『砂の惑星』新作映画が10月15日公開ということで、久しぶりにまた原作を手に取ってみました。

できれば新訳版(リンクはAmazonさん)を読んでみたかったんですけど、残念ながら最寄り図書館になかったので、旧訳版の方。
旧訳版はデヴィッド・リンチ版映画の表紙です。表紙だけでなく口絵や挿絵にも映画の画像が使われていて、タイアップがすごい。リンチ版映画は1985年3月に日本公開され、それを機に映画表紙の改訂版が出版されたものと思われます。

私もその時に読んだので、この表紙が大変懐かしい。
シリーズ全作買って読んだはずなんですけど、すでに処分して手元にはなく、もしかしたらシリーズの途中からは図書館のものを読んだのかも……。何しろ35年も昔のことなので、もはや記憶が曖昧なんですが。

実のところ、第1作であるこの『砂の惑星』は当時あんまり面白いと思わなかったんですよね。3作目の『砂丘の子供たち』ぐらいからが面白かったような。

1巻目の裏表紙見返しにすでにシリーズ全作(6作17巻)の案内があって、1985年時点でほんとにもう「伝説の大作」だったんだなぁと。


ちなみにそれぞれの発表年は
 「デューン/砂の惑星」(1965)
 「デューン/砂漠の救世主」(1969)
 「デューン/砂丘の子供たち」(1976)
 「デューン/砂漠の神皇帝」(1981)
 「デューン/砂漠の異端者」(1984)
 「デューン/砂丘の大聖堂」(1985)
らしい。6作目は映画公開の年だけど、『砂の惑星』は遡ること20年、今からだと56年前。昭和で言うと40年、昔の東京オリンピックの翌年、日本はイケイケどんどん、こっから先進国に追いつくぞー!の時代に、もう「環境」をテーマにしたSF大作が生まれていたんですよね。

著者のハーバートさんはもともと新聞記者だそうで、環境生態学に詳しく、この作品を「乾燥地帯の生態学者」に捧げておられます。

で。

読むの、すごく時間かかりました……。旧訳版全4巻、1巻目は意外にサクサク読めて、「あれ?記憶より面白いかも?」と思ったんですが、2巻目以降はどーんと読むペースが遅くなり、最終4巻目は途中でほぼ読む手が止まり、「もう最後まで読まなくていいか?」ぐらいの気持ちに。

まぁ、一回読んだ作品でもあり、結局映画を見に行くのも諦めた(上映時間の長さ等もろもろの事情により)ので、読み通すモチベーションが低かった。

世界の構築度合いは本当にすごくて、よくこれだけ緻密に「異世界」を創造できるな、と感嘆するんだけど、そこで展開されるストーリー自体はちょっと退屈というか、地湧き肉躍るようなものではなくて。

リンチ版映画は酷評されてたし、今回の新作映画の方も「映像はすごいけど退屈」みたいな話がちらほら。でもそれ、ある意味原作通り、忠実に作ったゆえなのでは……。


舞台は砂の惑星アラキス
ほぼ砂漠で水がほとんどなく、人間が生活していくにはとても厳しい環境なんだけれども、ここでしか採れない「メランジ」という香料(スパイス)が莫大な利益をもたらすため、帝国にとってとても重要な星になっている。

宇宙全土(?)を統一する帝国、皇帝の下に「公家(ハウス)」と呼ばれる貴族がいて、それぞれの公家は惑星や恒星系を領土として与えられ、統治している。

主人公ポウルの父レト・アトレイデは「領地変え」で新しくアラキスの統治を命じられるのですが、実はそれは罠で、前任者であるハルコンネン男爵と皇帝直属の精鋭部隊サルダウカーに襲撃されることになる。

アトレイデ公爵家とハルコンネン男爵家が「因縁の間柄」で、男爵の方がかなり一方的にレト公爵を憎んでるのはわかるんだけど、なんでそこに皇帝がいっちょかみして「帝国の陰謀」になってるのかがよくわからない。
最後の方で「このゴタゴタを利用してアラキスの富(メランジの利権)をかすめ取ろうとしているものたち」みたいなセリフが出てきて、皇帝さえもがその利権に目がくらんでハルコンネンに手を貸していたのかな。

ともかくポウルの父、公爵レトは殺されてしまう。
レトの死は早い段階で予言されているので、読んでて「まだかよ、まだその場面じゃないのかよ」とちょっとイライラ。

ポウルは「クイサッツ・ハデラッハ」と呼ばれる特別な存在で、未来予知の能力があり、また、各節の扉には皇帝の娘イルーラン姫による「回顧録」のようなものの引用が掲げられていて、「アトレイデとハルコンネンの争いはアトレイデ(というかポウル)が勝ち、帝国との戦いにすらポウルが勝利する」だろうことは読者には最初からだいたいわかっている。

だから、あんまりドキドキワクワクしない。

政治的駆け引きの場面が多くて、直接的な戦闘(アクション)はあんまり描かれないし、なんかこう、感情移入できる部分が少ないんだよなぁ。面白くないことはないんだけど……。

世界観の緻密さは本当にすごくて、「びっくりした!」を表す独自の言い回し「クル・ワハッド!」なんて言葉がわざわざ作られているし、それら独特の世界観を構築する用語を説明するため、巻末には36ページにも及ぶ用語集が付いている。

ほぼ砂漠で水がとにかく貴重なので、「唾を吐く」行為が「軽蔑」ではなく「尊敬のしるし」になっているとか、「涙を流す」もただ単に哀れむとかでなく、「貴重な水を捧げてくれた」みたいになる。
「きみの肉体にある水分を贈り物にしてくれたことを、われわれは感謝する」というふうに。

この辺の「文化」の作り込みはほんとすごくて、「死者」に対する感覚の違いとか、よくこれだけ具体的に細かく描けるなぁ、と感心することしきり。

アラキスの砂漠の住民フレーメン(原住民というわけではなく、もとは他の星から来た人々っぽい)にとって、「死者」は「水のかたまり」でもあって、負傷したアトレイデ側の兵士たちを助けるか助けないかは「水の問題」ってことになる。

「水」なしには負傷者を助けることができない。むしろ負傷者から「水」を得る方がいい。

「負傷者から水を得る」って、要するに彼らにはもう死んでもらって、その「血」(に限らず体液?)を何らかの方法で他の者が「水分」として利用できるようにするってことなんだけど……具体的にどうするんだろう……。「血」を濾過する装置とかあるのかな、そのまんま生き血をすするとかではないと思うけど。

よそから来た人間にとっては到底受け入れがたい話なんだけど、フレーメンにとってはそれは「負傷者を見捨てる」ことではなく、むしろ「名誉の死」みたいな感じなのだ。

「おれたちは自分らの死者にたいするのと同じ敬意をもってあんたがたの戦友にたいするんだ……これこそ水のきずなだ。おれたちは儀式を知っている。人の肉はその人自身のもの、水は同族に属するものだ」 (第3巻P43)

宇宙旅行ができる時代なのにいわゆる「ロボット」はいなくて、ちゃんとそこも「AI的なものが排除された歴史」が構築されていて、コンピュータの代わりに論理計算をこなす「メンタート」と呼ばれる人々がいたりする。

で、この「コンピュータ、思考機械、意識を持ったロボットなどを排除撲滅しようとした改革運動」が「ブレトリアン・ジハド」と名付けられているように、アラブっぽい語感の用語がけっこうある。ポウルがフレーメンから呼ばれることになる「ムアドディブ(砂漠の鼠)」という名称とか。

確か1巻の解説に、著者ハーバートさんが「アラビアのロレンス」をイメージしていたようなことが書かれていたと思う。

砂漠の民を解放する、「外からの予言者」。

ポウルは「ベネ・ゲセリット」という教団によって慎重に遺伝管理された末に生まれた「特別な子供」で、フレーメンの間には彼のような存在を「救世主」とする伝説があり(それもベネ・ゲセリットが周到に広めたものだったり)、フレーメンを味方につけることでポウルは見事ハルコンネンを打ち破り、それどころか皇帝にさえも勝つことになる。

またこの「ベネ・ゲセリット」の造型がすごい。もういちいち説明しないけどほんとにどういう脳味噌があればこんな「世界全部丸ごと創造」ができるんだろう。しかも用語集あるとはいえ、それを参照しなくてもだいたいのところは飲み込めるように書いてあるんだもんなぁ。

メランジのできかた、サンドワームとの関係、そして砂漠の緑化法。

アラキスの地表は乾いた砂だけど、実は水はある。しかるべく対処していけば、やがて水が空から降るようになる。500年後くらいには。

本編の最後に補遺が4つあって、ひとつ目の「砂の惑星のエコロジー」がまたすごい。(すごいしか言ってない)

本編中に登場するリエト・カインズ博士の父親パードット・カインズによる“砂の惑星を水の惑星に変える挑戦”。この部分こそ著者が書きたかったことなのでは。

人類の問題はいまや、そのシステム内でどれほどの人口がはたして生存できるかにあるのではなくて、生存する人口にとってどのような形の存在が可能であるかなのだ。 (4巻P311)

1965年にはすでにこういう話が出ていたんですよねぇ。

フレーメンたちに「いつまでにできるんだ?」と聞かれ、さらりと「350年ぐらい先」と言ってしまえるカインズ博士がまた。

それは、現在生きているどの人間の一生のあいだにも、八代のちの孫の一生のあいだにも、やってきはしない。だが、それはやってくるのだ。 (4巻P324)

博士についていくフレーメンたちもすごい。「350年先」って言われて、むしろ「この人は信用できる」みたいになるんだけど――確かに「すぐに効果を実感!」みたいなやつの方がだいたい詐欺だけど――、それにしても何百年も先のことを信じて行動できるのすごい。

あと、最終盤、皇帝とポウルの妹エイリアとの会話は面白かった。
胎内にいる間に母親が“儀式”を受けたため、生まれながらにしてベネ・ゲセリットの教母と同等の記憶と知識を備えてしまった“恐るべき子ども”エイリア
まだ3歳にもなっていないぐらいなのに、大人と対等に話ができるどころか、皇帝を下に見るぐらいの知能と自我を持っている。

でも、もちろんそんな子どもは周囲から気味悪がられる。「悪魔」とさえ呼ばれる。母親にさえ、「私はなんて子どもを産んでしまったのだろう」と思われているのだ。

「わたし、自分がお化けだってことわかっているのよ」 (P90)

そうつぶやくエイリアがせつない。それは彼女が生まれる前に起きた“宇宙的な事故”で、胎内にいた彼女には避けようがなかった。なのにその事故のせいで彼女は普通の子どもとして子ども時代を過ごすことができず、一生“化け物”として生きていかなければならない。

ポウルのその後よりエイリアのその後の方が気になってしまいます。

昔読んだ時、続編の方が面白いと思ったのはもしかしてその後のエイリアのせい……? やっぱり続編も読み返してみるべきかしらん。最寄り図書館にないのでわざわざ取り寄せなきゃいけないんだけど。

もともとハーバートさんの頭の中では最初の3作(『砂丘の子供たち』まで)は「一つの物語」だったそうで、1作目を書き上げる前から2作目を書きはじめ、1作目が本になる前から3作目にも着手していたのだそう。
だから3作目まで読まないと「砂の惑星」という物語を読んだことにはならない。

うーん、どうしようかなぁ……。