この第3巻には『ニーベルンゲンの歌』の他に7つの作品が収められています。
そのうち『ニーベルンゲン』に続く2篇、『聖杯王パルチファル』と『白鳥の騎士ローエングリン』は同じ相良守峯さんの翻訳。
巻末の解説に、相良さんはこう書き記しておられます。
わたしは、以上三つのドイツ中世の物語をならべて書きましたが、それには多少わけがあるのです。ふるいゲルマン時代の英雄たちが、じぶんの力にたよって人を征服し、えらいものになろうとすると、かならずじぶんもほろぼされる。
しかし騎士の時代になると、主人公はキリスト教の感化によって、じぶんの欲望をおさえ、神の愛にめざめることにより、国をおさめるばかりでなく、人々の精神をすくう聖杯王という高い位につく。つまり英雄主義の悲劇がすくわれることになるのです。ところが、このように聖杯をまもる役目の騎士は、また罪がないのにくるしんでいるものをすくうという義務をあたえられます。(中略)わたしはこのような三段階のすじ道を、三つの物語であらわそうと思ったのです。 (P404-405)
「必ず自分も滅ぼされる古いゲルマン時代の英雄たち」の物語が『ニーベルンゲンの歌』、そしてその英雄主義の悲劇がキリスト教の感化によってすくわれるのが『聖杯王パルチファル』、すくわれるけれどその代わり義務を負ってしまう『ローエングリン』。
今やゲームやアニメの題材として有名な「聖杯伝説」ですが、この全集に収められているのは12世紀ドイツの詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ作『パルチヴァル』をもとにしたものです。
このヴォルフラム作品の邦訳は1974年に郁文堂から出版されていて、Amazonさんなどの説明を見ると「本邦初訳」と銘打たれているのですが、1962年刊行のこの文学全集の方が断然早いですね。まぁ抄訳ではありますけど。
というわけでまず『聖杯王パルチファル』。
『ニーベルンゲンの歌』も素晴らしい幕開きでしたが、これまた冒頭の文章が見事です。読者である子ども達に向けて、お話へのいざない方が素晴らしい。
物語にはいるまえに、きみたちに話しておきたいことがある。いま、きみたちが本をよんでいるへやのまどから、どんな建物が見えているだろうか。(中略)でも、この物語をよみはじめるときには、そのようなありふれた建物のことは、きれいさっぱりわすれてほしいのだ。(中略)いいかね、きみたちのあたまの中に、お城のすがたを思いうかべてほしい。お城といっても、きみたちがこれまでに絵とか写真で見てきたようなお城とはわけがちがう。 (P101)
ここで「お城といっても」となるのは、この当時読者が思い浮かべる「お城」がノイシュバンシュタイン城とかシンデレラ城みたいなものではなく、姫路城や熊本城のような「日本のお城」の可能性が高かったからでしょうか。
かつて子どもの私が昭和50年代にこの全集を読んでいた時は、普通に「西洋のお城」をイメージできていたと思いますが……。
ともあれこの導入部から、相良さんの筆はスペインの北のほう、モンザルヴァーチュという深い森へと分け入っていきます。聖杯を守る城、モンザルヴァーチュ。かつてフランスの王子ティトゥレルが「聖杯を守る王」に選ばれた時、ここモンザルヴァーチュに城をたて、聖杯をおさめたのでした。
さて、そもまず「聖杯」とはなんぞや。
“堕天使ルーチフェル(ルシフェルのことね)が天国から地獄へ墜ちる途中、彼の王冠から抜け落ちた宝石により杯が作られた。「さかずき」といっても「皿か鉢のようなもの」だったらしい。最後の晩餐でこの杯から十二人の弟子たちにご馳走が分け与えられ、また、キリストのなきがらから流れ出た血をこの杯で受けた、という言い伝えもある。西洋では「グラール」と名付けられている”
と説明されています。
へぇー、へぇー、へぇー。キリスト教の何か、ということは漠然と知ってたけど、もとがルシフェルの王冠から落ちた宝石ってところが良いな。
さらにこの聖杯、「この杯を一度見るとその一週間は決して死ぬことがない、したがって聖杯のそばに住んでいる人はいつまでも年を取ることも命を失うこともない」のだそうで。
なんと羨ましい!!!
しかも聖杯は「何でも望みのご馳走を与えてくれる」って、素晴らしすぎじゃないですか? なんだそのドラえもんの秘密道具みたいな器物。
しかしもちろん誰もが「聖杯」に近づけるわけではありません。
それどころか、「聖杯に呼ばれたもの」しか、モンザルヴァーチュの森を通り抜けることはできないのです。
で、えーっと、主人公のパルチファルですが。
パルチファルは、アンジュー国の王子ガームレットとウェールズの女王ヘルツェロイデとの間に生まれた男の子です。
父は王子で母は女王、パルチファルも当然「王子」として育つはずですが、彼が生まれる二週間前に父ガームレットが殺され、その死を嘆いた母ヘルツェロイデは「愛しい夫が死んだのは騎士だったせい。この子は決して騎士などにはすまい」と、女王の地位を捨ててしまうのです。
単に女王をやめるだけでなく、百姓となって森のほとりでパルチファルを育て、パルチファルは「百姓の子」として、森の中で鳥や獣を追い回して大きくなります。
ところが。
パルチファル、通りがかったアーサー王の騎士たちに憧れ、「おら騎士になるぞ!」とあっさり旅立ってしまうのです。母ヘルツェロイデは悲しみのあまりこれまたあっさり死んでしまう。お母さん、もうちょっと気を強く持って……。
母が息を引き取ったことなど知らぬパルチファル、母の教えを守りながら旅を続けます。ちなみにその教えとは。
1.川を越すときは底の見える浅瀬をわたる。
2.人に出会ったら挨拶する。
3.老人には何か教えてくれるよう頼む。
4.よい女の人に出会ったらキスと指環をもらい受けよ。
えーっと、お母さん? 1~3はともかく4の教えは……???
素直なパルチファル、テントの中にねていた婦人がとても美しかったので、「これこそお母様が言った“よい女の人”なのだろう」と思い、寝ていた彼女の額にキスをし、指から指環を抜いて持ち去ってしまいます。
お母さんが変なこと教えるから……。
ここで相良さん、ちゃんと読者に向けて注釈を入れます。
どうもパルチファルって子は、すこしあたまがへんだ、ときみたちは思うだろうね。たしかに、あんまりりこうな少年じゃなかった。だいたいパルチファルという名前は、「純真なばかもの」という意味だったのだ。 (P109)
はははは。
しかしフォローも忘れない。
でも、かれは、すなおで、心のうつくしいわかものだった。だからこそ、心がすくすくとそだっていって、ついにはたいへんえらい人物になれたのだ。 (P109)
その後パルチファルはアーサー王の城にたどり着き、赤い騎士を倒して、再び武者修行に出ます。途中出会った老人に武芸や作法を習い、騎士らしくなっていきますが、この老人に「むやみに質問するな」と教えられたことが、後の禍根となります。
プロバルツ国の女王コンドウィラムールを助けて彼女と結婚するも、また旅に出たパルチファル、ついにモンザルヴァーチュの聖杯の城にたどり着き、城内に招かれるのですが。
どうも城内の様子がおかしい。
誰も彼も悲しみにうち沈んだ顔をして、聖杯からわいてくるご馳走を口にしても、ちっとも美味しそうな顔をしない。
変だなぁ、と思ったものの、「むやみにものを尋ねるな」とくだんの老人に教えられていたため、何も質問しないままパルチファルは一夜を過ごします。
翌朝目を覚ますと城の中には人影がなく、きつねにつままれたような気分で城をあとにすると、出会った小姓にいきなり「この馬鹿野郎!」と罵られるパルチファル。
「どうして、王さまにおたずねしなかったんだい。せっかくの名誉をふみにじっちまったんだぜ。ばかやろう」 (P113)
実は。
モンザルヴァーチュの今の聖杯王アムフォルタスは、とある呪いを受けて一生ふさがることのない傷に苦しんでいたのです。なんせ聖杯のそばにいるものは「死なない」ので、苦しいからと言って死ぬこともできず、その痛みに未来永劫耐え続けなければならない。
聖杯の城でみなが悲しい顔をしていたのはそのせいだったのですが、パルチファルにしてみれば「そんなん知らんがな(´・ω・`)」です。「それならそうと言うてくれよ」。
が、王様の方は決して自分からそのことを話せない。なぜなら、その呪いを解く方法が、
聖杯によってみちびかれたりっぱな騎士が、聖杯の奇跡や、聖杯王のなやみについて、じぶんからすすんでたずねることなのだ。その質問によって王のきずはなおり、たずねた騎士は、聖杯王のあとつぎになれるのだ。 (P123)
というものだったから。
だからパルチファルは小姓だけでなく、みんなからよってたかって「バカ!ひどい!」と罵られることになったわけです。
いや、だって、そんなこと知らんがな!!!!!
ほとんど濡れ衣といっていいお話で、パルチファルが気の毒すぎるんですが。
パルチファル自身、「わたしは教えを守っただけで何も悪いことはしていない。なのに神はわたしを見捨ててしまわれた!」と嘆くのですが。
出会った巡礼の騎士に諭されるのです。
「あんたは、なにもわるいことをしないのに神にのろわれたといわれるが、どこか思いちがいがあるのでしょう。じぶんではわるいことをしていないつもりでも、じぶんの気がつかないところでつみをおかしていることがよくあるものです。」
「神は人間がつみやあやまちのためにくるしむのを見るに見かねて、じぶんも人間となって、つまりキリストとなって、この世に生まれてこられた。(中略)そういう神のまごころをうたがってはいけません。」 (P121)
あー。そうね、これキリスト教を広めるためのお話だもんね。
さらにその後、岩穴に住む隠者に出会い、母ヘルツェロイデが自分と別れた悲しみで命を落としたことを知らされます。(隠者は実はヘルツェロイデの兄。しかも聖杯王アムファルタスの弟だったりする。つまり聖杯王はパルチファルにとって叔父さんにあたる人だったわけ。なんか出てくる人みんな親戚なんだよね…)
そうしてパルチファルは深く納得するのです。
「人間は、自分が気のつかないうちに、つみをおかすというのは、こういうことなんですね、おじさま。法律の上のつみでなくても、やっぱりつみであることにかわりないのですね。じぶんの気がつかないつみに思いあたる人だけが、けだかい人間といわれるのですね。」 (P122)
対して隠者はこう答える。
「おまえはつみをおかしたことに気がついたんだね。じぶんさえわるいことをしなければいいというのではすまないよ。(中略)なにをくるしんでいるかとたずねることは、人をたすけることの第一歩だろう。」 (P123)
うーん、このあたり、もし子どもの時に読んでたら自分はどう思ったかなぁ。それでも最初にパルチファルが非難されたのは理不尽だと思ったのでは。非難するだけで、「聖杯王にかけられた呪い」については誰も説明してくれなかったわけだし。
パルチファルは5年ほど苦しみさすらっていたらしいのだけど、その後はトントン拍子、会ったこともなかった異母兄ファイレフィツとも出会い、聖杯のおつげによってモンザルヴァーチュの城に入り、あっけなく聖杯王に。
自らの罪を自覚し、神の恩寵を心から信じたから聖杯が改めて彼を守り手として選んだってことなんでしょうけど、うーん、日本人的にはなんかモニョる。
聖杯王の座についたとたん、5年間会ってなかった妻コンドウィラムールが双子の王子ローエングリンとカルディスを連れて現れたりするしねー。
これはけっしてぐうぜんに生まれた幸福ではなかった。パルチファルがさびしさをこらえ、くるしみにうちかって、けんめいに努力した結果、神からあたえられた幸福なのだ。 (P133)
うん、まぁ、パルチファルくんが努力しただろうことは認めるけれども、しかし母や老人の教えを守ったばかりに非難されるのは……いや、それは「人の言うことが正しいとは限らない、自分の頭で考えろ」という教訓なのかな? でもパルチファルが聖杯の城に呼ばれたのはもともと聖杯王の甥っこだったからでは――血筋が良かったからでは、という気も。
パルチファルの次はその子ローエングリンが聖杯王のあとつぎとなったらしいし。
ローエングリンがブラバントの王女エルザひめをすくいにいった話は「白鳥の騎士」の物語になっているから、あとのたのしみにとっておくとしよう。 (P133)
で、ページをめくると次のお話が『白鳥の騎士ローエングリン』。よくできてるなぁ。
『ローエングリン』の方は、「ワグナー作」となっていて、彼のオペラをもとに相良さんがお話をまとめていらっしゃいます。
ちなみにパルチファルの方もオペラ化されていて、はしがき部分にちゃんとそのことも言及されていました。
このパルチファルのことは音楽家のワグナーが「パルジファル」という楽劇(オペラ)につくっていて、そのほうからも有名な物語となっています。 (P100)
『パルチファル』の方で、「聖杯の騎士(モンザルヴァーチュの騎士)」は「名乗ってはいけない」とされていたことが、この『ローエングリン』で生きてきます。
そのばあいに、よその国につかわされた騎士は、けっしてじぶんのすじょうを人にきかれてはならなかった。もしもたずねられたときには、これにこたえずに、すぐにモンザルヴァーチュにもどらなければならぬという、きびしいおきてがあった。 (『聖杯王パルチファル』の方の記述 P103)
今ではオランダとなっているあたりの国ブラバント。
その王女エルザは弟殺しの罪をきせられ、伯爵テルラムントにより断罪されようとしていました。
行方不明の弟の無事と、自身を救ってくれる人が現れることを夜ごと神に祈っていたエルザ。夢で「救いの騎士」の姿を見ていた彼女は、裁判の場に引き出されても夢うつつで騎士の話をするばかり。
「ゆめに騎士があらわれた。金のつのぶえをこしにさげ、つるぎにもたれて立っていた。そしてわたしをなぐさめた。あのかたこそはすくい主。もう、あのかたをまつばかり」 (P141)
テルラムント伯は「誰か姫を助けようという騎士があるならそいつと戦って白黒つけよう」と言いますが、剛勇として名高いテルラムントと戦おうという騎士はブラバントにはいません。
誰も名乗り出る者がなく、エルザ側の不戦敗になるかと思われたその時、近くの川(裁判は野外で行われていた)を白鳥にひかれた船がのぼってきます。
その船に乗っていた騎士こそ聖杯王パルチファルの息子、ローエングリン。彼は聖杯に(つまりは神に)命じられ、エルザを救いに来たのでしたが、前述の通り自分の素性を明かすことは決してできない。なのでまず、
「(私が勝ち、あなたと結婚してこの国を治める王になっても)わたしの名まえや、すじょうなどを、けっしておたずねになってはいけません。いまここでやくそくしていただけますか。」 (P144)
と断りを入れます。エルザ姫は
「どうしてうたがいなどいたしましょう。わたしのすくい主であるかたのお名まえや、すじょうを、どうして、おたずねする必要がありましょう。」 (P144)
と誓い、ローエングリンはあっさりテルラムント伯をくだし、エルザ姫を救います。
ローエングリンは彼女と結婚してブラバントの王となり、テルラムント伯は追放されることに。しかしもちろんテルラムント伯は――とりわけその妻オルトルートは黙っていません。
「どこのうまのほねともわからない男に負けるなんて。やましいところがなければ名乗れるはず、あの裁判は無効だ!」
……うん、まぁ、さすがに「王様」になる人がどこの誰ともわからない、「○○王」と名前で呼ぶこともできないのはねぇ、領民や他の家臣の中にも納得できない人が出てくるのでは。
オルトルートにそそのかされ、また、「愛する人の名を呼びたい」という自身の欲望にも衝き動かされて、とうとうエルザは禁断の問いを発してしまいます。
「どうかお名前をおっしゃってください。どこからやってきたのか教えてください」と。
ローエングリンはついにその素性を明かします。エルザへの愛のために。
「わたしは、身分のたかい人が権力をもってたずねようとしても、また、悪人が計略をもってききだそうとしても、ぜったいに身のうえをあかしはいたしません。けれども、妻エルザは、わたしにたいする愛のために、わたしの名とすじょうをたずねました。愛情のこもった質問にはこたえなければなりません。」 (P157)
父は聖杯王パルチファル、そして私は聖杯の騎士ローエングリン――。
「これ(聖杯)につかえるものは、永久に死ぬことのないいのちをあたえられます。その命令によってとおい国につかわされたものは、じぶんの名まえやすじょうをあかさないかぎり、神からさずけられた、ふしぎな力をうしなうことはありません。けれども、このおきてにそむいて身分と姓名を人にもらしたら、そのものはただちにモンザルヴァーチュにかえらなければならないのです。このおきてにそむいたものは、神のいかりをうけなくてはなりません」 (P157)
ローエングリン、名前を明かしちゃったらから力を奪われ、不死でもなくなっちゃうんでしょうか?
というか、もしそのまま名乗らずブラバントの王として過ごしていたら、自分だけ不死でエルザだけ年取っていったってことなのかしら。
ともあれローエングリンは去らなければなりません。
実はローエングリンを連れてきた「白鳥」は魔法で姿を変えられたエルザの弟ゴッドフリートだったりして、無事彼は白鳥から人間に戻り、新たなブラバントの王として認められるのですが、しかしローエングリンが去って行くことに耐えられないエルザ、気を失ってそのまま息を引き取ってしまいます。
えええええ……。パルチファルのお母さんといい、簡単に死にすぎでは。せっかく弟くん帰ってきたのに。
解説部で相良さんは、
(ローエングリンは)神からつかわされて、人をすくうという使命をあたえられている、いわば神のような人間です。神というものは孤独な存在です。人は神をおそれうやまうが、これを愛するということはなかなかできません。 (P404)
と書いていらっしゃいます。神にも等しい存在であるローエングリンがエルザ姫と結婚し、暮らしていくためには「神」であることを隠さねばならないのだと。
なるほどなぁ。
不死と「ふしぎな力」を授けられ、その代わり「普通の人間」であることを奪われた聖杯の騎士たちは果たして幸せなのか。エルザにとってローエングリンは真に「救いの騎士」だったのか。
名を問わなければ「救われた」、最終的に破滅することになったのはエルザの心が弱かったからであり、「神」のせいではないのか――。
「神」の「か」の字も出てこない、復讐と殺戮の嵐である野蛮な『ニーベルンゲンの歌』の方が、私にはむしろ好感が持てます。
巻末の『読書指導』の項には、こんな記述があります。
現代の人間どうしだって、みな欲望をもって生き、欲望と欲望で競争しあっています。また、この物語(※ニーベルンゲンの歌)は、欲望と欲望とのあらそいの連続といってもよいくらいです。ところが、この欲望というものは、否定しても否定しきれるものではありませんし、よいものともわるいものともいいきれるものではありません。問題は、どんな欲望をもつか、その欲望をみたすのにどんな方法をもちいるかという点がたいせつです。 (P410)
思わず「仮面ライダーオーズか?」と思ってしまいましたが、「欲望は否定できない」「良いとも悪いとも言い切れない」っていうの、すごくいいですね。
クリームヒルトの復讐心から(というかそもそもはグンテル王の嘘から)敵味方どちらもほぼ全滅してしまう『ニーベルンゲンの歌』。
わたしたちが生きている現代は、原子爆弾一個で、むかしとは、けたちがいの人たちが、いっきょにはいになってしまう世の中なのです。こう考えると、あながちこのむかしの英雄ごうけつの物語の結末を、ばかにばかりはしておれないきもちになります。 (P411)
第二次世界大戦終結からまだわずか17年。
当時の大人達が次代を担う子ども達に向けて伝えようとしたこと。
「あなたはどう生きるか」と投げかけた上で、『読書指導』の執筆者(滑川道夫さんと野村純三さんという方)はこう締めくくります。
物語や小説は、人間の展覧会場のようなものです。しかも、物語や小説というものは、ふだんの生活ではわからない人の心の内側を、あますところなくうつしだしてくれます。だから、わたしたちは、物語や小説をよむことによって、人間というものはどんなものであるかということを、勉強することができます。 (P414)
読書に「指導」なんてされたくないし、勉強のために本を読むのは違うと常々思っている私ですが、相良さんはじめこの全集の企画をされた方々の「熱い想い」にはほだされますねぇ。
残り5篇、第3巻の感想はまだ続きます――(うう、もう疲れたよパトラッシュ)。
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