前に、誰かのエッセイか何かで、「母が死んだ時、自分はもう娘ではないのだと実感した」と書いてあるのを読んだ。
親にとって、子どもはいくつになっても「子ども」で、その親が死んでしまった時に、「ああ、もう私は本当に“子ども”ではないのだ」と実感するのだろうな、とそれを読んで私も思った。

幸いにして両親はまだ健在だけれども、叔父さんが亡くなって、叔父さんが知ってくれていた私の子ども時代というものも、なくなったのだな、と思う。
そのうちに、誰も私が子どもだったことなんか知らなくなって、「おばあちゃんも若い時あったん?」などと言われるようになってしまうのだ。

「死者は生きている人の心の中にいる」という昨日の話の伝でいくと、年とってから死ぬと、生きて私のことを思い出してくれるのはみんな年下の人ばっかりで、おばあちゃんの私しかもうこの世にはいないことになってしまう。
なんとなく寂しい。

うちの義祖母は96歳で、もうかなり話が通じない。
ひ孫であるうちの息子の記憶に残るのは、きっとそーゆーボケボケになったおばあちゃんの彼女の姿だけだ。
もちろん彼女の娘や息子達は「若い頃の母親」を知っていて、懐かしく思い出すだろうけれども、さすがに彼らも「お嬢さんだった頃の母親」のことまでは知らない。
彼女が子どもだった頃のことを知っている人なんて、たぶんもう誰も生きていない。

義祖母の頭の中ではもう時系列がかなりごちゃごちゃなので、自分の母親や父親の姿が見えないと言って不安がってみたり、今住んでいる家が自分の家だと思えずに、子どもの頃住んでいた三重県の家に「帰る」と言い出したり、色々と昔の話をする。
息子である義父でさえもついていけない話が多くて、「おばあさんのお母さんなんか、生きてたらもう120歳とかやで!自分の年考えてみ!」などと怒られるのだった。

妄想まじりのそーゆー話をずっと聞かされているとすごくイライラするのでつい怒ってしまうのだが、あとから冷静に考えてみると、可哀想にも思う。
彼女の中にある「昔の時間」を共有できる人は誰もいないし、言葉がはっきりしないからそもそも「彼女の話」自体をわかってあげられる人がほとんどいない。

「自分の娘がもうすぐ40かと思うとぞっとする」と、近頃母が言っている。
自分の年よりも、娘の年にびっくりするらしい。
私も、息子のことを「もう9歳か!」と思うし、父親が去年70になった時は「えっ、もうそんなお爺さんなの?」と思った。
自分は40近くても全然実感がなくて、「気だけ若いまんま」なのだが、じわじわと確実に、外部では「子どもの私」は失われていっているのだ。

おばさんにだって「女の子」だった頃があったのよ。
ぐっすん。