橋本治
ついでなので橋本治さんの「憲法の話」
安倍さんの「プランBの男」のところを確認しようと『最後の「ああでもなくこうでもなく」』をひもといたら、うっかり他のところまで読んでしまった。
だっていきなり最初がこうなんだよ。
「いじめ」が原因で、子供が自殺する。「いじめを隠蔽した」と言われて、教師も自殺する。いやな世の中だな。なんでそんなにみんな簡単に自殺してしまうんだろう? (P6)
読み進めずにはいられないよね。
この最初の、『広告批評』2006年12月号に掲載された回が「やっぱり、世の中がおかしいんじゃないの?」というタイトルで、次の回が「学校教育が「方向」を失っていることについて」。
6年前の文章なのに、全然事態は変わってないなと思って本当に暗澹たる気持ちになる。
でも今日は教育やいじめの話じゃなくて「憲法の話」。
2007年6月号の回「「日本国憲法」を考える」。これは2007年5月3日の憲法記念日に安倍首相が憲法改正への意欲を述べ、5月14日には「日本国憲法の改正手続に関する法律」が成立したことをたぶん受けている。
で、ちょっと戻るのだけど、『最後の~』の前の『ああでもなくこうでもなく5 このストレスな社会!』の最後のところにも、憲法改正についての話題が出て来る。
この本の最後の、「それで、日本は変わるのか?」という部分は、単行本にする際の書き下ろしかとも思うのだけど、5年半に及んだ小泉政権が終わって、安倍首相になって、「小泉政権とは何だったのか?」という話と、「それで、日本国憲法を変えたがる人はいるのだろう」という話になる。
「変えられる立場にある人だけが変えられる」というのは、資格が問題にされるということである。近代以前のこの「資格」は、身分である。この考え方が近代以降にも引き継がれて、民主主義的な中で解釈されると、「国政選挙に打って出る」になる。 (P454)
「変えられる立場にある人=その身分にある人」である。「変えられる」は特権なのである。 (P455)
日本には「市民革命」がなくて、明治維新も「武士」という特権階級内での勢力争いではあった。平安時代の貴族は自分達の「人事」をこそ「政治」としていて、そこに民衆の出番はない。一般の民衆はせいぜい一揆を起こすぐらいしかしなくて、「政治」というのは「お上のやるもの」、自分達とは隔絶しているものなんだ。
「国のあり方」を変えられるのは、「変えられる立場」にある人だけ。
「それで、日本国憲法を変えたがる人はいるのだろう」(第394節のタイトル)
今の日本国憲法はアメリカによって押しつけられたものだから変えたい、という議論の根本にあるもの。それはもちろん「本当ならその“変える”という特権は我々にあったはずなのに」ということだ。
この議論を成り立たせるものは、「アメリカに日本を変える資格はない。資格があるのは我々で、我々はその資格を一時期アメリカ軍に奪われていた――それが悔しい」という考え方だろうと思う。だからこの「我々」は当然のごとく「日本国民」ではない。「日本の国家や社会のあり方を変えられる立場にある我々」で、つまり、日本の与党政治家である――「日本の与党政治家の中の“我々”派」というべきか。 (P456)
憲法改正というのは自民党結党以来の悲願であるらしいのだけど、まぁ結党時の「俺たちの特権がアメリカ軍に奪われた!」という悔しさはわからないでもない。
でもそれがまだずーっと続いてるのってすごいなと思う。
安倍さんなんか戦後生まれで、憲法作成時にタッチ出来る立場だったわけもなく、「平和憲法」に守られてイケイケドンドンな高度成長期とともに大きくなってきた人だろうのに。
「俺たちは変えられる立場にある。それが俺たちの特権なんだから変えさせろ!」っていうのは、「俺たちは先輩なんだから後輩をこき使う権利がある!」みたいなもんなのかしら。その権利を使わなきゃ損だという。
自衛隊の位置づけ云々ということがなくても、もしも元からアメリカ製の日本国憲法に「戦争していいよ」と書いてあったとしても、やっぱり「俺たちの手で変えたい!」という人はいるんだろう。「自主憲法を作りたい」という人が。
それが十分によくできたものなら、作った人がどこの誰でもかまわないと思うんだけどなぁ。
「あたらしい憲法のはなし」を読むと、特権を奪われた政治家はともかく、日本人もこの平和憲法にとても高揚していた、わくわくしていた、って感じがするのだけどなぁ。
“この憲法には、いまおはなししたように、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。”
“人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、國の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。”
読んでると思わず泣けてくるもの。
「憲法」って、「国家権力から国民を守るもの」だと思うのだけど、「憲法を変えたい」と思っている人達は9条のところだけじゃなくてその大事な「国民の権利」をも制限したがっていそうだから、「憲法改正」に気軽に「賛成」の声を上げるのは危ないと思う。
で、えーと。
『最後の「ああでもなくこうでもなく」』の方に載っている憲法の話は、9条のこと。
憲法改正といったら、まずはやっぱりここが問題になる。
憲法第9条第1項曰く、
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
橋本さんは、「希求」と「放棄」を入れ換えた方が、よりその「強さ」がはっきりするとおっしゃっている。
日本国民は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄し、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する。 (P93)
日本国憲法は、世界に向かって「国際平和」を要求している。そのために戦争を放棄すると言ってる。
日本国憲法は、結構挑発的で、「こっちは丸腰なんだ、手前ェら、切れるもんなら切って見ろ」と、「武力行使を無にするような形で喧嘩を売る」的な形になっている。(中略)日本の外交が、この挑戦的な前提に基いて外交をして来なかったことこそが大問題だということくらい、分かると思うけれど。 (P93-P94)
「国際紛争を解決する手段としては」という第一項の保留と第二項を踏まえて、橋本さんは「自衛隊」についてもお話してくれている。引用しているとキリがないので、最後の部分だけ。
憲法第九条の中には「自衛」とか「防衛」の意味も含まれているということである。それが分からないのは、「自衛」とか「防衛」のなんたるかが分かっていないことだと思う。 (P98)
つまり憲法を改正する必要なんかないってことですよね。
9条改正がらみでよく出て来る「集団的自衛権」については先日内田樹先生がblogに書いてらっしゃいました。(「集団的自衛権と忠義なわんちゃんの下心について」)
“集団的自衛権というのは平たく言えば「よその喧嘩を買って出る」権利ということである。”
“集団的自衛権とは、平たく言えば、「シマうちでの反抗的な動きを潰す」権利なのである。”
そんな権利、日本には要らないと思うんだけど。
結局のところ、「憲法を改正したい人達」というのはその内容云々よりもまず「俺の特権なんだから変えさせろ!」なんだろうなぁ。
「自主憲法制定が自民党結党以来の目的」というのは、「理由はなんであれ、日本国憲法はいやだ」ということなんだろうと思う。早い話、「日本国憲法より大日本帝国憲法の方がいい」なんだろうと思う。 (『最後の「ああでもなくこうでもなく」』P103)
なんでそんなに明治の体制がいいのかなぁ。
日本で明治維新がことのほか持ち上げられてるのもすごく不思議なんだけど。
明治政府が作り上げた「日本像」になんでそんなに縛られるんだろう。もう昭和が終わってからさえ24年も経ってしまっているのに。
だから、「日本古来のあり方」が決まっていると思うことが理解出来ない。それを「こうだと決まっている」にしてしまったのは、近代がスタートした明治時代で、明治時代的な解釈の枠内を「日本の常識」とする人達は、「それ以外にも過去にはいろいろあったんだ」ということを受け入れてくれない。 (同上 P104)
みんな大好き戦国時代では天皇は蚊帳の外で蔑ろにされていると言っても過言ではないし、平安時代でさえすでに天皇は傀儡に近いし、意外に「その母は誰か?」ということが皇位継承を左右しているし。
武力なんかなしで人事で戦うのが平安の貴族様だったんだしなぁ。
「民衆の声」が全然出て来なくて「お上」と「民衆」が乖離していて「国家」というものが身にしみないのはなんか伝統的な気はするけれど……。
9条以外のところについては目にすることも少ない「日本国憲法」。「日本国憲法を口語訳してみたwww」というスレも勉強になります。
最後にもう一度「あたらしい憲法のはなし」から。
“みなさんは日本國民のうちのひとりです。國民のひとり/\が、かしこくなり、強くならなければ、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。國の力のもとは、ひとり/\の國民にあります。そこで國は、この國民のひとり/\の力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。”
6 Comments
明治維新の人気、やっぱり大阪のあの会よろしく
返信削除坂本竜馬ら維新志士の影響なんですかね。
昔っから大して関心持てない人達揃いなのですが。
近代化の波に乗り遅れるな、の気持ちはわかるけど実情はやっぱり
「薩長藩閣政府でろくでもないことばっかりじゃねーの」
の印象が強いんですよね。
上からは明治だなどというけれど、治明(おさまるめい)と下からは読む
てな素敵な一句もあると言うのに。
なんだかんだ言って日本の最盛期は江戸時代でしょうか。
うーん最後の「ああでもなくこうでもなく」買いたいんですが、なかなか。
おっしゃる通り、欧米流の(近代)憲法とは、国家(権力)を縛って、国民の(基本的)人権を保障することこそが第一の目的であり、立法・司法・行政という3つの権力に対する命令が書き込んであります。
返信削除つまり、憲法とは国民から国家に対する命令なのです。
軍隊を持とうが持つまいが、国民の基本的人権とは、直接的には関係のないことであり、戦争放棄を定めた9条の規定など、憲法の理念から考えると、枝葉末節にしか過ぎないもので、たいしたことではないのです。
その枝葉末節の9条を巡る護憲論も改憲論も、どちらもナンセンスとしか言わざるを得ないのです。
そして、そのような体たらくだからこそ、この国では憲法がまともに機能しないのでしょう。
憲法とは何のためにあるのか、とういう基本的なことぐらいは、きちんと身に付けておきたいものです。
(以下引用)
自由にしても、平等にしても、それは与えられるものではありません。現に欧米人たちは、みずから平等や自由を勝ち取った。自由も平等も、その前提となっているのは権力との戦いです。
そのプロセスを抜きにして、いきなり自由や平等を与えるとどのような結果になるか。図らずもそれを証明しているのが今の日本なのです。
権力と戦うことなく人権を手に入れたものだから、戦後の日本人は権力を監視することも忘れてしまった。その結果が官僚の独裁であることは言うまでもありませんが、民主主義とは国家権力との戦いなのだということが忘れられると、自由も平等もたちまちにして変質してしまうのです。
小室直樹著、「痛快!憲法学」(集英社インターナショナル)より
失礼いたしました。
��創さん
返信削除文化的には江戸時代は同時期のよその国より断然進んでますよね。庶民の識字率も高く、入浴の習慣があり屎尿は肥料として使うことで街も清潔。
明治維新がその文化の担い手だった庶民の中から起こったものなら、その後の日本もずいぶん変わっていたのでしょうけれどね。
今の私たち含め、どこか「自分達が国を動かしてもいい」という意識が希薄ですよね、日本人…。
『最後の「ああでもなくこうでもなく」』、読み応えありますよ!もう中古でしか買えないようですが(^^;)
��しまさん
返信削除はじめまして。
コメントありがとうございます。
「権力と戦うことなく人権を手に入れたものだから、戦後の日本人は権力を監視することも忘れてしまった。」
そうですね、日本人が憲法を自分達のものだと考えていないのは、やはり自分達の勝ち取ったものではなく、「上から降ってきた」ものだからなのでしょうね。
私が子どもの頃は社会の授業で憲法前文を暗記させられて、「その素晴らしさ」を教えられたりしたのですけど、今はそういうこともあまりないようです。
「憲法とは何のためにあるのか、とういう基本的なことぐらいは、きちんと身に付けておきたいものです。」
本当にそう思います。
双調平家をちょろっと読んでると、
返信削除なんだかんだ言って国政もまた人の欲・エゴを含みつつ行われているのですよね。
その人の立ち位置は常に政治の中枢なのですが。
日本は基本的にずーっとこの政治体系で歴史を歩んできたので、
たまーに聞かれる直接民主制で市民が自ら政務を取り仕切る、てのはもしかしたら究極のフィクションかもしれません――。
「ゴッサムにフランス革命を!」なニュアンスがある
ダークナイトライジングでもそこら辺ボカされてましてねえ(苦笑)。
憲法は「みんなの九条」で書かれたとおり、
生きていくために必要不可欠な空気、過剰な清潔も汚染も行ってはいけないものですね。
第十四条なんて「法の下にあらゆる人間は差別せずされず、特権階級も存在させません」
と言うとても素敵なものでした。
色々古本屋回ってるんですよねえ、ネットで買いたくはないし。
��創さん
返信削除憲法の中身、日本人自身がもっともっと知らないとダメですよね。
「直接民主制」はやはり規模の小さい自治体でないと難しいと思いますが、それでもやはり国民一人一人がある程度「主権者」の自覚を持たないと…。
「最後の「ああでもなくこうでもなく」」、見つかるといいですね。
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