んだ人がそれで寒いわけはない、ってホントはわかってるだろうし、お墓だけに死んだ人の魂が宿っているとも考えていないだろう。
でも、お墓の雪を払ったり、好きだったお酒をお墓にかけたりするのは、死者を想う自然な行為だと思う。

お墓とか位牌とか、「千の風」だって、結局は死んだ人を想う「よすが」なのだろう。
何をより強い、より深い「よすが」とするのかは、きっと人それぞれだ。

同じく昨日の『風林火山』で、高野山のお坊さんが勘助に、「死んだ者は生きている者に必ず何かを残す。それ(=そなたに残されたもの)を見つけられるのはそなただけだ」というようなことを言っていた。

死んだ人は、きっと生きている者それぞれの心の中にいるのだろう。