『時の異邦人』を読み返してから早や1年余り、ゴーショーグンを読み返そうプロジェクト、まだ続いております。(※これまでの感想記事は末尾のリンクから)

ゴーショーグンのテレビアニメ放映は1981年。昨年12月28日には最終回放送から40年が経ったということで、ネット上で話題になっていました。その余波でこのblogにも少しアクセスがあったりして。

40年。

早いですねぇ(しみじみ)。

アニメが終わった後も小説の中で戦い続けてきたゴーショーグンチーム、これが小説としては6作目。けれども『時の異邦人』は「別格」なので、これが「5作目」と首藤さんがあとがきで書いておられます。

六冊目といっても前作「時の異邦人」は、テーマ編とでもいうべき別格で、実際には「覚醒する密林」につづくPART5ということになります。長い間、お待たせしました。 (P242)

「お待たせした」とおっしゃっているのは、「昨年の暮れに予定されていた刊行が遅れに遅れた」から、らしいのですが、刊行年月日を見ると1986年2月28日。2か月しか遅れていないのでは!?

ちなみに『時の異邦人』のノベライズは1985年4月30日発行。小説版PART4である『覚醒する密林』の発行は1984年8月31日です。間に『永遠のフィレーナ』という別シリーズの作品も出版されてますし、首藤さん、めちゃくちゃ仕事してらっしゃいますよね。
もちろんゴーショーグンファンとしては「まだかまだか」と続きを待ってはいたんですけども。


さらにちなみに1986年は安彦さんの映画『アリオン』が公開された年で、帯裏はその告知。定価380円、ほんとに中高生にも優しい時代だった……。


はい、前置きはこれくらいにして、本編の内容にまいりましょう。
『狂気の檻』以降、あちこち宇宙をワープさせられている6人、今回たどり着いたのは「海ばかりで陸地のない星」。

冒頭、「陸地がない!」「どうやって降りるんだ!」「ギリギリまで粘れ!」と真吾とキリーが見事な覚悟と腕前を披露するくだり、格好いいです。もうゴーショーグンは出てこなくて、ロボットSFの要素はかけらもなくなってしまったけど、2人の操縦技術は衰えてないんだよね。

見渡す限り海ばかり、かろうじて見つけた小さな島に降りたった6人、そこの生き物たちからいきなり「神様」扱いされてしまいます。
人間だけでなく、虎や白熊や、大きなブロキオザウルスのような生き物すべてが、空から降りてきた彼らを「神」と見なし、「助けて!」と叫んできた。

心の声で。

その島の生き物たちは、種の垣根を越えて、テレパシーのようなもので互いの意思を通じ合わせることができるのですね。なので、異星の生き物であるレミーたちにも、「こいつ直接脳内に!?」という呼びかけ方をしてきた。

直接脳内に「助けて!」の大合唱を轟かされた6人、しかたなく「わかりました」と神様役を引き受けることに。
具体的に何をどう助けてほしいのかというと、「自分たちをふるさとに連れていってほしい」と言うのです。遠い昔、ノアの大洪水のようなものがあって陸地が海に飲まれ、逃げ出した生き物たちはどうにかこの小さな島にたどり着いた。島はあまりに小さく、生き物はどんどん数を減らし、今生き残っているものたちも早晩死に絶えてしまうだろう。その前に、自分たちの誰か一人でも、ふるさとに帰ることができれば。

そう思って夜ごと「救い主=神」の出現を待っていたところに、ゴーショーグンチームが現れたというわけ。

乗ってきた宇宙船はもう使い物にならないし、どのみちゴーショーグンチームに選択肢はありません。彼らのふるさととやらが本当にあるなら――どこかに文明が存在するなら、そこへ行ってみるしかない。

そんなわけで6人は島の生き物たちとともに「ふるさと」を目指すことになるのですが。

生き物たちには謎が多い。ブラキオザウルスがいるかと思うと緑の白熊がいたり、どうも「進化」がめちゃくちゃ。なぜか鳥は一羽もおらず、泥水にも微生物が一切いない。そして、人間と同じ姿をしたものたちも、何を食べているのかわからない。
「神様は動物を殺して食べるのですか?」と言われてしまったりする。

何せ動物たちとも「心の声」で意思疎通ができちゃうわけです。島の生き物はみんな仲間。そんな相手を殺して食べられるわけはないのですが――。
「すすんで食べられてくれる」のなら大丈夫なんですよね。

私たちは、決して増えてはいけないのです。みんな、それを知っています。だから、最低必要なもの以外、いらなくなった人や動物は、喜んでみんなの食べ物になります (P89)

うーん、「殺して食べる」のはダメで、でも「いらなくなったものは食べる」って。
すぐ食べられちゃうじゃん、俺。

この辺の世界の作り込み方、すごく興味深いです。言葉の壁などなく意思疎通できること。それは果たしていいことなのかどうなのか。
カットナルとケルナグールが、「神様なんかにならずに、この地の王として楽に生きられたかもしれないのに」と嘆くシーンがあり、そこでの

「最初の出会いが悪すぎたんじゃ。いきなり奴らの気持ちが分かってしもた。もっと、お互い、疑いあえれば楽じゃったのに……」 (P181)
言葉さえ通じなければ、別の行き方になったかもしれないのに……。 (P181)

というセリフには考えさせられます。もちろん「気持ちなんか通じ合わなければ連中をこき使えた、動物の肉も好きに食えた」っていうのは、「悪い考え方」かもしれないんだけど、うっかり意思疎通ができたために全員で飢え死にするしかなくなるとしたら、それは「生き物」として本当に正しい結末なのか。

心で直接やり取りできるがゆえに「音声言語」を必要としない彼ら。でもふるさとに帰るためには「神様」の持っている知識や技術を習得する必要があり、その「心で直接やりとりできる」能力を使ってレミーやブンドルの知識をあっという間にコピーします。

レミーの知識を吸収コピーした娘ミレイは、レミーが習得していた40カ国語もの地球の言語をすらすら喋れるようになる。もちろんそんなもの習得してもその「海ばかりの星」では使い道はないのだけども。

ミレイに「どうしてあなたの星にはいろんな国の言葉があるのか?言葉なんて一つでいい、何なら一つもいらない(心で会話できるから)」と訊かれたレミー、「バベルの塔」の逸話を話し、

「お互いの言葉が分からないから、人間って進歩したんじゃないかってこと」 (P183)

と答えます。
相手が何を考えているかわからないこそ、その溝を埋めるために工夫し、努力し、時には悪知恵を働かせ。
40カ国語をマスターしたレミーが、それで「大勢の人とわかり合えた」かというと必ずしもそうではなく、むしろ嘘をつかれ、自分もまた嘘をついて、やっぱり、「人が本当に何を考えているかなんてわからない」。でもだからと言って

「嘘のないこの世界がいいのかどうかっちゅうことになると……」 (P184)

うん。レミーの言うとおり、本音ばかりが直接相手にダダ漏れになってしまう世界なんて、心の汚れた人間には恐怖でしかないですよねぇ。嘘も方便、建前は大事。

レミーのコピー、ブンドルのコピー、カットナルのコピー……それぞれの知識を吸収した島の人間たち。同じようにカットナルの知識と経験をコピーしても、もともとの性格から「目指すもの」が違ってくる、という描写も面白い。

あと、「みんな仲間」でとても大人しく、争うことなど何も知らないような彼らが、「ふるさと」への道を邪魔する「心の通じない怪物」相手にはちゃんと戦える――どころか瞳を輝かせて殺すことができる、っていうのも。

こいつらは、私達を邪魔しています。邪魔する者は倒していいんです (P125)
レオの瞳は輝いていた。今までになく活気に溢れていた。 (P125)

「神様」など降りてこなくて、鎖された小さな島でおとなしく寿命をまっとうし、絶滅してしまうのと、戦うことを覚えて行動するのと、どっちが彼らにとって幸せだったのか。どちらが「生き物のありかた」として正しいのでしょう。

戦い、犠牲を払って、彼らは「ふるさと」にたどり着きます。
けれどもそこは、ただ「彼らを生み出した子宮」でしかなかった。そこにいた「もの」は、ただこの星で生命を生み出すだけの存在。そうして完成品を他の星に送り、失敗作を標本としてのみ残し――。

「創造主」たる存在に「おまえらは出来損ないの失敗作だ」と言われてしまった彼ら。苦労して、やっとの思いでたどり着いた「ふるさと」だというのに。
人間を造ったものがいたとして、それが人間を愛し、導き、死後もあたたかく迎えてくれるなんて、人間の儚い夢にすぎないよね……。

できそこないの烙印を押された彼らは、それでもちゃんと生きていて、「ふるさとに帰る」という目的を持ち、戦い、道を切り開いた。

わたし達は、完成品の種のために忘れられていい種、失われていい種じゃない。まして、失敗作の標本になるつもりもない (P231)

彼らは「創造主」を破壊し、精神共同体のようなものになって、最後にゴーショーグンチーム6人をどこやらへと飛ばしてくれる。どこか、また別の星へと。

『時の異邦人』で「運命」と戦った6人、今回は「生き物たち」の手助けをしただけで、彼ら自身が創造主に叛旗を翻した、というのとはちょっと違うんですけど、もちろんというかなんというか、今回の「創造主」も“ビッグソウル”の手先であり、そもまず6人がこの星に降り立ったこと自体、“ビッグソウル”の思し召しだったようで。

お前達が、どう呼んでいるのかは知らぬが、宇宙を動かす大きな力の導きなのだ。 (P228)
知らないね。わたしは、お前達の言うビッグソウルの思い通りに生まれ、滅びるだけだ…… (P236)

“ビッグソウル”=宇宙の意志。

あとがきで首藤さんが「ゴーショーグンシリーズの核であり、かつては地球の、いいえ宇宙の希望・夢だったものです。それがどうして、こんなことになったのか……。(P243)」と書いておられて、ほんと、テレビ本編最終回でビッグソウルに導かれて宇宙へ飛翔していった地球のソウルたちはなんだったのか。ハッピーエンドじゃなかったのかよ、って思いますけども。

人類だけでなく、木々や虫、機械にまでソウルがあり、それらが「肉体」という容れ物を離れ、「地球」という狭い世界をも飛び出して、宇宙で次元の違う生命体(精神体?)になる。そのことによって他のソウルとも自在に意思疎通ができ、いわゆる「寿命」もなくなって、永遠に近いものを手に入れられる。

それは進化なのかもしれないけど。

でも、不自由でも、脆くても、嘘ばかりで面倒くさくても、「わたしは“わたし”でいたい」「たとえ神であろうと、“わたし”の生き方を誰かに決められたくない」。それが、レミーたち6人の想い。
そっちがその気でちょっかいかけてくるなら、こっちもとことん抵抗させてもらいましょ。

これから先、彼らと読者の皆さんに何が待ち受けているか、今は何も言えませんが、彼らなりの、人間としての激しくきびしい戦いが続くことは確かなようです。 (P243)
本編の方は、まだまだ続きそうです。 (P247)

あとがきにはそう書かれてあるのですが、残念ながら本編はこれが最後になってしまったのですよね。番外編2作のあと、本編の続きが出ることはなく、首藤さんは2010年に鬼籍に。

ああ、もっともっと、ゴーショーグンチームの戦いを読みたかったなぁ。

最後、レミーがこっそり「みんな、好き……。でも、誰が一番好きかっていうと――」(P240)と誰かさんの顔を思い浮かべるシーンがあるのですが、それが誰なのかも明かされずじまい!
私はやっぱりあの人だろうと思うんですけど、あの、「これこそまさに…」のお方だと……。でもこれは言わぬが花、紅一点のレミーが誰か一人のものになるのはつまらない結末、たとえもっと続編があっても、きっと、そこははっきりしないままだったんだろうな。

あと、

先を考えると、ほんとうに、子供に変身できる魔法のバトンでも欲しい気持ちになってしまう。 (P105)

という「ミンキーモモ」を連想させる一文も楽しかった。ピピルマピピルマプリリンパ、パパレホパパレホドリミンパ、チャイルドタッチで子どもになぁれ~♪ ミンキーモモ本編にゴーショーグンのBGMが流れたメカ回(※第31話「よみがえった伝説」)もありましたもんね、ふふふ。

あと2冊、番外編もおいおい読み返したいと思います。
SEE YOU AGAIN!