ずっと気になっていたこの本、やっと手に取ることができました。出版は2016年の夏なので、1年半以上「気になっていた」ことになります(^^;)

とても読みやすくわかりやすくてサクサク読めるのに、内容は非常に濃い。

イスラムについては2014年にも内田センセと中田考さんの『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』を読んでいて、「イスラムってそうなんだ」と色々目からうろこが落ちたはずだったんですが。

だいぶまた、分厚いうろこに覆われてしまっていました。

たとえば「ハラール・ビジネスなんて胡散臭い」という話。そういえば『一神教と国家』にも出てきたな……と思いつつ、具体的なことはすっかり忘れていました。

そういうことを商売にするハラール・ビジネスというのは、イスラム教徒ではなくても、実に傲慢なことだと思います。イスラムをよく知らない日本人をおどして金をとっているようなものですから賛成できません。 (P114)

豚を食べてはいけない、酒を飲んではいけない、その他色々と戒律が厳しいように思えるイスラムですが、どこまで守るかは本来個人に任されていて、少なくとも「商売としてお墨付きを与える」、というのは非常に不敬な話なのだそう。

「ハラールかどうかを決められるのは神様だけ」。

だから、食べ物については何が使われているか、どうやって作ったかを「正直に」知らせるだけでいい、と著者はおっしゃいます。調味料としてのお酒が心配でも、

「日本のあれだけ厳しい交通ルールでも、出汁に醤油や酒を使ったうどんを食べたからといって酒気帯び運転にはなりませんから」と言えばいいのです。 (P114)

と。

なるほどなぁ。私、やたらに料理にみりんを使いますけど、だからって子どもが食べられないことはないですもんね。今ググったらみりんのアルコール分って14%程度もあるらしく、wikiにも「イスラム教徒が和食を楽しめるようノンアルコールみりん云々」って記述がありますけど、未成年どころか小さい子どもでもみりんや調味用の日本酒使った料理を平気で食べてるんだから……。

もちろん、それでも私は嫌です、というムスリムの方もいるだろうし、「じゃあまな板をアルコール消毒してもいけないの?」と思うお店の方もいるかもしれませんが、

ちゃんと説明したうえで、これも召し上がるかどうかはみなさんで判断してください、ということです。 (P119)

こちらが判断する必要はないんですよね。ただ、判断するための情報を「正直に」出すだけでいい。

なんか、それって日本人が一番苦手なことのような気もしますが……。あうんの呼吸とか忖度とかで、こっちが勝手に判断して動く。情報はみなまで言わずに「良きにはからえ」……。

勝手に判断するのはダメ、と言われると今度は「じゃあお上が全部細かくルールを決めてくれ」になったりとか……。



この本の副題は「世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代」。

いまや世界の人口の四分の一にあたる一五、六億人がイスラム教徒なのです。近い将来、三人に一人がイスラム教徒になる、とも言われています。 (P4)

ということで、すでに4人に1人はイスラム教徒だそうで、なんというか、そんなにメジャーな人々が、いわゆる西欧先進国からテロリスト扱いというか、「困った人たち」扱いされているのか、と……(ちなみにキリスト教徒は23億人ぐらいだそう)。

『一神教と国家』読んだ時も思ったんですが、私たち一般の日本人がイスラムについて知っていることって非常に少ないし、「西欧の価値観でイスラムを見てしまっている」なぁ、と思います。

表現の自由とか人権とか、本当のところはわかっていない気もするけれど、西洋のものさしで世界を見て、漠然と「イスラムは怖い」とか「遅れている」とか思ってしまっている。

何百人もの犠牲者を出しても、「キリスト教徒が暴力的だから、あんな戦争を起こすんだ」とは言いません。それなのに、イスラム教徒が戦ったり、テロを起こしたりすると「イスラムの暴力」と簡単にまとめてしまうのは、おかしくありませんか? (P5)

……うわぁぁ、すいません……。

なぜイスラムに対しては、ヘイト・スピーチが許されてしまうのでしょう。それは、イスラムという宗教が西欧社会の普遍的な価値である自由や民主主義に反しているという思い込みが、西洋に浸透しすぎているからです。 (P48)

西欧というかキリスト教では中世に「教会」が力を持ちすぎて、そこからの民衆の自由、政治や公権力と「教会」との切り離しということが非常に重要になったわけですが、そもそもイスラムには国家や公の領分から切り離すべき「教会組織」がない。

フランスで、イスラムの女性が日常スカーフ等で頭部を隠すのが禁止になりましたが、あれは「公共の場に宗教を持ちこむな」という、フランス人にとっては大変重要な理念の実現で、しかも女性のみに「肌を見せてはいけない」と言うのは女性の自由を制限する悪習、みたいに思われているようですが、著者いわく。

これは本当にばかげたことなのです。身体の露出を増やしたからそれがどうした、ということにすぎない。しかしそんなことが対立の象徴として使われてしまう。それぐらい水と油なのです。 (P221)

ははははは。

そもそもイスラム教徒にとっての「自由」と、西欧の「自由」はまったく違う。

すごく単純化して言えば、イスラム教徒には、「神から離れて人間が自由になる」という観念も感覚もまったくないからです。 (P42)

でも、だからと言って、イスラムが遅れているとか、間違っているとかいうことは言えない。

西欧の進歩主義をものさしにして、彼らイスラム教徒の人たちの価値観を「遅れた状態」と見なすことだけは、間違ってもやってはいけない。そもそも、イスラム教徒の人たちの価値観が「遅れている」と言えるのでしょうか。 (P217)

弱者への優しさとか、「儲かったからって自分の才能と思うな。神への貸付として喜捨をしろ」という教えとか、デリバティブよりよほどまっとうな「利子」に関する考え方とか、「イスラムの方がむしろ正しいのでは」と思うことが色々と紹介されています。

刑罰に関しても、イスラムでは本来遺族以外に加害者を罰する権限はないそうなのですが、

いまの日本の裁判制度というのは、裁判員という何の関係もない市民を国家による判断の巻き添えにしてしまいます。私は、この点にも疑問を抱いています。 (P161)

殺人の当事者ではない第三者が処罰にかかわることの正当性はどこにあるのでしょうか。 (P161)

と著者に言われると、ううむ、と考え込んでしまいます。

公正に調査するためには「第三者委員会」が必要だ、などとよく言われますけど、専門家といえど考え方に偏りがまったくない人というのはいないだろうし、ましてくじ引きで選ばれるような裁判員が判断することの正当性……。

何の関係もない第三者が巻き込まれる一方、被害者の側はろくに裁判に参加できなかったりするわけで。

「法」とか「国家」ということについても考えさせられてしまいます。

現在の中東の国境線の多くは英仏が「サイクス・ピコ協定」で勝手に引いたものだったりするし、そもそもイスラムという宗教・文明は本来的に国家の枠を超えるもの。

“「領域国民国家」だけが正しいあり方ではないし、アメリカ的な「グローバリゼーション」だけが「グローバル」でもない。”って、『一神教と国家』の感想にも書いてますが、改めてまた同じことを思わされました。

うん。

一回ぐらい読んでもすぐ忘れちゃうし、すぐまた西欧的な見方をしてしまうし、折に触れ何度もこういう本を手に取らなきゃいけませんね。

でも、一五億人とも一六億人ともいわれるイスラム教徒の姿を西欧経由のめがねを通して見る必要はありません。もっとふつうに、市民としての生活のなかで彼らがどういう価値観をもち、どういう行動をする人なのかを知ることのほうが、はるかに大切です。(中略)彼らはアジアの隣人でもあるのですから。 (P250)