相良守峯さん訳の『ニーベルンゲンの歌』『聖杯王パルチファル』『白鳥の騎士ローエングリン』のゲルマン三部作の他に、この第3巻には5篇の作品が収められていまして、駆け足で紹介していきたいと思います。

【きつね物語】

みなさん、みなさんはたくさんのお話をごぞんじです。ギリシア神話のパリスとヘレネの物語や、かなしいトリスタンとイゾルデの物語だとか。ファブリオー(フランス中世の陽気な短篇物語)や武勲の詩(戦争のてがらの歌)もおききになっている。しかし、ルナールとそのなかまのイザングランとのあいだで、ながいあいだにわたって、はなばなしくくりひろげられたあらそいのことはごぞんじないでしょう。 (P163)

という語りだしで始まる、13世紀のフランスでつくられたお話。民間で語り伝えられた説話に、おおぜいの詩人たちが手を加えたものらしく、作者は不詳。その起源についてもはっきりしたことはわからないそうです。

主人公はきつねのルナールとおおかみのイザングラン。
きつねにもおおかみにも忠実な妻がいて、後半にはライオンの王様や、その宮廷に仕える色々の生き物も顔を出し、「十字軍」という言葉も飛び出して、描かれるのは完全に人間世界。人間のお話にするとあまりにかどが立つ&生々しいので、動物のお話として書いた、という感じ。

「きつね物語」というタイトルではありますが、きつねという生き物の生態を観察した「動物記」のようなものではまったくありません。

きつねは、今日でもその道の修行をしている連中ならだれでもその名を知っている、あのルナールという、いかさまペテンの親分と、うりふたつでした。つまり、人間としてはルナールであり、動物としてはきつねというわけです。 (P164)

ところで、きつねには、イザングランという、気ちがいのようにらんぼうな、血にうえているおおかみのおじさんがおりました。 (P165)
(※すぐ後に、きつねとおおかみは本物の親戚ではなかった、ということわり書きがあります)

「気ちがいのようにらんぼう」と紹介されるおおかみイザングラン、しかしいつもきつねに騙され、ひどい目に会っていて、「どっちが乱暴だよ?」という気がします。

この手の説話では常に「ずる賢い」「悪賢い」役目を与えられるきつね、なんで人間はそんなにもきつねを「悪者」と見るんでしょうね。作物を荒らされた恨みなのかしら……。

きつねがイザングランを陥れるエピソードがいくつも並べられたあと、最後は駆け足できつねの死。いかにも「尺がなくなった」感じがします(笑)。
イザングランだけでなく、その悪知恵でさんざん人を騙して一度は「死刑」宣告もくだったきつね、なぜか最後は王様に「もっともよいけらいをなくしてしまった」(P229)と嘆かれていて、「ええっ?」となりました。
「はしがき」にも「わたしたちも心からにくむきもちになりきれない」と書いてあるんだけど、いや、もしこんな奴が隣人だったらと思うと憎む気持ちしかないよ???

体力的には弱いだろうきつねが「知恵で勝つ」というのが庶民の心をスカッとさせたのかもしれませんが、今だとコンプライアンス的にどうよ?という気がします。

ちなみに岩波文庫で大人向けの翻訳が読めるよう。



【中世の伝説から】

キリスト教に関係する3つの短篇が紹介されています。訳者は山室静さん。

まずは「金のりんごと赤いばら-少年少女のための聖者伝から-」
解説に、イギリスの文学者ウイリアム・カントンの「子どものための聖者伝」から採ったとあります。

まだローマ帝国がキリスト教を異端扱いしていたころ、いわゆる「踏み絵」を拒否して死刑になったむすめドロテアが「聖女」となり、奇跡を起こす物語です。
前半で彼女が「聖女」となった経緯が語られ、後半、彼女を深く信仰するおぼうさんがらい病にかかり、不思議な少女が彼の世話をしてくれるのだけど、その少女は実は「ひつぎ」を脱け出した聖女ドロテアだったのです――。

修道士カドフェルのシリーズを連想してしまいますねぇ。1作目、「聖女の遺骨」がらみでしたもんね。

ドロテアが「踏み絵」を拒否するところ、

「そんなにおまえが愛しているイエスとは、いったいどういう男か。」
「神のみ子の、われらの救い主でございます。さあ、わたしをころしてください。それだけはやくわたしは、天国にいられるあのかたのおそばにいけるのです。そこにはくるしみもかなしみもなく(後略)」 (P233)

というやりとりがあって、神も仏もごちゃ混ぜな日本人としてはむずがゆい気持ちになりました。西洋の少年少女はこれを「聖者伝」として読まされるのねぇ。

続いて「テオフィル助祭の奇跡-黄金伝説から-」

13世紀末にジェノア生まれのヤコブス・デ・ヴァジラーヌがラテン語で書いた「聖者伝」。もっともすぐれた聖者伝として有名になり、「黄金伝説」と呼ばれるようになった本から採られた1篇。

悪魔にたましいを売ったテオフィル助祭が悔い改めて救われる、短いお話です。

「おまえのねがいはききとどけられるでしょう。天国では、いちどもまちがいをおこさない正しい人よりも、悔いあらためた罪人のほうを、いっそううれしく思うのですからね。」 (P246)

「いわんや悪人をや」というのは仏教にもある考え方ですが、それなら真面目に生きてきた人間には何の得もないの?という気持ちになりますね。そんなこと考える人間には徳がない、と言われるのでしょうが。

もとの『黄金伝説』は平凡社ライブラリーで読めます。なんと全4巻もあるみたい。


最後、「オラーブ王とノルナゲスト-北欧のサガから-」
これが一番面白かったです。

キリスト教に帰依したノルウェーの王オラーブのもとに、不思議な客「ノルナゲスト」が現れます。「ノルナゲスト」とは「運命の客」という意味なのですが、デンマーク出身というこの男は、古い神々を信仰していました。オラーブ王は折に触れ彼をキリスト教に改宗させようとしますが、ノルナゲストはそれをことわるばかりか、逆に王を古い信仰にたちかえらそうとします。

実は彼は何百年と生きている男で、彼のたずさえる小袋の中にはかつての英雄たちの形見の品がいくつも入っていました。その中にはなんとあのジークフリートゆかりの品も。

「当時あのシグルド、ドイツ人のいいますジークフリートの武勇と美貌とが、あまりに名高うございましたゆえ、(中略)南のかたブルグントをたずねたのでございます。そのころかれは、王にもごしょうちのように、あそこの王宮でくらしておりましたので。」 (P252)

ブルグント! クリームヒルトの国!

「してわたしは、ちょうど十年のあいだかれの従者としてつかえましたが、かれが名刀グラムで毒龍をたおしたのは、そのあいだのことだったのでございます。」 (P252)
「『ニーベルンゲンの歌』は、シグルドがうらぎりにあってころされたのは、森の中だったといっておりますが、それはちがいます。かれは、ねどこにいるときに、ギューキの子グットルムによって、剣でさしつらぬかれたのでした。」 (P253)

マジかよー、ギューキって誰だよ、その子グットルムって誰だよ。
そもそもブルグントに訪ねていって、そこから十年ジークフリートのもとにいて、その間にジークフリートが龍を倒して不死身になった……だと、時系列がだいぶ違うような気がするんだけど、まぁどっちも「伝説」だから、どっちが正しいとかいう話ではないのかな。

ともあれ全集を頭から読んでこの箇所にたどり着いた子ども達、「ここでジークフリートの話!」って嬉しくなるよね。おばちゃんは大変嬉しかったです。

そんな、かつての英雄に仕えた経験もあるノルナゲスト、青年に見えるけど(「顔はおどろくほど美しく」という記述があります)今年でなんと300歳。生まれた時にノルンの女神の使いの巫女から「このろうそくが燃え尽きぬ限り死なない」と予言され、若い姿のまま、長い時を生きてきたのでした。

「しかし、わたしはもはや生きることにうみました。いっそこれをともして死にとうぞんじます」
「いえ、わたしの時代はもはやさりました。北国第一の英雄とたたえられた陛下さえ、もはやオーディン、トルなどの神々を見すてられたではございませぬか。わたしには、それが無念でなりませぬ」 (P257)

私も無念だよ…八百万の神々を崇めようよ……。

オラーブ王に勧められ、ついにノルナゲストも洗礼を受けます。そして王に

「ゲストよ、ふるい神々はもはや力をうしなったのじゃ。いまはそのろうそくをともしても、なんともないぞ。どうじゃ、ともしてみるか」 (P258)

と言われ、ろうそくに火をともすと――。
ろうそくが燃えるにつれてゲストはみるみる老いていき、ろうそくが燃え尽きると同時に息を引き取ってしまいます。

王は彼の死を惜しみながら、「あたらしい信仰をえながら、かれはやはりふるい神々をすてきれなかったとみえる」(P258)と漏らすのですが。

そうじゃなくて、キリスト教が世の多勢を占めるようになっても、古い神々は決して死んだわけじゃない、って話なのでは???

とはいえこのオラーブ王の言葉も面白いですよね。ゲストが信仰しているからこそ、古い神々は生きて力を持つ、ってことだから。神が存在するかどうかは、結局は人の心次第。


【剛勇グレティル物語】

アイスランドのサガの一つ。原題は「アスムンドのむすこグレティルのサガ」というらしく、1300年頃に成立した作品だそう。ここにもちょろっとオラーブ王が顔を出し、読んでいて「お!」となりました。

主人公グレティルは全然英雄ではなく「悪ガキ」で、今だとポリコレ的に無理というか、いわゆる「子どもに読ませたい英雄譚」ではないんだけど、子どもの時に読んだらもしかしてスカっとしていたのかも。
どうしても今は「親目線」で読んでしまうので、前半部分の「なんだこのガキは」感がすごい。

「英雄」とか「豪傑」ではなく「剛勇」となっているところがなるほどうまいです。

グレティルは、小さいころからあつかいにくい子どもだった。口数はすくないうえに、動作はらんぼうで、なにかというと、だれとでもけんかをはじめるのだった。 (P261)

10歳になったグレティル、父親から「がちょうの番をしろ」と言われますが、途中でめんどくさくなり、動こうとしないひなどりたちに腹を立てた結果、なんと全部殺してしまうのです。
マジか(´・ω・`)

しかも歌っちゃう。

 冬がちかづいてくると、
 ひなどりどもの首をしめてやりたくなるんです。
 親鳥どもも、いっしょにいれば、
 そいつらの羽もむしってやりますのさ。 (P263)

折に触れ歌うグレティル。実際に歌ってたというよりは、サガという形式がそういうものなんでしょう、きっと。

しかし子どもが大事ながちょう全部殺しちゃって、悪びれもせずこんな歌歌ってきたら、親は怒り心頭じゃないですか??? グレティルが悪ガキなのわかっててがちょうの番させる方が悪いのか……。

いたずらというにはあまりに度が過ぎる(現代日本ではもはや犯罪的な行為)を繰り返す短気で乱暴者のグレティル、殺人の罪で国外追放になったりします。
しかし良く言えば勇猛なわけで、トレヴィルという有力者の家に居候していた時には、主人の留守中襲ってきた狂戦士(と呼ばれるならず者たち)を撃退し、トレヴィルの感謝と信頼を勝ち得ます。

でもグレティル、女主人から感謝の言葉をもらっても、「あなたがゆうべ、わたしをののしったときのわたしと、いまもおなじ人間なんですかね」(P290)と皮肉を返すんですよねぇ。正直と言えば正直なんだけど。
 
 大海原のほとりに、おそろしい
 狂戦士たちをほうむってきました。
 わたしは、おそるることなく、
 十二人をうちたおしたのです。
 おくがたさま、これをもわずかなおこないとお考えになられるなら
 人のなしうることで、ほかに、
 称賛にあたいするものがあるでしょうか。 (P291)

悪名高い狂戦士を倒したことでグレティルの名も有名になり、その後も熊を退治したり、因縁をつけてきたビョルンという男を返り討ちにしたり、武勇を重ねていきます。

ビョルンの兄弟に仇として狙われるものの、またも返り討ち。さらにその兄弟(つまり三兄弟だったらしい)が襲ってくるもやはり返り討ち。
3人も殺しちゃって、地域の首長から「今度ばかりは見逃せない」と言われるものの、結局は賠償金のみで罪を免じられます。狂戦士の件でグレティルに多大な恩義を感じているトレヴィルがどーんと賠償金を出してくれたのが大きいんだけど、3人とも全部「向こうが因縁をつけてきた」なので、「むざむざ殺されておけばよかったとおっしゃるんですかい?」とは思います。

グレティルの冒険は続き、悪霊グラムを打ち倒すも、そこで「のろい」をかけられてしまいます。

「あまえがおれとあらそったりしなければ、おまえには、ものすごい力とつよさがあたえられるはずだったが、いまとなっては、それもはんぶんしかさずからんのだ。(中略)これからは、おまえの身には、追放とあらそいごとばかりが、ふりかかることになるのだ。(中略)もうひとつ、こういうのろいを、おまえにかけてやる。このおれの両眼が、いつになっても、お前の目の前に、ちらつくようにしてやろう。そしておまえは、ひとりでくらすことがたまらなくなり、やがてそのために、おまえは死にいたることになるのだ」 (P315)

グラムの「のろい」のせいなのか、グレティルの運命は悪い方へと転がっていきます。
短気を起こしたばかりに無実を証明することができず、かのオラーブ王に仕え損なったり、あちこちで剛勇っぷりを発揮するものの敵の数ばかりが増えていく。

最後にはトールビョルンという男に討ち取られるグレティル。
「きつね物語」と同じで、こちらも最後がやけに駆け足でした。

グレティルの義兄トルステインはトールビョルンを追い、遠くコンスタンチノープルでグレティルの仇を討ちます。

法律家ストルラのことばによれば、追放者の中で、剛勇グレティルくらい、名高いものはないという。なぜなら、グレティルは、知恵においても、力においても、第一の人物であり、それにグレティルのかたきうちのように、とおくコンスタンチノープルでなされたものは、ほかにないからだよ。(おわり) (P330)

いや、それ、グレティルじゃなくてお兄ちゃんが偉かっただけでは……。しかもお兄ちゃんは最後「幸せに暮らしました」みたいになるんですよねぇ。主人公のグレティルの方はあまり「幸福」というものに縁がなかったのに。
短気で乱暴で、決して「善人」ではないグレティル、最初は「なんだこのクソガキ」と思いますが、正義のヒーローではない冒険譚、興味深かったです。

「グレティルのサガ」はちくま文庫に邦訳があります。



【勇士フリチョフ物語】

こちらもアイスランドのサガ。テグネールという人の詩が有名らしいのですが、ここでは「古代アイスランド語で書かれた“勇士フリチョフ物語”」を原典としているそうで……訳者尾崎義さんは古代アイスランド語がおわかりになるのか、すごい。

グレティル物語と違って、こちらは割とわかりやすい「英雄譚」です。

シュグナ国のベリ王には3人の子どもがいました。ヘルゲ王子とハルフダン王子、そしてインゲボルグ姫。主人公フリチョフはベリ王に仕える郷士トルステインの息子で、インゲボルグ姫とは兄弟のように育ちます。
2人は互いに惹かれあいますが、ベリ王のあとをついだ王子たちはフリチョフのことをよく思わず、インゲボルグ姫をリンゲリーフ国のリング王に嫁がせてしまいます。

のみならず、ヘルゲとハルフダンはフリチョフをなんとかして亡きものにしようと企むのですね。フリチョフをとある島に送りだし、魔法使いに頼んでその船を大嵐にあわせ、その間にフリチョフの館を焼きはらってしまう。

なぜそこまで(´・ω・`)

もちろんフリチョフは生還し、ヘルゲ王たちに反撃。ひどい目に遭った王たち(自業自得なんだが)はフリチョフを追放扱いにするも、フリチョフの方は意気消沈どころかバイキングになって荒稼ぎ。

フリチョフたちは、夏のあいだ、バイキングになって島々をあらしまわり、わるものからお金や品物をうばいとり、たいへん有名になりました。 (P360)

「島々を荒らし回り」だけ読むと「ええっ」と思いますが、その島にいるのがわるものならいいのか、むしろ褒められるのか。

フリチョフは、わるものや残忍な海賊たちをころしましたが、農夫や商人たちをいじめることはしませんでした。 (P361)

うむぅ。つまりフリチョフは義賊だったと……。

ともあれすっかりお金持ちになったフリチョフ、インゲボルグ姫が嫁いだリング王のもとを訪れます。
素性を隠していたものの、聡明なリング王は最初からフリチョフのことを見抜いていました。すでに高齢で、自身の老い先が長くないことを自覚しているリング王、フリチョフを信頼し、彼に国とインゲボルグのことを任せようとします。

いい人すぎないか、リング王。

サガなので、グレティル同様、フリチョフたちもしばしば歌で心情を表現します。

 リング王、すぐれた王、
 いつまでもお元気で。
 おきさきと領地を
 たいせつにおまもりください。
 わたくしは
 インゲボルグ妃には
 もう二どとおめに
 かからないでしょう。 (P369-370)

 旅だたないでくれ、とおくへ。
 フリチョフ、すぐれた戦士、
 心かなしい勇士。
 おまえのたからもの、うで輪のかわりに、
 思いもつかぬ
 よいおかえしを
 きっとするつもりだ。 (P370)

ほどなくリング王は病死、年若い王子の代わりにフリチョフが首長として国を治め、インゲボルグと結婚。ヘルゲ王たちとは戦になり、ヘルゲ王はフリチョフに斬り殺されます。残ったハルフダン王は降参、結果シュグナ国はフリチョフの領地に。
リング王の遺児が大きくなるとリンゲリーフ国は王子に返し、フリチョフは「シュグナ国の王」と呼ばれるようになりました、めでたしめでたし。

うーむ、これはフリチョフよりもリング王の人徳をあがめるためのサガでは……。

「フリチョフのサガ」そのものを邦訳したものはググっても出てこなかったんだけど、テグネールによる『フリチョフ物語』は邦訳されたことがあったよう。タイトルは「フリショフ物語」。Amazonさんでは詳しい情報が出て来ないけれども、国会図書館に所蔵がありました。1983年、大学書林。


普通に大人が邦訳を読みたいと思ってもないものを、古代アイスランド語から訳して少年少女向けの文学全集に入れちゃうっていうの、すごすぎないですか?

フリチョフだけでなく、他の作品も邦訳の選択肢が少なく、大人になっていざ読もうと思ってもなかなか手に取れないようなものばかり。それがこの1冊で網羅されちゃってるのホントにすごい。

解説部には、

北欧サガはこれまで日本ではあまり注目されず紹介もされなかった文学ですが、現在のこっているだけでも二百編ばかりもあり、ヨーロッパ中世文学の一大宝庫なのです。 (P402)

とあります。
今でこそゲーム等で北欧神話もおなじみですが、昭和30年代に中世ドイツのお話に加えて北欧サガを紹介する。「世界文学全集」の名にふさわしすぎますね。


【ばかの療治、天国からきた遍歴学生】

というわけで、最後にドイツはニュルンベルクのくつ職人にして詩人、劇作家だったハンス・ザックスの作った「謝肉祭劇」2篇をぶっこんでくる文学全集さん、「謝肉祭劇」とかほんとに大人でも「なにそれ美味しいの」状態なんですけど。

「劇」なのでどちらもシナリオ形式。そしてどちらもコミカル。

まず「ばかの療治」の方は、医者が病人の腹から様々な種類の「ばかの虫」を引っ張り出すという、今でも十分コントとして通用しそうなお話。

ごらん、これはねたみのばかだ。これがあんたを不実にするのだ。あんたは隣人の不幸をよろこぶ。そしてしきりにいじわるいいたずらをする。 (P381)

コントなんだけど、最終的には教訓話になる。

あんたにばかがたかったのも、あんたがじぶんの考えだけを正しいと思って、なんでもじぶんの意志どおりにやり、じぶんをちっともおさえようとせず、気がむけばなんでも手あたりしだいにやったからだ。 (P386)

わしはさいごに、いい処方をのこしておこう―― だれでも生きているあいだは、理性を主人にするがいい。そしてよく我をおさえて、あいてが富者でも貧者でも、男でも女でも(後略) (P387)

「天国からきた遍歴学生」の方は、通りすがりの学生が「パリから来た」と言ったのを「パラダイス(天国)から来た」と聞き間違えた純朴な農婦とその夫のお話。

「天国から来た人だ!」と思った農婦、亡くなった前の夫のため、「あの世で不自由しないよう、このお金や着物をどうぞ彼に渡してください」と金品を学生に託します。
もちろん学生は「ただの学生」で天使ではないので、これ幸いともらった荷物を持ち逃げ。

話を聞いた農婦の今の夫は「バカか!そんなもん前の亭主のとこに届くわけないだろうが!」と、学生のあとを追いかけるのですが、結局彼もまんまと学生にしてやられて、馬と金を取られてしまいます。

けれども夫は「自分も騙された」とは口が裂けても言いません。うまいこと言いつくろって、「全部前の亭主の供養になった」と思い込んだ農婦は夫に感謝します。

夫の方は最後まで妻をばかにしていて、時代とはいえ読んでてちょっとムカつきますが、この話のキモは「りこうだと思ってる方も言うほどりこうじゃない」ということ。

そんな女房でも誠意がある女なら、亭主はがまんができるというもんだ。(中略)亭主だってそんなにりこうなわけじゃない。だから、そんとそんとをあいこにして、夫婦のあいだに平和をたもち、不和が生じないようにするのがいいのだ。われわれみんなに、ハンス・ザックスはそれをのぞんでいる。 (P399)

女房がばかに見えてもお互い様なんだから、夫婦仲良くやっていこう、という締め、当時の大衆向けのお芝居としては精一杯の「男女平等」なんだろうなぁ。「そんな女房でも」ってくだり、やっぱりムカつくけど、お話の作りはうまい。

最後に「ハンス・ザックスは」と作者の名前が入るのも面白いです。「ばかの療治」の方も、「ハンス・ザックスは「おやすみ」をもうします」で終わっていました。

くつ職人にして名うての劇作家ってすごいですよねぇ。この本を手に取るまでまったく存じ上げませんでしたが、『ハンス・ザックス謝肉祭劇全集』という邦訳があるもよう。



【解説その他】

はぁぁぁ、とにかく中身の濃い1冊でした。

解説部、今回も「古代・中世文学のあらまし(三)」という部分は山室静さんで、ゲルマン民族大移動からキリスト教の話、アウグスチヌス「告白録」、ポエチウス「哲学のなぐさめ」、「ベオウルフ」に北欧サガなどに言及。相変わらずレベルがクソ高いです。アウグスチヌスはわかるがポエチウスわからん。

ほかの中世文学がすべて詩の形で書かれているのにたいし、これ(アイスランドのサガ)が散文で、しかも近代小説とかわらないリアリズムにつらぬかれている (P402)

あれ、サガは散文なの???散文だけどグレティルやフリチョフは歌っちゃうのか。グレティルのお話が「英雄譚」ではないところ、リアリズムなのかなぁ。

解説部には原題や原著者名が掲載されていて、「ニーベルンゲンの歌」は「Der Nibelungenlied」、「聖杯王パルチファル」は「Der Gralskonig Parzival」で原著者は「Wolfram von Eschenbach」となっています。
ここを見て「ドイツ語読めるようになりたい!」と思った少年少女がいたのかもしれない。

この巻には月報は綴じられていましたが、栞はありませんでした。もともと付いてなかったのか、図書館に来る途中(もしくは来たあと)でなくなってしまったのか。
月報にはバイキングのお話が載っていました。「スウェーデン人は東へ、ノルウェー人は西へ、そしてデンマーク人は海岸伝いにドイツ、フランス、イギリスなどを荒らした」と。ちゃんと棲み分けてたのすごい。

全体としては『ラーマーヤナ』が入っていた41巻より状態が良かったです。昭和37年(1962年)7月20日発行、420円

あと、他の全集を紹介するチラシが入っていたのが大変興味深く。
「少年少女世界文学全集」があるんだから「日本文学全集」があるのはわかりますが、「世界名作全集」がまた別に存在するのがすごい。

さらに「世界少女小説全集」とか「世界科学名作全集」とか、どんだけ全集を出せば気が済むのか、講談社。

いや、しかし「科学名作全集」は読んでみたいですね。県立図書館に1冊だけ所蔵があるみたいだけど……。

こんなにも少年少女向けに全集が編まれていた時代があった――。
このチラシをしっかり綴じていてくれた図書館様、ありがとう。


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