先日ご紹介した『鋼鉄都市』の続編です。

絶版で図書館にもなかったのですが、「ハヤカワ文庫補完計画」のおかげで新訳で再版されました。復刊ではなく「新刊」扱いなので近所の本屋でも手に入るだろうと思い、息子ちゃんに「母の日何がいい?」と訊かれて「じゃあこの本」とおねだりしたら、全然売ってない。

確か発売日は5月の8日ぐらいだったと思うのですが(そして母の日は5月10日だったわけですが)、私が立ち寄った近所の書店2軒には10日過ぎても姿がなく、以前『クローム襲撃』等をGetすることができた最寄りで一番大きい書店にもない。

息子ちゃん、学校帰りにかなりの寄り道をして、ようやく5月の下旬に入手してくれました。すまん、まさかこんなに買うのに苦労するとは思わなかったんだ……。ほんとすまん。自分でネットでさくっと注文すれば良かったよ。でも他に「母の日」にお願いするものもなくて……。

相変わらず本筋に入るまでが長いですね、すいません。そんなこんなで苦労して(苦労したのは息子ちゃんですが)入手した『はだかの太陽』、面白かったです!

前作『鋼鉄都市』で宇宙国家オーロラの人型超高性能ロボット・ダニールとともに見事事件を解決した地球の刑事イライジャ・ベイリ。その手腕を見込まれて、別の宇宙国家ソラリアで起きた殺人事件の捜査を依頼される。宇宙国家群と地球の関係を考えればそんなことは異例中の異例、失敗すれば外交問題になる。けれども無事任務を遂行すればベイリは昇進間違いなし。

でも。

そもまずベイリは宇宙どころかニューヨークからワシントンに飛行機で行かなきゃいけないだけでパニックだったのですね。

前作『鋼鉄都市』で描かれた地球の「シティ」は、「洞窟都市」でした。外界と隔絶されたドーム都市。人間達の居住区域は地下に広がり、太陽とも空とも大地とも切り離された「穴ぐら」で、地球人は密集して暮らしています。

なので前作では、「地球人がドームを出て荒野を徒歩で行くなんて考えられない!だからそのルートでの犯行は不可能だ!」ということになっていました。

優秀な刑事であるベイリも他の地球人と同じく、「荒野を徒歩で行く」なんて無理、そもそも壁に囲まれていない「広い空間」にいること自体が無理。たとえ飛行機の窓が全部目隠しされ外が見えないとしても、遮るもののない広大な空間に自分が浮いていると考えると……。

どうにか飛行機での移動をクリアし、ワシントンに着いてみると今度は「宇宙国家ソラリアへ行ってくれ」との指令。

もちろん、ソラリアへはロケットで行くのです。

広大も何も、周囲は無限の宇宙空間。そして目的地ソラリアはドームシティなどない、人間が当たり前に地表で生活していて、その地表には「はだかの太陽」が燦々と照り輝いているのです。

そこへ自分は降りたっていかなければならないのだ、と思うともうそれだけでベイリはパニック。

理性を超えたなにかが、壁を求め、空間を拒絶している。 (P49)

閉所恐怖症ならぬ開所恐怖症ですが、人間、生まれた時から「壁に囲まれている」と、それが当たり前になるものなのでしょうか。太陽光を目にすることなどほとんどない地球人達。シティの居住区は人工照明によって照らされ、「影」を意識することすらない。物語の後半、ソラリアの地平に沈む赤い太陽にベイリはびっくりするのですが(そんなものをベイリはまったく見たことがなかったのです)、なぜそこまで地球人はモグラのように……と唖然としてしまいますね。もはやそれは「人類」とは違う種になってしまってるんじゃないかとさえ。

で、目的地ソラリアに着く前から(そして一体自分が捜査するのがどんな事件かもまだわからないうちから)疲れ果てているベイリの前に現れたのは……。

そう、ロボット・ダニール!

いくら何でも地球人一人だけで宇宙国家に乗り込むなんていうのは無茶なので、オーロラがダニールをよこしてくれていたのですね。もちろん単にベイリの身を案じてくれたわけではなく、オーロラにはオーロラの魂胆があってのことですけども。

ソラリアの飛行場(?)でダニールを「天の助け!」と思ったベイリは彼に「抱きついてはしゃぎたい」気分に襲われるのですが、現実にはそうはしない。

けっきょく、ひとは、このダニール・オリヴォーを友人として愛することはできないのだ。人間ではない、ロボットにすぎないものを。 (P51)

なぜ~。なぜなの~。愛すればいいじゃ~~~ん。

まぁダニールがそれに対してどういう反応を見せるかはわからないんだけどね。ソラリアの「むきだしの太陽、むきだしの空、むきだしの大地」からベイリを守ろうとするダニールの甲斐甲斐しい態度はまるで「乳母」みたいなんだけど、それはベイリに対する愛情ではなく、ロボット三原則の第1条に忠実に従っているだけにすぎない。

そう、人間に危害を加えてはならない。人間に危害が加わる事態を見過ごしてはならない。

地球人ベイリにとって「開けた戸外」というのはそれだけで「凶器」で、ベイリは本当に失神してしまったりするから、その脅威から守るのはロボット・ダニールにとって当然の責務なのですね。と言うより、それをしなかったら――目の前でベイリが肉体的・精神的被害を蒙ることをみすみす許してしまったら、ロボットの陽電子頭脳はショックで故障してしまうかもしれないのです。

ロボットの頭脳を司る三原則の縛りはそんなにも重いのか、と驚くと同時に、読み進むにつれこのソラリア到着時のダニールの「過保護っぷり」が後々の伏線となっていることがわかり、「アシモフさんすごい!」と唸らされます。

ソラリアが地球と違っているのは「はだかの太陽」だけではありません。広大な地所に人間は一人ずつ、身の回りのことはほぼすべてロボットが賄い、他人と会うのは原則として「映像対面」のみ。ベイリが太陽光や風に怖れをなすように、ソラリア人はみな「生身の他人」というものに激しい嫌悪を感じるのです。

だから。

ソラリアでは、「殺人」ということがまず不可能。「じかに会う」ことがないんですから、単に「ほっぺたをひっぱたく」ということすら、起こりえない。

なのに、とある男性が撲殺死体で発見されたのです。容疑者はその奥さんなんですが、しかし「奥さん」とは言っても普段から一緒に生活しているわけではなく、「彼女しか容疑者はいないが、しかし彼女には殺せない」という不可解な状況から、地球の敏腕刑事(?)ベイリが招かれたと。

何しろソラリアには「警察」もないわけで、ベイリの捜査も「ソラリアの生活慣習どうなってんだよ、全然わかんねぇよ!」っていう文化ギャップを埋めるのがまず大変。

というか、そのギャップを楽しむお話のような気もします。あまりにも異質な世界、でもそれを言えばベイリの住む未来の地球も「太陽を見ると失神する」異様な世界で、両極端というかお互い様というか。

事件解決後、最後にベイリが

「われわれはソラリアの裏返しの存在です」 (P403)

って言うとおりなんだよね。ソラリアはソラリアで変だけど、今の地球人もやっぱりおかしいよと。地球人も変わらなきゃいけないんじゃないかと。

この最後の箇所は、宇宙国家と地球の関係だけじゃなく、地球の現実の国と国、文化と文化についても言っているような気がします。相容れない異質な他者、しかも相手の方が強大な時、劣勢に立たされた側はどう振る舞えばよいのか。

スペーサーが弱かろうが強かろうが、われわれはひとつだけ変えることができるんです。われわれは、われわれの生き方を変えることができるんです。 (P405)

スペーサーが弱いと吹きこまれ、人々が偽りの希望にすがっているなら、事態はいっそう悪化します。 (P405)

(※スペーサーというのはいわゆる「宇宙人」、地球以外の、宇宙国家の人類のこと)

ソラリアという極端な世界を創造し、また、「ロボット三原則」の盲点を突いてくるそのアイディアが素晴らしい。決して天才でも万能でもないけどたくましくしなやかな精神を持った主人公ベイリも魅力的だし、やっぱりダニールがねぇ。いいよねぇ。

今回、中盤でベイリがダニールを出し抜いて一人で行動しちゃうので今ひとつ出番が少なくて物足りないんだけど。

最後、ベイリとダニールの別れも描かれず、さっさと地球に帰ってきちゃうし。

容疑者だった「奥さん」グレディアとの別れなんかどーでもいいからー、ダニールとの涙の別れ(じゃないだろうけど)を描いてよー。

グレディアはこの後の続編にもしっかり登場するらしいです。

女なんかいいのに(爆)。

『鋼鉄都市』でのダニールとベイリの粋なシーンでの結びとはまるで趣きが違うけど、今回の結びの文章も素晴らしいです。いやー、ホントに、お見事。


早速「続き」である『夜明けのロボット』を図書館で借りてきたのですが、『はだかの太陽(新訳版)』にはアシモフさんによる「序文/ロボット小説の舞台裏」という文章が同時収録されています。

一連のロボット物を書いた経緯がアシモフさんご自身の筆で語られ、『鋼鉄都市』『はだかの太陽』の執筆について触れられたあと、ついにシリーズ三作目となる『夜明けのロボット』を上梓した、という誇らかな宣言で終わっています。

ということはこの序文、『はだかの太陽』ではなく『夜明けのロボット』の方についていたものではないかと思うのですが……。『夜明けの~』の方には付けられなかったから今回新訳版を出すに当たり入れてみたとかそういうことなんでしょうかね。

ちなみに『夜明けのロボット』は現在単行本も文庫版も絶版で図書館か中古でしか読めません。

そして1957年に単行本が出た『鋼鉄都市』、1957年の『はだかの太陽』から『夜明けのロボット』が出るまでにはなんと25年の歳月が経っているのですよね。

『はだかの太陽』の直後、1958年に三作目を試作したもののそれは物にならず、アシモフさん本人ももう「第三作は書かれることはないだろう」と思っていたそうです。

だが1983年3月、わたしは“お待ちかねの”ロボットものの長編第三作をダブルデイ社に持ちこんだ。 (P21)

この序文の後に始まるのが3作目でなく2作目、というのがなんか微妙ですが、でもアシモフさんの自信と昂揚感が伝わってきて、これから『夜明けのロボット』を読むのが大変楽しみです♪

(『夜明けのロボット』の感想はこちら