ものすごーく読みづらかった『白痴』だけれども、主人公ムイシュキン公爵やヒロイン・ナスターシャの人物像は非常に興味深かった。

ナスターシャって、玉三郎さんがやってますね。映画にもなったそうな。
是非見てみたいけど、DVDにはなってないのかな。

ナスターシャは、先日も書いた通り、「自分を引き取って育ててくれた男に無理矢理愛人にされちゃった女」である。
「育ててくれた」と言ったって、別に一緒に暮らしていたわけじゃなくて、養育費の面倒を見てくれた、ということなんだけど。
「なんて奇特なお方かしら。なんてありがたいことかしら」と思っていたら、何のことはない、手込めにされてしまうのだ。

男が自分を正式な妻に迎えてくれるかもしれない、という期待が、ひょっとしたらナスターシャにはあったかもしれない。しかし男には全然そんな気はなく、別の女性との縁組が進んでいるという話を聞いたとたん、ナスターシャは「性格が変わってしまった」。

「あんたの結婚なんか絶対許してやらないわ」というわけで、その時からナスターシャの行動は、傍目には「奇怪」で「気ちがい」じみたものになっていく。

……こういうナスターシャの造型って、『白痴』発表当時のロシアではどんなふうに受け止められたんだろう?
「こういう女いるよなぁ」って、思われたんだろうか?

そういう目に遭っている(つまりは愛人にされている)女性自体は、あたりまえにいたのかな。

彼女の心の葛藤を一目で察したムイシュキン公爵でさえ、「彼女は気ちがいなんです」と言っているし、公爵の友人のエヴゲーニイは、「君の彼女への気持ちは愛なんかじゃなくて、彼女のような気の毒な立場の女性に対する憐憫でしかない。要するに『婦人問題』ってやつさ」みたいなことを言う。

もしも彼女が、自分を陵辱した男を許し、おとなしく誰か別の男の妻に納まっていれば、彼女を悪く言う者はいなかったかもしれない。
でも彼女は大人しくしていなかったので、「悪女」のレッテルを貼られてしまった。

男の方は、どれだけの女性遍歴があってもまるで問題なく、それどころか勲章のようにして「正式な結婚」ができるのに、一旦「愛人」にされてしまった女は、たとえその後正式な結婚をしたとしても、一生「誰々の囲い者であった」という傷から逃れられない。

きっと、ナスターシャはその理不尽が許せなかったんだろう。

だから、男が由緒正しいどこやらの令嬢と結婚しようとすると、邪魔をする。

でも、そんなことをしても結局のところどうにもならないということはナスターシャにもわかっている。その憂さを晴らすために彼女はバカ騒ぎを起こしたり、奇怪な行動を取ったりしていたんだろう。

どうしてドストエフスキーって、そういう女が描けるんだろう。

ナスターシャは自分の葛藤を一目で見抜いた公爵に惹かれて、でも既に「悪女」となってしまった自分と一緒になることは公爵にとって不幸だと思う。公爵の幸せを願い、公爵のもとから何度も逃げ出しながら、それでもいよいよ公爵とアグラーヤとの結婚が現実になりそうになると、――直接アグラーヤと対してしまうと――、「(公爵は)わたしのものよ!」と叫んでしまう。

なんでドストエフスキーには、こういう女がわかるんだろう。

『カラマーゾフ』のグルーシェニカやカーチャにしても、ドストエフスキーの描く女の人って、みんな強烈だ。若い娘は誇り高く突拍子がなく、なんとか夫人はみんなヒステリー(笑)。

グルーシェニカも、傍目には「あばずれ」と思われているけど、実は昔自分を捨てた男のことをずっと思っている可愛い女でもあるんだよね。

彼女が「初めて私を憐れんでくれた。わたしのことを許して、愛してくれた」と言うのも、ムイシュキン公爵に通ずる無垢の魂を持った青年、アリョーシャだった。

カーチャの方は、「大金を借りた」という恩義からミーチャを愛し、その婚約者となりながら、ミーチャの弟のイワンに惹かれ、ミーチャの裁判では二人の間で引き裂かれて大ヒステリーを起こしてしまう。

ミーチャに感情移入して読んでると、「何なんだ、この女」と思ってうっとうしんだけど、彼女がミーチャとイワンのどっちつかずになっているのも、わかると言えばわかる。

「彼女が本当に愛しているのはイワンだ」という言い方はたぶん正しくなくて、彼女はミーチャをも“愛している”し、イワンを愛するためにはミーチャの存在が不可欠である、とも思う。

どうしてドストエフスキーは、こういう女が描けるのかな。自分は男なのに。