『少年少女世界文学全集』の別の巻を取り寄せてもらう間、さくっと読める短いお話ないかな、と図書館の棚を物色、見つけたのがこの本。

全部で179頁ありますが、本文はたったの126頁。もともと児童書として刊行された作品ということもあって読みやすく、ほんとにさくっと読了できました。
そしてなかなか面白かった。
うん、私の選書勘もまだまだ捨てたもんじゃない(笑)。

タイトル通り、まずはチェスのことから。

チェスを指せない人間は物事をきちんと考えることができない、物事をきちんと考えられないと人生のトラブルを切り抜けられない、トラブルを切り抜けられない人は、みじめな暮らしをするしかないくだらない人間だ、とかなんとか。 (P8)

知らない人のために言っておくと、チェスの駒は人の歯と同じ数、三十二個ある。 (P12)

すいません、チェス指せないので物事をきちんと考えられません(^^;)
果たして西洋では本当にそんなふうに言われているのでしょうか? ともあれ語り手の「私」はチェスが苦手なのです。それどころか、チェスの駒を怖いとさえ思っている。それには子どもの頃の奇妙な出来事が関係していて……。

お話は、「私」が10歳の頃に遡ります。

何かのいたずらの罰として、とある部屋に閉じ込められた10歳の「私」。その部屋には大きな鏡があり、その下(暖炉の上)にはチェス盤がのっかっていました。
鏡にはチェス盤と向かいの壁が映り、残念ながら「私」――「ぼく」は映っていません。「ぼく」の背は、鏡に映るほど高くなかったからです。

で、「この部屋のものが全部あの鏡の中にある(映っている)んだから、ぼくだっているはずなのに」と思った瞬間、鏡の中のチェスの駒が話しかけてくるのですね。

「こっち来いよ」と。
鏡の中の、白のキングの駒が。

そんなこと言われてもどうやってそっちに行ったらいいかわからない、と「ぼく」が答えると、「王さま」は「やる気さえあればなんだってできる」と言います。

やる気さえあればなんだってできる、王さまにそう言われたとたん、ぼくは一発ぶん殴ってやりたくなった。 (P21)

わかる、わかるぞ!
この第5章、「有名なやる気」というタイトルがついてるんだけど、ほんとねぇ、親でも先生でも何でも、大人はすぐ「できないのはおまえのやる気がないからだ!」とか言ってくるけど、どんなにやる気があったってできないものはできないよね。

『本当に、やる気があればなんでもできるというのなら、(中略)時間をかけて勉強しなくても授業が分かるはずだし、いますぐ十八歳にだってなれるはずなのに』 (P22)

うんうん、わかる、わかるぞ。

ともあれ「ぼく」は「王さま」の手助けで無事「鏡の中の世界」に入ることができたのですが。

そこにはチェスの駒以外にも、人がいます。
わかくてきれいな女性、泥棒、女中、オペラ歌手らしい男女の2人組。
「わかくてきれいな女性」は実は「ぼく」のおばあさんなのですが、

「おばあさんだって、年をとる前は若かったのよ」「そんなはずはない」とぼくは言った。 (P40)

ううう、おばちゃんにだってジョシコーセーだった時があるんだ、信じられないかもしれないけど、若い頃があったんだぜ、ううう。

おばあさんが若い姿なのは、最初に鏡に映ったのが若い時だったから。鏡の中には、一度でも鏡に映ったことのある人が、最初に映った時の姿のまま、残っているのです。「像」として。

「王さま」に言わせると、「像」なのは「外の世界」の方で、鏡の中こそ「本物」らしいんだけど。

「本当はね、真実の、現実の人間というのは、われわれだけ、鏡のこちら側にいるわれわれだけなんだ。きみたちこそ像に過ぎないのさ」 (P95)

こう言われた「ぼく」、王さまは頭がおかしいんだ、と思い、「おっしゃる通りです」と相づちを打ちます。

頭のおかしい人にはいつも言うとおりだと認めてやらないと、危険であることをとっさに思い出した。 (P96)

いやぁ、10歳とは思えない処世術だな。どこでそんな知識を。

「鏡」の中には「一度でも映ったもの」の像があるけど、海も山も、木もない。ただだだっ広い平原が続くだけ。まぁ部屋の中に海や山や森はなくて「映らない」から、ないのも道理だけど、動物もいない。「王さま」によると、「鏡で自分を見た者の像だけが残る」らしく、ネコや犬ではたとえ鏡に映ってもダメらしい。意識して鏡を覗きこむ「高等生物」でなければいけないのだと。

いや、でもチェスは「もの」じゃないの? 意識なんてないでしょう、と言いたいところですが。

「チェスができて何世紀も何世紀も経ってから、人間が生まれた。(中略)人間の世界で起きること、とくに歴史で勉強するような大切なことは、われわれチェスの偉大な試合をでたらめに真似たりごちゃ混ぜに変えただけに過ぎない。われわれは人間の模範であり、支配者なのだ」 (P58)

しかし「ぼく」がどんどん歩いていくと、「生き物」ではない、普通の家具があったり、マネキンがいたり。

マネキンと言ってもショーウィンドーに飾られてるあーゆーのではなく(どーゆーのだ)、籐製の、「胴体」部分しかない、服を仕立てる時に使うようなやつなんですけども。
例の、「おばあさんが若いわけない」と言われていた女性がかつて自分の衣裳を着せていたマネキン。

チェスの王さまと同じく、このマネキンも喋ります。頭部がなくて口もないのに喋る。手足もないのに「見えない手」で握手もする。
そして王さま同様このマネキンも気位がバカ高い。

「おれはマネキンだから、とびきりのものなんだ。なにしろ、マネキンみたいになろうと男も女も手本にするくらい完璧なものなんだから」 (P82)

ああ、うん、まぁ、そうね。

「この世界ヤバいな?」と思った「ぼく」は「どうすれば元の世界へ戻れるんだろう」と知恵を絞り、最後は無事「閉じ込められていた部屋」に帰ってきます。

とはいえ向こうの世界で寝込んでしまった末、「元の部屋で目が覚める」なので、読者にしてみれば「なんだよ、夢オチかよぉ」と思わないこともないのですが、本当に起きたことか夢なのか判然としない感じが良いです。

子どもにしてみれば「鏡」って本当に不思議なものだし、大人にとっても「鏡の中の世界」というのは魅力的で、「本当にあるかもしれない」と思えるものね。
「もしかしたら私たちの方が“偽物”かもしれない」、夢の方こそ「現実」かもしれない、そういうこと、誰でも一度は考えるでしょ? え? 考えない??

「見ている人がだれもいなければ、映った像はその場を離れることができるし、鏡は休めるのさ」 (P30)

観察者が誰もいなくても“事象”は存在するんだろうか?っていうのもほんとね。

鏡もチェスもマネキンも、著者ボンテンペッリさんにとってとても重要なモチーフらしく、「児童叢書向けだから“鏡”をテーマにした」というわけでもないみたいだけど、「有名なやる気」のくだりとか、

現在のぼくだったら気にするだろうが、十歳の子供にとって、立っているか座っているかはまったく同じことだったから。 (P16)

という描写とか、自分の追求するテーマをうまく「子ども目線」で描いてるなぁ、と思います。

挿絵は原著初版のものが使われていて、これがまた素敵。セルジョ・トーファノという方が手がけているのですが、この方イタリアでは大変有名だそうで、絵を描くだけでなく、名俳優にして演出家でもあるそう。すごいなぁ、天は何物与えるのか。

「未来だってない。人間の未来というのは年を取ることだが、われわれは年を取らないのだから。われわれは、いつまでも、初めて鏡に映ったときの年齢のままなんだ。したがってわれわれは永遠なのさ」 (P54)

年を取らない鏡の中の私……なんて羨ましい。
でも鏡が割れたらおしまいだそうで、やっぱりそうそう「永遠」というのはありえない。たとえ年を取らなくても、鏡の中には美しい風景も美味しい食事も、やることも何もないんだもんね。

あれ? でも、「像」が最初に映った時の姿のままなら、年を取ったお婆さんが鏡の中に見る「年を取った姿」は一体……。