『ラーマーヤナ』が気になりすぎてですね。(→『インド神話物語 ラーマーヤナ』感想記事こちら
ついに『少年少女世界文学全集』まで取り寄せてしまいました。
いや、取り寄せるなら東洋文庫版じゃねぇの?なんで『少年少女』なんだよ、と思われるかもしれませんが。

読みたかったんです!

再会したかったんです、『少年少女世界文学全集』と

この全集のことは何度か記事にしているのですが(たとえばこちら)、昔、ひゅうが家の仏壇置き場には、仏壇の代わりにこの文学全集50巻が古いガタの来た書棚に収まって、鎮座ましましていました。
まだ近所に図書館のない頃、私はこの全集によって「本を読む習慣」を身につけ、「翻訳物好き」のOSをインストールされたのです。

とはいえ50巻全部を隅から隅まで読んだわけではなく、それどころかたぶん3分の1も読んでない。今思えばとてももったいないこと、「ラーマーヤナも入ってたけど、たぶん子どもの私は読んでなかったよな」と思うとその内容が大変気になる。

完訳の東洋文庫版と違って子ども向けの抄訳、しかも原著の「叙事詩形式」でなく、散文で「物語」にまとめてあって、絶対に読みやすいはず。
どこをどうはしょって、どう脚色してあるのか、読んでみたい。

というわけで、県立図書館からお取り寄せ。

家にあったものを池田の図書館に寄贈して以来(まだ図書館に残っているだろうか、それとも…)ン十年ぶりの再会。
あああああああああああああ、懐かしいぃぃぃぃぃぃぃぃ!



何しろ昭和35年、1960年の発行なので、かなりくたびれていて、司書の方にも「気をつけて読んでくださいね」と念を押されました。はい、もちろんです。

ほんとにこの表紙も、二段組みの中身も、挿絵の雰囲気も、すべてが懐かしくて涙がちょちょぎれるんですけど、「少年少女」が「SYONEN SYOZYO」とローマ字になってるの、どうなんでしょう。「じょ」が「JO」じゃなくて「ZYO」なのすごい気になりますね。
てゆーか、その下の「Sekai Bungaku Zensyu」も含め、なぜローマ字なのか。英語なのかな、と思うとただのローマ字なのがなんとも言えない。
「世界の文学」を網羅する以上、ここを英語にするのも変な気はしますが。

ともあれ早速『ラーマーヤナ』の部分を読みました。

田中於兎弥さんという方の訳で、本文に入る前のはしがきに「このものがたりはたいへんながいものですが、できるだけもとの話をかえずにおつたえするように心がけたつもりです」(P278)と書かれています。
今の児童書とは違って小さな活字で二段組みとはいえ、ほんの50頁ほどにまとめられていて、しかもパトナーヤクさん版で出てきた逸話はだいたいちゃんと入っている感じで、要約力すごい。

ハヌマーンはハヌマット、ラーヴァナはラーバナと表記(ヴィシュヌやヴィビーシャナもビ表記。当時ヴはあまり使われませんでしたよね)。
そしてラーバナは「あくまの王」とされています。

「この魔王は、ながいあいだ苦行をつんだのち、天界のあるじのブラフマーという神さまにおねがいして、どんな神さまもあくまも、じぶんをころすことができないような力をさずけてもらいました」 (P279)

ちゃんとラーバナが「人間以外には倒すことができない」理由が述べられています。(パトナーヤクさん版にはなかったような気が…忘れてるだけか……)
だからこそヴィシュヌが人間ラーマとして生まれなければいけないわけですが、パトナーヤクさん版でもマハーバーラタでも、「ヴィシュヌの生まれ変わりはラーマ」という扱いだったはず。それがこの田中さん版では、「四人の兄弟全員がヴィシュヌの生まれ変わり」になっています。

ラーバナの乱暴狼藉に困った神々が、ヴィシュヌに対して

「あなたはご自分のからだを四つにわけて、三人のおきさきの王子になり、人間に生まれかわって、あのラーバナを殺してください」 (P280)

と頼むのです。
言われてみれば確かに、三人のおきさき全員が「神様のかゆ」を飲むわけで、しかもカウサリヤーに与えられたおかゆの半分をスミトラーに、などと分けて飲むことによって王子たちが生まれるんだから、ラーマだけがヴィシュヌとされるのはおかしい。

で、改めて理解したんですけど、ラーマとラクシュマナ、バラタとシャトルグナが常に相棒というかコンビで一緒にいるのは、その「おかゆの分け方」のせいなんですよね。
ラクシュマナとシャトルグナはスミトラーから生まれた双子だけれども、カウサリヤーに与えられたおかゆの半分、カイケーイーに与えられたおかゆの半分をスミトラーが飲んだことにより生まれている。
カウサリヤーが全部飲んでいればラーマ1人のところ、スミトラーに分けられてラクシュマナが生まれ、バラタ1人となるところ、シャトルグナが生まれる。

出自的にはラーマとラクシュマナ、バラタとシャトルグナが「双子」なんだなぁ、と、田中さんの『ラーマーヤナ』読んで気づきました。
なるほどなぁ。

シーターが「あぜ道で拾われた子ども」という話もちゃんと出てきます。

カイケーイーをそそのかす侍女マンタラーは、「心のよくないせむしの女」(P285)と表現されています。
「せむし」って言葉、もう今使えないですよね。っていうか「せむし」って実のところよくわからないんですけど、当時は子ども向けでも何の説明もなく「せむしの女」で通じるものだったんでしょうか。
パトナーヤクさん版では記述がなかったと思うんだけど、原著にせむし設定ってあるのかな。なんか、心のよくない、見た目も醜悪な悪い女を表現するために「せむし」という差別的表現が使われている気が。

ラーバナがシータをさらっていく場面の挿絵、ラーバナの姿がなかなか格好いいです。「十頭者」と呼ばれるラーバナ、パトナーヤク版で「十の頭を持ち」って書いてあるの読んだ時、キングギドラっぽいものを想像したんですけど、阿修羅とか多面観音のようなイメージで描かれてるんですよね。
そーか、言われてみればそーよね、頭が10あるからと言って別に首が長い必要はない(^^;)

シーターに向かって「1年だけ待ってやる」と言い、その1年が過ぎるとまた「もう1年だけ待ってやる」と言うラーバナ優しいし、1年待って言うことをきかなければ「おまえを朝ご飯にして食べてやる」(P314)って言うの、可愛い。

こういうところは「子ども向けの脚色」なんでしょうね。「おまえを朝ご飯にして食べちゃうぞ」って、絵本や昔話のオオカミっぽい。

最後、無事ラーバナを倒したラーマがシーターに向かってひどいことを言うのは当然同じ。子ども向けだからと言って省かれてはいません。

「おまえはながいあいだあくまのところにいて、けがれてしまった。わたしは目的をはたしたのだから、もうおまえには用がない。」と、ひどいことをいいました。 (P332)

シーターはその言葉を聞き、絶望して「火葬のしたくをしてください」と言って自ら火の中に入っていきます。すると神々が現れ、火の神アグニによって少しも火に焼かれていないシーターが出現し、ラーマも納得してめでたしめでたし。

シーターが自らを「火葬」に、というのがパトナーヤクさん版とは違った気がする。それにしてもこのくだり、もし子どもの頃に読んでたらどう思ったかなぁ。「えええ、ラーマ、おまえ…!?」ってなったよねぇ、きっとねぇ。

その後の「さらにひどい顛末」はなく、「シーターといっしょに兄弟なかよく末永く王国を治めました」でお話は終わります。

ながいながい「ラーマーヤナ」のものがたりはおわりました。この古いむかしのものがたりをよむ人は、きっとしあわせな日をおくることでしょう。 (P334)

「その後」にあたる第7巻を省いたことについては、「解説」部分に記述があります。

わたしはこんど、みなさんのために、やさしく、そしてみじかく訳そうと思って、第七巻をはぶきました。それはこの巻があとからくわえられたものだということと、物語がおわってからのちの話だからです。 (P414)

「短く」がまず最優先課題としてあるわけですから、まぁ端折られるのは仕方のないところ。「省きました」とちゃんと断ってあるところがとてもいいですね。
あと、

ここにでてくる、さるだの、あくまだのというのは、インドの南のほうに住む人たちのことで、北のほうのコーサラ国の王子が南のほうの蛮族とたたかったことを、たとえ話にしたものだろうと思われます。 (P414)

という、割と身も蓋もない解説もされてます。まぁラーバナは「あくま」だけど「苦行者」で、神々に認められて「人間以外には倒されない」という特権を与えられ、美しい都市を築いているわけですからね。神と敵対する「悪魔」というのとは存在の仕方がだいぶ違う。

それぞれの訳者さんが自分の訳したお話について説明を加えるこの解説部、冒頭に山室静さんによる「中国をのぞくアジアの文学」を概観した章があり、めちゃめちゃレベルが高いです。

この41巻は東洋編の第一巻なのですが、二巻以降はすべて中国文学なので、この一巻目だけで他のアジア地域の文学をすべて取り扱わなくてはならず、「そんなの無理ゲーに決まってんだろ!」という嘆きから始まります。ははは。
(※ちなみに東洋編第二巻は西遊記他、第三巻は三国志と水滸伝、第四巻は「宝のひょうたんのひみつ」他)

そもそもアジアってどこからどこまでだよ、とメソポタミアやパレスチナ、アッシリア、バビロニアなどの単語がバンバン出て来ます。
ギルガメシュ叙事詩、「リグ・ヴェーダ」に「マハーバーラタ」、「シャクンタラー」に「ルバイヤート」、果ては現代インドの作家の名前(チャタージー、ブレーム・チャンド、サロジニ・ナイズー)を挙げ、「すぐれた作家がでていますが、日本ではよく知られていないのがざんねんです」(P408)などと書いてあるんですよね。想定されてる少年少女のレベルが高すぎる(^^;) ほんとすごいわ、この全集を企画編集した方々。
(※ちなみに監修として小川未明や志賀直哉が名を連ねています。志賀直哉…そうか、この全集の刊行時にはまだご存命か……)

ことに「ラーマーヤナ」のほうは、インド詩歌の祖とされるバールミーキが完成したものといわれるだけに、その美しい詞章は詩歌の手本となり、主人公ラーマ王子は、あらゆるインド人の理想の姿とされました。ただ、これらの作品(「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」)は、あまりに長すぎることと、さまざまの挿話や議論がおりこんであるために、文学作品としては、すっきりした形をとっていないうらみがあります。 (P406)

わかりみがすごい。
『マハーバーラタ』も抄訳して「物語」としてまとめてほしかったなぁ。少年少女世界文学全集版『マハーバーラタ』、きっと読みやすかったろうになぁ。

巻末には「読書指導」も付いていて、紹介されている読書感想文や小学校の図書委員くんの話がまたレベル高くて、「これほんとなのかな、ねつ造ちゃうんかな」と、心の汚れた大人はつい思ってしまったりします。
素晴らしい全集だけど、やっぱり読書感想文求めちゃうんだー、とも思う。

配本とともに付録としてついてきていた「月報」(8頁ほどの2色刷りの小冊子)もちゃんと一緒に綴じられていて、これまた懐かしい。
この41巻についているのは「インドを旅して」「アラビアン・ナイトの国々」という写真付きの短い旅行記と、馬場のぼる氏の「ポッカリ坊や」というマンガ。写真のキャプションに「バグダードの盗賊?いや、土人の酋長です」なんて書いてあるのがいかにも“時代”です。

せっかくなので『ラーマーヤナ』以外の他の収録作品も全部読みましたが、その話はまた次回。

【関連記事】

講談社『少年少女世界文学全集 41巻 東洋編(1)』~「王書物語」など~

『インド神話物語 ラーマーヤナ』上巻/パトナーヤク

『インド神話物語 ラーマーヤナ』下巻/パトナーヤク

マハーバーラタの中の『ラーマーヤナ』 

講談社『少年少女世界文学全集 3巻 古代中世編(3)』~「ニーベルンゲンの歌」~

講談社『少年少女世界文学全集 3巻 古代中世篇(3)』~「聖杯王パルチファル」など~

講談社『少年少女世界文学全集 3巻 古代中世篇(3)』~「剛勇グレティル物語」など~