(※以下ネタバレあります。これからご覧になる方はご注意ください)



映画『漆黒天~終の語り~』が大変面白かったので。

我慢できず、ライブ配信で『始の語り』も観ちゃいました。
だって、ねぇ、やっぱり「答え合わせ」したくなっちゃうよね。あの、「どっちがどっちなのか」がわからない映画を観てしまったら。

これまでのムビステでは、映画と舞台は「世界観は同じ」だけど主役が違って、別に両方観なくてもいいや、って感じだったけど、今回は主役も同じ。完全に映画の前日譚。「名無し」はなぜ「名無し」になってしまったのか、そこを描く物語。

気になる。
気になりすぎる!!!

本当だったら公演を生で観るのが一番いいんですけど、コロナの猛威もあり、おサイフ事情もあり、配信での鑑賞を選択。「チケット買っても公演中止の可能性あるしな」と思っていたら、ライブ配信対象の8月17日公演も中止になって、急遽18日の夜公演が配信されることに。

夜だとリアタイできない……。なので翌19日にアーカイブを試聴しました。特典映像含めおよそ2時間半。はぁーーーーー、見応えありすぎ。殺陣もすごいし、お話もすごいし、役者さんもスタッフさんもすごい。




【ひなたの夢、日陰の夢】

お話は、赤子の誕生場面から始まる。
宇内家に生まれた双子。無情な産婆の声が響く。「獣腹(けものばら)は不吉、この家に災いをもたらす。さぁ、どちらを縊るか、憐れなれど選ばねばならん」

同じ日、同じ時、同じ母の腹から生まれていながら、片方は武家の跡取り、片方は存在を抹消される。ひなたの道と日陰の道、さかしまに分かたれた二人、どちらがどちらかは、漆黒の天のみが知る――。

宇内家の跡取りとしてひなたの道を歩いてきた陽之介は、道場主として門下生に「人を活かす剣」を教え、妻子とともに穏やかに暮らしていた。しかし彼は子どもの頃からずっと、「もう一人の自分」の夢を見ていた。日陰の道を歩む自分の夢を。
そしてその夢は最近になってさらに生々しくなり、夜寝ている時だけでなく、昼日中にも突然白昼夢のように彼を襲うようになっていた。

「私がその夢を怖れたのは、それが夢には思えなかったからだ」

この白昼夢の演出がすごく面白かったですね。陽之介として存在しているはずが、突然日陰党の面々に囲まれ、「旭太郎(くたろう)」と呼ばれ、血なまぐさい争いの中に放りこまれている。そうして、親友蔵近(くらちか)に「陽之介!」と何度も呼びかけられてやっと我に返る。

「夢」がどんどん頻繁に、生々しくなっていたのはもちろん旭太郎が物理的に近づいてきていたからで、旭太郎の方も「もう一人の自分」をずっと夢に見ている。ひなたの道を歩いている自分、仲睦まじい家族と気のおけない友に囲まれ、笑っている自分。

陽之介と旭太郎、それぞれが「夢」に取りこまれ、どちらがどちらか、本人たち自身が判然としなくなっていく。
舞台上では衣裳と髪の色が違って、旭太郎の方は髪に白のメッシュが入っているので、「こっちは旭太郎」と思いながら見ているのだけど、陽之介の場面だと思っていると日陰党に囲まれ、ナチュラルに日陰党の狼藉の場面になったりするので、演じてる荒木さん本人が「あれ?今どっちだっけ?」ってなりそうな。

うん。もちろん両方荒木さんが演じていて、時々二人同時に存在する時はどっちかを代役の方が演じてるわけだけど、あの、旭太郎がかぶる「笑み」の面、あれ、こうして舞台で一人二役を実現するための絶妙な小道具でもあったんだね。

序盤で、「人を斬る剣ではなく人を活かす剣を」と言い、「ひなたの道を歩いていきたい」とにこやかに語っていた陽之介が、どんどん「夢」に――もう一人の自分に侵食されていくのがなんともつらい。
まだ「ひなた」にいた陽之介に、「ひなたと日陰は裏と表」「お互いこの心を日陰に飲まれぬように」などと忠告をする蔵近。実は蔵近は陽之介に懸想していて、でもその「恋心」をずっと隠して生きている。おそらく蔵近は自分の中の「暗い部分」、たとえば陽之介の妻、富士に嫉妬するような気持ちを抱えていて、「人は容易に“日陰”に堕ちうる」ことを知っているんだろう。
二郎太&三郎太に「あんた、宇内先生が好きなんだろう」「お富士さんに何かしたら承知しないぞ」とか煽られて、二人をボコるシーンがあったし(あれは二郎太&三郎太の方が悪いと思う……)。

一方日陰者の旭太郎の方は、日陰にいるだけでなく、「表」とも交渉して商売しなくては、と考えている。与力たちに賄賂を渡し、日陰党を半ば公認の存在、「日の当たる存在」にしようと。
「公儀にすり寄るなんて冗談じゃない!」と反対する仲間たちに、旭太郎は言う。

「日陰がひなたに呑まれないように。日陰者だって一生懸命生きていれば、いつか笑えるかもしれない」
「俺たち日陰者でも幸せになれることを証明するんだ」

ひなたを生きる者は「日陰に呑まれること」を怖れ、日陰に生きるものは「ひなたに呑まれること」を怖れる……。
夢の中でずっと「ひなたに生きるもう一人の自分」を見てきた旭太郎の中には、「ひなたで生きるにはどうしたらいいか」「ひなたで生きるものはどう考え、どう振る舞うのか」というノウハウがちゃんと育っていたんだろうなぁ。

そして陽之介が「ただの夢とは思えない」と夢を怖れたように、旭太郎もまた、「ひなたの夢」を現実と感じている。

「あのひなたの夢が現実のように思えてならない、俺はどこかであの夢を羨ましく思っているのかもしれない。わからなくなる、日陰の自分は本望なのか…」

日陰党には盲目の男、來という名の座頭がいて、気配だけで周囲の状況を知る彼には、「そこに二人いる」みたいに感じられる。旭太郎一人しかいないはずなのに、「まるで一つの体を二人の人間が行き来しているみたいだ」と。

舞台の相関図を見た時に、「日陰党に座頭の人いるのか」とちょっと意外に思ったんだけど、目が見えないからこそ感じられる、こういう台詞を言わせるためだったのかな。


【ひなたと日陰の交錯】

買収に応じない堅物の与力・玖良間(くらま)はあちこちの道場主に声をかけて日陰党討伐に乗り出し、陽之介と蔵近も協力することに。
一方それを「夢」で知った旭太郎は道場破りを敢行し、ついに宇内道場で陽之介と対面する。

同じ顔をした二人の男。
ひなたと日陰に分かたれていた道が交錯し、互いに「夢で見ていた相手」だと瞬時に理解する。「なるほど、おまえがひなたの俺か」と。

で、陽之介の方がすっかり不安定になっちゃうんですよねぇ。
現実に「もう一人の自分」が存在しただけで十分ショックなのに、追い打ちを掛けるように玖良間が「双子の同一性」についてあれこれと説明してくれて。
「双子の片方に誤って火傷させたらもう片方も痛がって、同じ箇所に水膨れができた」とか、「別々に育ったのに好きな食べ物も持病も同じだった」とか。

「おぞましいほどの双子の同一性」
「もしも双子が知覚や感情までをも共有するなら――」

幼い頃からずっと見ていた「夢」。それは「夢」ではなく、もう一人の自分、旭太郎の知覚を共有していたのだとしたら。

「俺は誰だ――!?」 夢とうつつの区別、ひなたの自分と日陰の自分が混乱し、すっかりアイデンティティが揺らいでしまう陽之介。「私が私であるのはただの運だ」と嘆く陽之介に、「俺なら必ず見きわめられる、おまえを見間違えることはない」と安請け合いする蔵近……。

旭太郎と出会って不安定になる陽之介とは逆に、旭太郎はどんどん冷静になっていくように見える。冷静に陽之介を観察し、その一挙手一投足をつぶさに見て、「俺と陽之介は何から何までうりふたつだ」という結論に至る。
「渾然一体となってしまった。まるで二人で一人の人間のように」


【錯誤――殺したのは誰?】

そして惨劇が起こる。映画で描かれた、富士と子どもたちの殺害。
陽之介の留守中、陽之介になりすました旭太郎が屋敷を訪れ、富士に「俺は誰だ?」と問う。「あなたは宇内陽之介、私が言うのだから間違いありません」と答える富士。

まったく蔵近といい富士といい、自分の目を過信するんだから!!!

旭太郎が例の仮面を取り出すと一転、「あなたは誰です?」って言うんだよ、富士さん。さっき自分で「間違いありません」って言ったばっかじゃーん。テキトーやん。

ともあれ、「誰にも渡さない、これは俺の人生だ」と言って富士を斬る旭太郎。彼女に「あなたは宇内陽之介だ」と言われたことで「自分はひなたの方」という錯誤が起きた、まではわかるんだけど、そのあとで彼女と子どもたちを殺してしまうのは、どういう心理なんだろう。「あなたは誰?」と疑念を持たれたことで、「自分が陽之介であり続けるためにはこいつらは邪魔」ってなったのかな。
映画では、「陽之介からすべてを奪ってやるため」とかって説明してたような。あくまで“名無し”の説明だから、真犯人の本当の動機かどうかはわからないけど。

富士の前で仮面を付けて見せているし、あの時点で日陰党のあの面を持っているってことはやっぱりあれは――富士を殺したのは旭太郎のはずなんだけど、屋敷に戻って惨劇を目にした陽之介は、「自分かもしれない」って言うんだよね。
「旭太郎ーーーーーっ!」と慟哭したあとで、でも、もしかしたら自分が殺したのかも、って。

陽之介のアイデンティティはかなり揺らいでしまっていて、愛する妻子を喪ったことでさらに混乱に拍車がかかってる。「旭太郎という厄介な双子のいる自分と結婚したせいで富士は殺された」という意味では「間接的に俺が殺した」ではあるし、陽之介であるより旭太郎である方が、「気は楽」になったのかも……。

とはいえ、クライマックスの日陰党vs討伐隊の場面では「日陰党の者は誰一人許さない」と怒りの剣を振るう陽之介。
そうして日陰党の伽羅という男を殺して、最後に伽羅に、「なんだよ、やっぱり旭太郎じゃないか」って言われてしまう。
「人を活かす剣」を振るっていたはずの陽之介が、怨嗟に満ちた「人殺しの剣」を構える時、ずっとそばで旭太郎のそんな「殺し」を見てきた伽羅には、陽之介が「旭太郎本人」に見えた。

伽羅は言う。「俺たちはクズみたいな人生掴まされたけど、一生懸命生きたんだ」「旭太郎、ありがとうな」と。礼まで言われて、陽之介の自我はさらに混乱する。「やはり、俺は日陰者の旭太郎なのか?」

旭太郎は旭太郎で、「俺は陽之介だ。日陰党の連中の目を欺くために旭太郎になりすましていたんだ」と言って、しれっと二郎太や蔵近の目を欺いてしまう。


【誰かが誰かであることを担保するものは何?】

幼なじみで親友で、陽之介のことを友人以上に愛していた蔵近。「俺が陽之介を見誤るはずはない」と豪語していた蔵近は、あっさり旭太郎を陽之介だと信じる。
「俺には人を見る目がある」と妙な自信を持っていた二郎太も、旭太郎の格好をした“誰か”を「この人は宇内先生」だと断定し、お墨付きを与える。

舞台上に現れた彼が本当はどっちなのか、それを決めるのは、“本人”ではなく、“周りの目”。富士や蔵近や二郎太が、彼を“宇内陽之介”だと言った。そして、舞台を見ている私は、彼を旭太郎だと思っている。

旭太郎の格好をした“誰か”は陽之介として蔵近たちと行動を共にし、陽之介の格好をしている方は伽羅から「なんだ、やっぱり旭太郎か」と言われ、討伐隊から旭太郎として追われる身になる。相手が斬りかかってくるから仕方なく応戦しているうちに、「化け物のように強い」「本当に人間か」などと言われて……。

ある人物がAという人間であるというのはどういうことだろう。
現代なら、顔写真付きの身分証がある。指紋やDNA鑑定がある。でも、たとえばマンガや小説のように、「私たち、入れ替わってるー!?」と中身が入れ替わったとしたら、その“中身”が「Aという人間」であるということは、何によって規定されるんだろう。

陽之介と旭太郎は双子で、見た目や仕草がうり二つだった。だから周りはどちらがどちらかわからなくなったし、本人たちさえ自分がどっちかわからなくなった。

見た目以外の部分で、“心”なんていう曖昧なもので、AはAだと言えるのか。記憶を失った人間は、それまでのAと本当に同じ人物なのか。そっくり同じ記憶を移植したアンドロイドがもとの人物とイコールでないのはなぜか……。

富士が「あなたは陽之介だ」と言うから陽之介。伽羅が「おまえは旭太郎だ」と言うから旭太郎。
人間って実はそんなふうに、周りから「○○」と言われるから「○○」になっているだけなのかもしれない。
「社長さーん」と言われていい気になるとか、仕事を辞めて肩書きがなくなったらパッとしなくなるとか、そういうのはよく言われること。人間は社会的な生き物で、周囲との関係性によって自分自身を規定している。

ウールリッチ作品ではよく「いたはずの人間が消える」ということが起こるけれども、たいていの場合周囲が口裏を合わせて「そんな奴知らないよ」と言っている。付き合っていたはずの恋人、でも部屋はもぬけのから、大家さんは「その部屋はずっと空き家」と言うし……。(※たとえば『シンデレラとギャング』所収の「階下で待ってて」など)
これがもし、「自分の身に起きたら」。
誰もが自分を知らないと言う。「その部屋は空き家」、実家の家族に連絡しても「うちにそんな名前のものはいません」、役所に行っても「そんな人はいませんよ」と言われたら?

自分が自分だと、「Aという人間」だと、どうやって証明できるのか。


【俺は、誰だ?】

その後の演出で「陽之介の格好をした男」は富士の幻影に別れを告げるし、「旭太郎の格好をした男」は日陰党の幻影に別れを告げるので、蔵近たちが「陽之介」と認めた方が旭太郎で、映画で“名無し”として出てくるのは「もともと宇内陽之介だった方」だと思うんだけど……。

名無しが「俺は誰だ?」というの、ただ「記憶を失っているから」じゃないんだよなぁ。もっと根源的なところで、「俺は何者なのか」を問うている。

記憶を全部取り戻しても、もとの自分が「俺が殺したのでは?」「俺は旭太郎なのでは?」って混乱してるわけで、結局自分がどっちなのかわからないんだもんね。ほんとになんという話を書くんだ、末満さん……。


【ひなたと日陰は紙一重】

陽之介と旭太郎、どっちがどっちになるかは本当に「運」だったわけで、ひなたの道を歩いている(と思っている)人間も、いつ日陰に転落するかわからなくて、ひなた側から「化け物」「全然違う種類の人間」と思われている日陰者も、ごく普通の、「同じ人間」なんだよね。

クライマックスの日陰党討伐のところで、日陰党の藁雀(あおじ)が「日陰者は幸せになっちゃいけねぇのかよ!」「頼む、見逃してくれ」と二郎太達に命乞いする場面がある。

二郎太と三郎太は、長兄を日陰党に殺されていて、その復讐のために宇内道場に通って剣の腕を磨き、日陰党討伐に参加していた。二人は藁雀を追いつめ、逃げ切れないと悟った藁雀が命乞いをする。その情けない様を見て、二郎太は、「おまえたち日陰党の連中は化け物だと思ってたが、普通の人間だったんだな、やっぱり死ぬのが怖いのか」みたいに言う。

そして、「だがお前たちは同じように命乞いをした人々に情けをかけたのか? 俺たちは陰と陽だ、混じり合うことなんかない!」と藁雀にとどめを刺す。

自分は無慈悲に殺してきたくせに、いざ自分が殺される段になると助けてくれと訴える。そんな身勝手が許されるわけもない。それはそう。それはそうだ。
でも「混じり合うことなんかない」という二郎太の言葉は、それは、違うよね。

藁雀は「てめぇらも俺たち日陰者とおんなじだよ、ただの人殺しだ」という捨て台詞を残して死ぬ。
見事兄の仇を討って、二郎太は嘆く。「仇を取ったのに、虚しいだけじゃないか。これが人を斬るってことなのか。俺たちが宇内先生から学んだのは、人を活かす剣のはずだったのに」

復讐は復讐しか生まないとか、綺麗事ではあるんだけど。
うっかり情けをかければ、生き延びた藁雀はまた誰かを殺すのかもしれないし、二郎太三郎太をだまし討ちにするかもしれない。
殺されないために殺す。
やむを得ず、生きるために殺す。

日陰党の面々も、元々は、そうだった。クズみたいな人生を掴まされて、生きるために悪事を働いてきた。二郎太たちはたまたままともな家に生まれたから、人殺しなどとは無縁に生きてきただけでは――?

どちらがどちらか、そんなのは、「運」でしかない。


【もう一度映画を見たくなる】

映画の“名無し”がどっちだったのか。
舞台版のラストで「旭太郎」として追われているのは陽之介だったと思うんだけど、そうだとすると映画版の二郎太たちはみんな「間違った相手」を追っていて、敬愛していたはずの陽之介を「憎い仇」だと思って追いつめていることになる。

陽之介になりすました旭太郎を「本物の陽之介」だと思っているから――「こちらには陽之介がいる」と思っているから、当然記憶喪失の“名無し”は「旭太郎」の方になるし、「都合良く記憶失ったふりなんかしやがって!」としか思えない。

二人を並べて、よくよく吟味しても、それでも取り違えるのかな。

子どもの頃から陽之介を知っていた蔵近や富士は、もしも二人が一緒に並んでいたら、見分けられたんだろうか。富士さんは片方しか見てない(そもそも双子がいることを知らない)し、蔵近も二人同時にいるところには遭遇してないような。

問答無用で“名無し”を殺そうとしていた彼らは――彼らこそ、ただの殺人者、日陰者じゃないのか。

最終的に“名無し”ともう一人の一騎打ちになって、“名無し”が勝ったように見えたんだけど、彼がどちらだったにせよ、生き残って、その先どうするのかな。家族も仲間もみんな死んで、何者として生きていくんだろう。


【役者さんたち】

荒木さんの一人二役はもちろんすごかったんですが(本当に演じてて混乱しそう)、映画と違って舞台は役者さん一人一人にたっぷり見せ場があって、キャストの皆さん全員素晴らしかったです。

特に印象に残ったのは千蛇役の加藤大悟さん。舞台のみのキャラクターで、日陰党の一員。「陰間」で、陽之介への叶わぬ恋心を抱えた蔵近を煽る役で、二人の組んずほぐれつ(?)なアクション、見応えがありました。最終的には蔵近のことかなり好きになってたみたいで、蔵近に斬られ、「最後に名前を呼んで!」と縋るのに、蔵近の方は「陽之介――!」と言って去って行く。

蔵近ひどい(´・ω・`)

加藤さん、ビジュアルも美しかったし、大胆な「おねえ」言葉が様になってて格好良かったけど、今月でやっと22歳だそうで。そんなにお若いの!?とびっくり。貫禄のお芝居でした、すごい。

映画では冒頭で死んでしまう蔵近、お芝居ではけっこう出ずっぱり。演じる梅津瑞樹さんはまたビジュアルが独特の美しさで、線が細くてちょっと神経質そうな、陽之介を好きだからこそ「闇」を抱えてるっぽい感じが良かったです。

千蛇と同じく舞台のみのキャラクター、座頭の來。安田桃太郎さん、非常に安定したお芝居だなぁ、と思いました。腰を落とした座頭の殺陣が格好良い。しかし座頭ってみんな座頭市みたいな喋り方なのかしら。來は元は武士で、与力たちへの買収交渉も彼がやってたらしいけど……座頭がいきなりそんな交渉しに来て、与力たち応じるのか、と思わないこともなかった(^^;)

映画では宇内道場を襲うシーンにちょろっと映っただけだった伽羅と藁雀。伽羅は橋本祥平さん、藁雀は陣さんこと松本寛也さん。二人コンビで出てくるところが多くて、終盤討伐隊に追われているところでは傷を負った伽羅がずっと「いてぇよー、俺はいてぇんだよー!」と言って藁雀に絡んでるのが面白かった。

小島藤子さん扮する富士さんは陽之介を支えるしっかり者の武家の妻。映画では殺されるシーンしかなくて儚かったけど、むしろ陽之介よりシャキッとしてる感じ。討伐隊に加わることを逡巡している陽之介の背中を押したりして、「実は富士さんが悪いのでは?関わらずひっそり生きていれば陽之介もあんなことには」と思ったり。
まぁ日陰党が江戸に居座っている限り、いずれ旭太郎とは出会ってしまっただろうけどね…。

えーっとそれから、二郎太、城乃内!じゃなくて松田凌さん。二郎太も出番、台詞ともに多くて松田さん熱演。どうしても「城乃内、立派になって」と思ってしまう(笑)。映画で「お喜多ちゃんに気がある」ってちょろっと匂わせられてたけど、舞台の方でもお喜多ちゃん名前だけ出てきて、富士さんが「喜多には玄馬先生という人がいるってこと、伝えた方がいいかしら」などと。

陽之介と旭太郎、どちらがどちらか、だけでなく、他のキャラクターの人となりもより深く知ることができて面白かった。
観て良かったです。




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