はい、いよいよゴーショーグンの小説、最後の1冊です。


番外篇1作目では幕末の日本に飛ばされたゴーショーグンチーム、今度はルネッサンスのフィレンツェに飛ばされてしまいます。
飛ばされたとたん目の前で若い娘が襲われていて、うっかり助けてしまった6人。
そう、そこがもしも「地球」で、「過去」なら、うっかり歴史に介入してしまってはいけないのです。まぁ幕末でも結局関わってしまってたわけなんだけども。

歴史が変わろうと私がどうなろうと許せないことがある! (P33)

襲撃されていた娘がただ殺されるだけでなく、慰みものにされそうになるに及んで、レミーはもちろん男性陣5人も、一斉に「この子を助ける!」って行動するところが素敵です。
レミーちゃんたら「いよっ! でたっ! ゴーショーグンチーム! カッコ良い!」(P33)などと心の中で喝采しちゃってるもんね。

で、その助けた娘、名はイザベル。メディチ家の血を引く彼女は本家に呼ばれてフィレンツェへ向かう途中でした。襲撃により従者を殺され、一人になってしまった彼女は護衛としてゴーショーグンチームを雇います。
かくして6人は花の都フィレンツェに赴くことに。

メディチ家の屋敷で彼らを出迎えたのはカミーユという謎の女性でした。驚くほど妖艶な美女カミーユは何やらブンドルが気に入ったようで……。

新選組だの竜馬だのといった幕末のスターがたくさん出てきた前作と同じく、今回もロレンツィオ・デ・メディチにサヴォナローナ、ミケランジェロにダ・ビンチ、ラファエロといったルネッサンスのスターが続々出てくるんですが。

やっぱり、新選組や維新志士ほどには心躍りませんよね(^^;)
ストーリーの要になってるのはロレンツィオ・デ・メディチの養女を名乗るカミーユで、ミケランジェロたちはさほどゴーショーグンチームとは関わりませんし。

ルネッサンスのパトロンとしても名を馳せたメディチ家、死を前にロレンツィオはメディチの血を引く娘たちを世界中に嫁がせ、フィレンツェの文化を世界に広めよう、フィレンツェを世界の中心にしようと企んでいました。
その一人として育てられたイザベルは百人を超える娘たちの中でも特に優秀、あまりに優秀すぎて命を狙われたようだったのだけど。

イザベルの名もカミーユの名も、メディチの歴史の中には出て来ない、と不審がるブンドル。

そう、皆様覚えておいででしょうか。ブンドルのフルネームを。
レオナルド・メディチ・ブンドル。
自分もメディチの末裔なのでは?と、メディチ家についてはかなり詳しく調べ上げていたブンドル。ブンドルが知らないということは、彼女たちの名は歴史に残らなかったということ。あるいは、もしかしてこの世界は我々がよく知るルネッサンスとは違う別の世界なのかも?

イザベルをあのまま助けなければ、イザベルはあの場で殺されて歴史に残りはしなかっただろう。しかし、助けた今……、ブンドルの知るメディチ家の歴史の中にイザベルが出てこないとすれば、消すのはだれか?
もしかしたら、いったん助けたイザベルを歴史から抹殺するのは、自分たちではないのか?
 (P113)

結論から言うと。
実はカミーユも「別の時間」から来た人間だったんですよね。
彼女が現れたことで狂ってしまった歴史を修正するために、ゴーショーグンチームは「誰かさん(ビッグソウル)」によってルネッサンスに送りこまれたようなのです。

ロレンツィオはほどなく死に、カミーユは「自分の思う芸術の園」を創るため、ミケランジェロたちを海底秘密基地みたいなところに閉じ込めます。
当時の芸術家は教会や権力者の庇護のもと、彼らの望む作品しか公にできなかった。神の教えに叛くようなものは作れない。
だからカミーユは、彼らに「自由に」創作してもらうために、自分のもとへと呼び集めた。

「私はあなたたちに自由に創作してほしいのです。そんな時代と国を作りたいのです」
カミーユが言った。
「あなたが、神になり代わってかね?」
ボッティチェリが言った。
 (P225-226)

人から与えられる「自由」は真の自由ではないというか、カミーユは単に自分の思う「自由な芸術」を押しつけているだけだったのですよね。
それになんというか、制約があるからこそ、その制約の中でいかに自分の表現したいものを創り出すか、どうかいくぐって認めさせるか、みたいなところこそ「腕の見せどころ」という気もする。
あれもこれも発禁処分という状況はもちろん望ましくないけど、何の制約もないところで「芸術」って生まれ得るのか……。

カミーユの発想はさらにぶっとんでいて、世界を「ぼくの考えた最強の美の帝国」にするため、ペスト菌を操ってローマ教会をのっとり、世界を支配しようとまで考えている。

「私たちの芸術を否定するものが現れれば、そこに神の怒り、黒死病が襲います」 (P222)

なんちゅうことを考えるのじゃ、この妖艶美女は。
そしてその計画にブンドルを誘うのですよね。レーザー銃というこの時代にあるはずのない武器と知識を持った彼らの力を、彼女は利用したいと考えている。
「女とみまがう美しさでありながら強い」ブンドルのこと、男としても非常に気に入ってるようだし。

カミーユのブンドルへの猛アタック――一人だけ海底秘密基地に連れていかれちゃったブンドルの身を案じて、レミーちゃんがかなーりやきもきするのが微笑ましいです。

別にイザベルに対抗しているわけでも、ブンドルを愛している気もないのだが……、自分も、仲間のブンドルにたいして、やたらとひたむきになってしまうのが、なんだか照れ臭かった。 (P198)

レミーは、生きているブンドルを見て、一瞬涙ぐみそうになったが、ぷるぷると首を振ってにっこり笑い、手を振った。 (P224)

ふふ、レミーちゃんたら可愛いんだから。

庇護しようとした芸術家たちには「もうここから出ていきたい」と言われ、ブンドルにも申し出を断られ、カミーユは悲嘆のうちに自分の正体を思い出します。
「自分はここにいるはずのない人間だ」と。
そう自覚したとたん、カミーユの存在は揺らぎ始め、ついには消えていきます。

「カミーユ」という名前でピンときた方もいらっしゃるでしょうか。
そう、彼女はカミーユ・クローデル。ロダンの弟子であり、恋人でもあった彫刻家。晩年は心を病み、長く精神病院で過ごした末、孤独な一生を終えた女性。

それは、彼女が死の前に垣間見た夢。
真実の美を――自分の求める美、自分が何者であるかということを探し求めていた彼女が、「そこでならきっと見つけられる」と思いこんだ結果、ルネッサンスのフィレンツェに「実体」として迷い込んだ。

人が「思い込み」で時を超えられるなら、ここまでビッグソウルに好きなように時空を飛ばされてきたゴーショーグンチームも、その操り糸を断ち切れるのではないか。

……もう、誰の言いなりにも動かされない……
六人の思い込みは強かった。
 (P253)

それが、この作品のラスト。そしてゴーショーグンという物語のラスト――。


あとがきで首藤さんは、こんなことを言っておられます。

そもそも作者である僕にとって、ものを書かなければならない思い込みとは何なのか? (P255)

この番外篇2が刊行されたのは1991年の6月。もう、アニメ本編が終了してから、10年も経っています(※ゴーショーグンの最終回放映は1981年の12月末)。
見ていた子どもたちも大人になっていく中、過去の懐かしさだけで読んでもらっていいのか、そもそも何のためにゴーショーグンを書くのか……。

悩まれた末の結論として、この作品が生まれた。

いまだにその答えが出たわけではないのですが、イザベルと、この作品におけるカミーユの「思い込み」を合わせて、ぼんやりとなにかが見える気もしています。
そして、それが見えたとき、このゴーショーグンの長い旅は、たぶん終わるのでしょう。
 (P256-257)

結局、「旅の終わり」は描かれないまま、2010年の10月に首藤さんは急逝されます。この『美しき黄昏のパバーヌ』の上梓からおよそ9年後。
あとがき最後の一文は、

それでは……皆さんとゴーショーグンのメンバーがお会いできる日がまた、必ず来ると思い込んで……。 (P258)

なのですが、もしもご存命であられたとして、果たして「続き」が書かれることはあったのでしょうか。
もっともっと彼らの活躍を読みたかった、でも、決してピリオドを打たれることなく、今もどこかで彼らの旅は続いている、と考えられる方が、彼ららしいような気もして。

カミーユが消える直前、ブンドルは彼女と、美について、自分自身の存在について、問答を繰り広げます。

「しかし、もともと、美とは不確かなものだ。自分とは何か。それもまた不確かで、納得できる答えが出そうもない」 (P238)
「私は何者なのか? その答えを求めながら、答えのない自分の存在に、身をまかせ、旅を続けるしかない」 (P240 いずれもブンドルの台詞)

そう、きっと、答えなんかないんですよね。ただ、最後にカミーユが言ったとおり、「自分と同じような問いを続けるあなたとめぐり逢えただけで、もうひとりぼっちではない気がする」と思えるだけ。


本の中で、物語の中で、「ああ、ここに私と同じようなことを考えてる人がいる」と思える時、私はとても救われる気がする。
私にとって『ゴーショーグン』は、そんな物語。

「そして、果てしない時のどこかで、彼らの旅は続いている。
AND SEE YOU AGAIN」 (『時の異邦人』 P215)

またきっと、会いましょう――。