※以下ネタバレだらけなので、真っ白な気持ちで読みたい方はご注意ください。

引き続きフランス文学です。

しかも『レ・ミゼラブル』とはほぼ同時代の作品で、作品の舞台もほぼ同時代。

『レ・ミゼラブル』は1862年刊行、『モンテ・クリスト伯』は1844年から1846年にかけて新聞に連載されたそうで。

うーん、ということは同時代と言っても『モンテ・クリスト伯』の方が10年以上先行しているのか。もっと同時代かと思いましたが。

『レ・ミゼラブル』の舞台はナポレオン失脚後の王政復古から7月革命の辺り。18年に及ぶ物語。

そして『モンテ・クリスト伯』の方はナポレオンがエルバ島に流されているところから始まり、主人公エドモンが牢獄から出て来るまでだけで14年の月日が流れる……。

こうして連続で読むと、その社会背景の描き方の違いとか、面白いです。

子どもの頃、『巌窟王』として読んだ気もするのですが(父に「あれは面白いぞ!」と勧められた覚えがある)、あんまり覚えていなくて。今度宝塚で上演するというので、完訳版を手にとってみました。

岩波文庫で全7巻。

全4巻だった『レ・ミゼラブル』に比べると活字が大きくて1冊の分量が少ない上に1冊のページ数も少ない。ので、長さの単純比較はできません。岩波さん、『モンテ・クリスト伯』も小さい活字で4巻ぐらいにぎゅっとまとめてくださいよぉ。かさばるじゃないの。

1956年第1刷発行ということで、訳者序文が1917年だった『レ・ミゼラブル』よりはだいぶ最近の訳ということになるのでしょうか。最近と言っても50年以上前ですけども。

2012年1月には83刷。すごいですね。すごいベストセラー。宝塚上演もあり、先日NHKの「100分で名著」にも取り上げられていたので、さらに売れるのではないかなぁ。いやはや。

『レ・ミゼラブル』から引き続いて読むと、少し訳文が読みにくい気がしますが、しばらく読んでたら慣れました。50年以上前の訳なので用語や漢字が古めかしいですが、私は子どもの時から翻訳物ばかり読んでて、「古い翻訳の文体」というのがむしろ好きだったりするので、サクサク読めます。

「サクサク読める」のは、訳以上に、原著の持つ力なのかもしれませんが。

同じようなナポレオン失脚後のフランスを舞台にしていながら、『レ・ミゼラブル』と『モンテ・クリスト伯』ではずいぶん毛色が違う。

哲学的な『レ・ミゼラブル』に比べて『モンテ・クリスト伯』は痛快娯楽冒険小説。芥川賞の『レ・ミゼラブル』と直木賞の『モンテ・クリスト伯』という感じでしょうか?

きっと、あらすじはご存知の方が多いでしょう。

私も、「友人達の策略で牢獄送りになった主人公エドモン・ダンテスの復讐譚」ということは知ってました。

なので、1巻読みながら「いつ罠にはまるの!?いつ不幸に襲われちゃうの!?」とドキドキ。「次期船長になるのがほぼ確定」とか、「彼女と晴れて結婚」とか、エドモンの幸福が描かれれば描かれるほど、「この幸せな青年がこの後真っ逆さまに…!?」と心臓がばくばくしてくる。

許婚式の真っ最中、あと2時間もすれば正式に結婚!というところで官憲の手がエドモンを捕まえる。って、デュマさんたらなんて残酷!

エドモンは19歳で、マルセイユの船員。他の乗組員や船主のモレル氏にも気に入られていて、乗っていた船の船長が急死した今、「次期船長」になることがほぼ確実。

船の会計士ダングラールはそんなエドモンを「けっ!」と思っていて、なんとか彼を失脚させられないかと考えている。

そして、エドモンの恋人メルセデス(ベンツみたいな名前だわ)に横恋慕しているフェルナン。彼はメルセデスのいとこで、小さい頃から彼女と結婚するものと思ってきた。親戚同士で結婚するのが当たり前の村で、双方の親も公認してたとかしてないとか。

メルセデスが外部の人間であるエドモンと恋に落ち、「あなたには兄弟以上の感情は持てないわ。どうかそれ以上の愛情を私に求めないでちょうだい」とさんざん言っているにも関わらず、フェルナンは納得しない。

恋敵のエドモンを恨んで、ダングラールが考えた策略を実行に移してしまう。

なんか、フェルナンって、ストーカー!?

そんなに諦めってつかないもんなのかなぁ。「あいつさえいなくなれば」って、本当に思えるもんなのか。恋敵さえいなくなれば自分が彼女の愛情を勝ち取れるって、考えたらすごい自信じゃん。

まぁメルセデスの両親はすでに亡く、もしエドモンがいなくなってしまったらフェルナン一家に援助してもらわなければ仕方がない身の上ではあるようだけど。

エドモンは、亡くなった船長の頼みでエルバ島へ立ち寄っていた。そう、ナポレオンのいるエルバ島。そこでナポレオンに会って、ナポレオンからパリのある人物に宛てて手紙を預かっていた。

そのことをこっそり盗み見ていたダングラールは、「エドモン・ダンテスはナポレオン派だ!」と密告すればいい、とフェルナンを焚きつけ、自分でその文面を書いて、そして恋に血迷ったフェルナンはそれを実際に官憲の手に委ねてしまう。

そしてエドモンは許婚式の最中に捕らえられ、検事代理のヴィルフォールに訊問される。

エドモンがナポレオンからの密書を携えていたのは事実で、でもそれはただ「伝書鳩」の役目を亡き船長から仰せつかっただけだった。だから最初はヴィルフォールもエドモンに寛大であろうとしたのだけど。

なんとその密書の宛先はヴィルフォールの父親!

ナポレオン派の父の不名誉から脱して王党の人間として出世しつつあったヴィルフォールにとって、「ナポレオンから父親への手紙」というのは致命的な代物。決して外へ漏らしてはならない秘密だった。

というわけで、ヴィルフォールはその手紙をさっさと燃やし、その手紙の存在と宛先を知っているエドモンを永久に葬り去ろうとする。エドモンが「無実」であることを知りながら。

いやぁ、もう、ホントに。

『レ・ミゼラブル』も「そんな都合良く!」って展開がいっぱいあったけど、こちらもまた「そんな都合良く!」(笑)。その日検事が街にいれば、「検事代理」のヴィルフォールに訊問されることもなく、エドモンはたいしたお咎めも受けずに済んだだろう。少なくとも、裁判もなしに牢獄へ閉じ込められることはなかった。

ジャヴェルを赦し、その過酷な運命を赦したジャン・バルジャンの後に「復讐譚」を読んで共感できるだろうか?という気もしたのだけど、完全に無実で、しかも二十歳にも見たぬ若さで、2時間後には愛する恋人と結婚!というところで奈落の底に突き落とされたエドモンが、自分を陥れた人間達に一矢報いてやりたいと思うのは、これはもう、仕方ないよねぇ。寛大なジャン・バルジャンの方が言ってみれば「おかしい」わけで。

自分がなぜ牢獄へ入れられてしまったのか、そのちゃんとした理由さえわからないエドモンは、牢獄で獄丁に繰り返し「典獄に会わせてくれ。話をさせてくれ」と訴える。巡視に来た検察官にも「ちゃんと裁判をしてくれ」と言うのだけど。

その願いは聞き入れられない。すでに牢獄に入ってしまっている彼は、「入っている」という事実によって「罪人」であり、その記録にはしっかりと「ボナパルト党員」と書かれてしまっている。

獄丁も典獄も検察官も、エドモンの言うことよりもそれらの「事実」を重んじる。

冤罪って、ものすごく簡単にできちゃうもんだよね……。すでに牢獄に入っている者に対して獄丁や検察官が「何か言いたいことは?」と聞くのは「食事」や「待遇」のことだけで、「僕は無実です!」という話じゃない。そういうことをしつこく訴える者は「気違い」扱いされるだけ。

現代日本で裁判もなしに牢屋送り、ってことはないはずだけど、でも「一旦有罪と見なされるとまず覆らない」って部分は、そんなに変わらないよね……。

エドモンの入った牢獄にはもう一人「気違い扱い」されている囚人がいて、そのファリア神父との出会いがエドモンの運命を再び大きく動かすのだった!!!

ファリア神父と会うところまでですでにエドモン、6年ぐらい牢にいるんだよね。その間にナポレオンはエルバ島を出て「百日天下」やって、再び失脚して……。

ナポレオン派の父親を苦々しく思うヴィルフォール、そしてそんな息子の思いを知っていてなお平然と息子に会いに来る父。『レ・ミゼラブル』でマリユスと祖父が反目したのも、ナポレオン派と王党派の代理戦争みたいな感じだったし、政治状況が家族を分断するのって、なんとも辛いねぇ。

そして「あいつはナポレオン派だ!」と糾弾しさえすればあっさりと抹殺できてしまうというとこ。

体制派と反体制派はあっさり入れ替わるのに。昨日糾弾した側が今日は糾弾される側になるのに……。



「どうなるの?どうなるの?」とどんどん頁を繰ってしまうエンターテインメント小説。あっという間に1巻を読み終わって、すでに2巻目。古典恐るべし。


(※続刊の感想はこちらから→2巻3巻4巻5巻6巻6巻続き最終7巻