「現代国語」の教科書に漱石センセと一緒に載っていたのが芥川センセ。
もっと他にもたくさん載っていたはずだけど、覚えてるのはこのお二方のみ。

芥川センセの作品は、『偸盗』と『侏儒の言葉』だった。
『偸盗』は文庫で90頁くらいの分量で、芥川の作品の中ではけっこう長い部類のものだと思う。教科書にはもちろん一部しか載っていなかったのだけれど、その一部が面白かったのか、担当の先生が「読んでごらん」と言ったのか、私は新潮文庫の『地獄変・偸盗』を買ったのだった。

『偸盗』という言葉を新解さんでひくと、『①〔仏教で〕十悪の一つとされる盗み。②「ぬすびと」の意の漢語的表現。』と説明されている。

つまりは盗賊の話である。
盗賊の一味に「沙金(しゃきん)」という名の美女というか悪女がいて、その女をめぐって太郎と次郎という兄弟が争っていて、どーのこーの。
なんてことのない話、と言えばなんてことのない話なんだけど、私はこの『偸盗』を好きになった。最後のところを美しいと思ったのである。

沙金の養父であり、もちろん盗賊で、沙金とも関係を持っている好色な爺さんが、盗人働きで失敗して命を落とす。その死に際に、沙金の侍女の阿濃(あこぎ)という女が赤ん坊を生み落とし、爺さんはその子を見て、「これはわしの子だ」と言って死ぬ。
その死に顔は「どうやら前よりも真人間らしい顔になって」いる。

このシーンに、じーんと来たのだった。

話の中心はあくまで沙金と太郎・次郎だと思うのだけど、私にはそっちはどうでもよい。
阿濃という女は少し頭が弱くて、ハンサムな次郎に片思いしていて、自分の子は「次郎の子」だと思っている。
だから、阿濃のお腹が大きくなっていっても、周りの誰も「はらませたのが誰なのか」知らなかった。当の爺さん以外は。

阿濃って、ドストエフスキーによく出てくる「神がかり」とか「聖痴愚」みたいな感じだ。
たとえば『カラマーゾフ』の中の、スメルジャコフの母リザヴェータ。彼女をはらませたのが誰か、「三兄弟の父フョードルかもしれない」というほのめかしだけで、本当のところは明らかにされない。

今にもこの世を去ろうとしている悪党の爺さんと、生まれ落ちたばかりの赤子。
盗みも殺しも平気な悪党達の中で、無邪気に「好きな男」の子を産んだと思っている女。

何か、美しいのだった。

文庫の解説によると、芥川本人はこの『偸盗』を「自分の一番の悪作」として嫌っていたらしい。単行本にも入れなかったほどだそうだ。
作品は、作者の思惑を離れる。
作者がどう思って書いたにせよ、そしてできあがったものをどう思ったにせよ、それを「好きだ」と思う人間、なんらかの感動を覚える人間はいるのだ。

面白いな、と思う。
それがまた、「ここで作者は何を言いたかったのでしょう」ということを突っつく「国語」の授業で読むというのがまた、皮肉で面白い。

皮肉と言えば、『侏儒の言葉』。


こちらは物語ではなくて「箴言集」。
たとえば「人生」という章。
「人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している。」
「親子」のところでは、
「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。」
こんなのもあった。「罪」。
「『その罪を憎んでその人を憎まず』とは必ずしも行なうに難いことではない。たいていの子はたいていの親にちゃんとこの格言を実行している。」

教科書に載っていたものの一つは、確か「瑣事」だったと思う。
「人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事のうちに無上の甘露味を感じなければならぬ。」

こういう文章を、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に満ちた生意気な高校生に読ませたらとびつくに決まっている(笑)。
私は角川文庫版の『或阿呆の一生・侏儒の言葉』を買った。
芥川が自殺する直前に書いたものが多く入っている一冊で、『歯車』のラスト、「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」にはぞくぞくしたものだった。

全編に漂う狂気、冷笑、自嘲、救いへの餓(かつ)え……。

今、ざっと『侏儒の言葉』を読み返すと、何かあまりにも「いいかっこしぃ」のような、「鼻につく」感じもあって、「ふっ、青いな、芥川くん」という気もする(笑)。
まぁしょうがないよね。芥川が死んだの、35歳だもの。
向こうは歴史に名を残す作家で、こっちはただの主婦だけど、年齢だけならこっちの方が「人生の先輩」になっちゃってる。
「ふっ、まだまだ青いよ、芥川くん」(爆)。

今の高校生が「現国」の授業でどういう文章を読ませられるのか知らないけれど、『夢十夜』の「存在の不安」みたいなところや、『侏儒の言葉』の「大人はバカだ」みたいな物言いに、その年齢で触れておくのは、大切なことのような気がする。
「ずっと昔の、雲の上の有名人」が、自分とおんなじこと考えてるってわかるのは、とても愉快だから。

――「瑣事」の末尾はこんなふう。
「人生を幸福にするためには、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事のうちに堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。」