昨日と今日、少しずつ息子ちゃんのおもちゃやガラクタを片付けた。

この母にしてこの子あり、なので、息子ちゃんも「捨てない。片付けない。片付いてなくても全然平気」。とっくの昔に捨てていればよかった幼児の頃のガラクタがいーっぱいある。

そして、息子ちゃんも母と同じく、「片付けばっかりなんか辛気くさくてやってられない」ので、毎日少しずつしか片付かない。

「一気にやって一気に片付けちゃった方が楽じゃないの」と思うでしょう。

違うのよ。

掃除や片付けが嫌いな人間というのは、そもそも「片付けに従事している」ことがイヤでたまらないんだから、一日中片付けばっかりなんかやってられないの。

ストレスで爆発してしまう。

そもそも「片付いてなくても平気」なんだから、「一気にやってしまわなければならない」という切迫感がない。だらだら何日も片付けするのは、その方がイヤでしょう?と、掃除好きな人は思うかもしれないけど、「とりあえず今日ちょっとやって、後は1週間後でもいいや」と思える人間には、「今はちょっとだけ」の方がよっぽど精神衛生にいいのである。

その結果一生片付かなくたって、別に大丈夫なので(笑)。

引っ越しの段ボールから一生荷物を出したり入れたりしてても全然平気(爆)。

とりあえず「足の踏み場」が確保されて、日常的に使うものの利便性が確保されていれば、それでいいの。

今回私と息子がやむなく「お片付け」をしているのは、私の実家から「あんたナントカしてよ」と送られてきた段ボールを、さすがにそのままにはしておけないのが一つと、年度替わりで教科書等を整理する必要があるから、ついでに「いつまで置いておくんだそのおもちゃ」的なものも整理しているだけ。

もう何年も開けていなかったおもちゃ箱の中身は、なかなかワンダフルだった。

「よくこんなもん残してるよなー」のオンパレード。

幼稚園児だった息子が自分で作った折り紙の手裏剣とか、空き箱ロボットみたいのとか、「親子ふれあい広場」の出席カードとか。

もはや何の役にも立たないけれど、でもそれらを手に取れば、色々なことが思い出される。

よく、子どもの描いた絵とか、作った工作とか、「写真に撮って実物は捨てればいい」って言うでしょ。

すべてを残しておくわけにいかない以上、それは大変合理的でごもっともな話なのだけど。

でも写真と、実物は、やっぱり違う。

感触とか、手に取った時の大きさ、重さ。汚れ具合。

壊れていたり、ボロボロになって埃をかぶっているその様さえもが、「ああ、ずいぶん長い時間が経ったんだな」と思わせてくれて、感慨深い。

「写真」自体も、プリントアウトしたものは色褪せるし、だんだんボロボロになってくる。

この間、実家でアルバムを整理した時に、そういうのもいっぱい出てきた。

でも、むしろそうだからこそ。

色褪せているからこそ、愛おしい。

そんな、何十年も前の写真がぴかぴかに美しく原色を留めていたら、その方が気持ち悪いでしょう。

ただ「昔の自分や家族」の姿が懐かしいだけじゃなくて、「そこから流れた時間」「二度と戻らない時間」「彼我の距離」というもの「込み」で、懐かしいのだから。

デジタルカメラになって、「写真」も「データ」として、色褪せないまま保存できるようになった。

古いアルバムの黄ばんだ写真を懐かしく見る、なんてことも、もうこれからはだんだんとなくなっていくのかもしれない。

「懐かしい」とか「時が経つ」ということに対する意識は、ずいぶんと変わっていくのかも。

私は、たとえ置き場がなくても「電子書籍」より「紙の本」がいいなぁ、と思うし、音楽も「配信データ」より「CD」というパッケージ(「物」)になっている方がいいと思う。「手触り」とか「重さ」とか、そしてそれらが「時間」によって黄ばんだり、埃をかぶったり、壊れてしまうというそのことが何か、「好き」なのだよな。

「物」に込められた時間。

「物」に刻まれた記憶。

 

時間と記憶のたっぷり詰まったゴミ袋が、一つできた。