読みました!
面白かった!

橋本さんと橋爪さんの対談形式でページに余白も多く、分量は少ないです。正直物足りない気はする(^^;)

「日本語のできあがり方――鎌倉時代まで」と「日本語の壊し方――室町以後」の二部に分けてありますが、「できあがり方」が3分の2以上を占めています。

これまでの古典の語り直し(『窯変源氏物語』『双調平家物語』)や、『失われた近代を求めて』『古典を読んでみましょう』などのお仕事で培われた橋本さんの膨大な「日本語の歴史」に対する知識と考察。その片鱗を駆け足で、ちょろっと拝見させてもらう感じです。

なので、橋本さんの読者には「ああ、あれね」と「わかりやすい」のですが、いきなりこの本を手にした人にとって「わかりやすい」のかどうかは私にはよくわかりません。

最後、橋本さんご自身があとがきで「これで、他人が読んでわかるようになっているのかな?」とおっしゃっていますけども。

そして最初に、

「日本語のできあがり方」というと、どうしても「こうして今の我々の正しい日本語ができあがりました」ということになりがちですが、日本語の歴史も日本の歴史も、複数のものと複数の要素が混在して、それがDNAの螺旋構造のように絡まり合って進んできているので、「一つの正解」はありません。 (P22)

と言っておられます。

「正解」を語る本ではないし、そもそも「正解」はないと。



さて、「言文一致」と聞くとまず思い浮かぶのは明治初期、二葉亭四迷による「言文一致」ですが、日本にはそれ以前にも「言文一致」を模索した人がいて、『失われた近代を求めて』では中世の慈円の話が取り上げられています。(『失われた近代を求めてⅠ~言文一致体の誕生~』/橋本治【その1:鎌倉時代の“言文一致”】

でも、さらに前、日本の「書物」の初め、『古事記』の序文にすでに「漢字で日本語を書く苦労」が述べられているのですね。

言われてみれば当たり前の話ではあります。言葉というのは普通は「話し言葉」が先にあるもので、文字が発明されたからといってすぐに「話している言葉」をうまく記述できるわけではない。まして日本では自分達で発明したのではなくよその国から借りてきた「漢字」で綴ろうとしたんですから、

〈困難はいくつもございましたが、その最大の問題は、文字のことです〉  (P18)

とならない方がおかしい。

まさに太安万侶は、稗田阿礼の口承を書き記すという、日本語における最初の言文一致体を生み出す苦難のすえ、『古事記』を書いたわけです。 (P20) 

『古事記』の成立は西暦712年、そのおよそ500年後に慈円の『愚管抄』があり、さらに600年後に二葉亭四迷。ということはまたあと400年くらいしたら日本語は言文一致で非常に苦しむことになるのかも……。

外国語ではどれくらい「話し言葉」と「書き言葉」が一致しているものなのか、私にはよくわかりませんが、橋本さんは

日本語は日本語として一つであるというのは、現代的かあるいは近代的な考え方で、「話す」と「書く」が別箇に存在して発達したのが日本語ですから、一つにするのは無理です。 (P76)

とおっしゃっています。つまりは今でも「言文は一致してない」、「日本語は一つじゃない」ってことなんですよね。

関西人としては言文は当然一致してないですし、NHKのアナウンサーでさえ「“いわゆる標準語”で書かれた文章」をそのまま話しているわけでは、たぶんない。

この本も対談を書き起こしたものですが、人の会話を録音して書き起こしてみると、よけいな間投詞やくり返しやなんだかよくわからない音が入っていて、とてもそのままでは「文章」にならなかったりします。

二葉亭四迷の言文一致では「丁寧語」の扱いが大きな問題になりましたが(『失われた近代を求めてⅠ』/橋本治【その2:丁寧語にひそむ大問題】)、対談相手の橋爪さんは先人が苦労して生み出した丁寧の文末「ですます/である」が気に入らないらしく。

まず、ですます体や、である体があることになっていることが、おかしいと思う。 (P224)

とおっしゃいます。
え、なんで?と思うと橋本さんが、

叙述が「……です」という形で終わるということは、その文章自体が「です」という行為をしていることになって、本当はへんなのです。だから、平安朝の文章に「叙述自体を表す同士や助動詞」は存在しません。 (P225)

と解説。

「ですます」という語尾は、会話ではない「地の文」であっても、「誰が誰に話しているか」という立ち位置が問題になるところから生まれた……だったはずですが、江戸時代にすでに「候文」というのがあって――時代劇でお馴染みですけども――、漢文で書く「公式文書」でも江戸時代は全部丁寧つきの「候文」なのだそうです。

もちろんもともとの漢文に「丁寧」なんていうものはないのですが、なぜか生み出されてしまった「丁寧」という書式を、明治に入って「言文一致」に悩んだ作家達も捨てられなかった。

モノローグ的な「地の文」であっても「誰に話しているか」という関係性が入ってくるのすごいなぁ、ほんま日本人って「敬語」から離れられへんのか、って思うんですが。

もともとは、神様に対して使うものだったそうです。

敬語は、神様に対して使うものだったのが、だんだん下へと降りてくる。敬語のカジュアル化が、その反作用として上に対する過剰化も生む。 (P68)

やたらに敬語が出てきて、敬語の種類によって主語が誰だかわかる、と言われる平安時代の文章には「丁寧」がなくて、だから『源氏物語』をそのまま現代語訳すると乱暴に響いてしまうそうな。

平安時代のままならblog書く時にも文体で悩むことが少なかったのかな?とも思いますが、かといって橋爪さんのように「ですます/である」はひどい、やめるべき!とまでは。

橋爪さん、こんなことまでおっしゃってますからね。

理想としては、一人称は「われ」、二人称は「なれ」、三人称は「それ」、不定称は「だれ」に統一して、新しい日本語として、学校で教えるべきだと私は思うのです。 (P227)

えええええええ。それはないわ……。

議論する時にいちいち敬語(相手との関係性)が入ってきて、「話の内容」ではなく「言い方」によって「われ、誰にクチきいてると思てんねん!」とキレられたりするのは確かに非常にめんどくさいけれども、人称や敬語が豊富だからこその面白さもあるわけで。

それは「言葉を論述の言葉だけにしろ」と言うようなもので、「日本語はやめて漢文にしろ」とか「フランス語にしろ」と言うのと同じです。 (P228)

という橋本さんの反論に全面的に賛成。

なんというか、全体を通して橋爪さんと橋本さんの議論ってちょっと噛み合ってない感じがしてたんですが、あとがきで橋本さんが

どうも、橋爪さんの目から見ると、日本は「しょうもない混沌のかたまり」のようで、結果私は、混沌の日本の側に立って、「無秩序なんですけど、外から見て無秩序と思われるものでも、それなりの秩序は存在してるんじゃないでしょうか」と言い続けていたみたいです。 (P237)

と言ってらして、「そう!それ!」ってなりました。

社会学者の橋爪さんとしては、グローバルな社会学のものさしで日本語をすっきり説明したいみたいなんですよね。少しぐらい特殊性があっても、大枠としては「人類の社会」「人類の言語」ということで、その進化や特徴は一つのものさしで測れるはず、なのになんで日本はこんなに混沌としてるのか、っていう。

途中、「日本に宦官が存在しない理由」って話があって、これも面白かったですね。橋爪さんによると、統治者の子を産む女を閉じこめておく「後宮」という制度はグローバルスタンダードで、そこを運営する宦官という存在もまた世界的に当たり前だ、と。

ところが日本に宦官はいない。江戸時代に大奥という「後宮」はあるけど、そこを取り仕切るのは女たち。奈良時代の後宮も女の官僚によって運営されていた。それは「女帝の時代」だったからだろう、と橋本さんは言います。

そして橋爪さんは「身体加工に対する拒絶反応」を挙げます。人間の体に刃物を当てるのを忌避するだけでなく、生け贄の動物を殺すことにも忌避がある。他の多くの民族ではそれが「祭祀」の重要な部分で、つまりは支配者の仕事だけれども、日本ではそういうことは最下層民がやる。

日本人の、血に対する「穢れ」意識ってどういうところから来てるんでしょうね。水が豊富にあるから「みそぎ」ができて、できるからついきれい好きになっていったんでしょうか。

「言葉はまず音である」という考え方だってちゃんとあるんですが、そこは学問ではなくて、芸能の領域なんですね。 (P60)

という話も面白かったですし、「音としての言葉」という方面で関西弁の話が出てきたのも嬉しかった。
(ここで「嬉しかったです」と使うと橋爪さんの言う「ひどい日本語」になるんだろうなぁ~。確かに「嬉しかった」で叙述はできているので「です」は余分。どうしても丁寧に言いたければ「嬉しく思いました」などとするのかな)

関西の人が義太夫を習うと、すぐそれなりに聞こえてしまうらしいんです。それは、義太夫のイントネーションが関西弁のイントネーションをベースにしているからだと。 (P84)

関西の人のほうが、標準語のイントネーションではないぶん音になりやすいのです。 (P85)

昔の人たちは、文字の向こうに固有の音、固有のイントネーションを持っていた。訛りというのもその一種ですが、現代仮名遣いはその音楽性を消してしまった。 (P87)

関西弁を記述する時に「目ぇ」って書きたくなるような、あれですよね。「固有のイントネーション」が文字だけでは伝わらない。「目ぇ痒うなって」と書いても、関西弁を知らない人にイントネーションが伝わってるかどうかわからない。

「そんなんできひんわ」とか文章にちょこっと関西弁を紛れ込ませると、一見標準語ぽい「テレビ見てて」という言葉も関西イントネーションで脳内再生されて、なんというか、「文章のリズム」が頭の中で混乱してきます(^^;)

実は日本人というのは話し言葉を記録しようとする人々です。 (P87)

って話も興味深い。
『万葉集』には「東歌」という辺境の、民衆の歌まで文字化されて収められているわけで、そういう意識が江戸時代の民衆の「識字率の高さ」にも繋がっているのかな。

ことさらに「日本語は特殊だ!すごい!」と持ちあげるのもどうかとは思いますが、日本語について考えるの、ほんと面白いです♪