『ゴーショーグン』を読み返そうプロジェクト、こっそり、ゆっくり、牛歩ながらも続いております。(これまでの感想記事へは末尾から)

ついに!
いよいよ!!
『時の異邦人(エトランゼ)』です!!!

ゴーショーグンシリーズの中でも最もお気に入りで、何度も読み返したせいで最もヨレヨレ。大学生の時、英語での読書感想文宿題のネタに使ったこともありました。
英語なら!
元がアニメでも!!
きっとバレない!!!(バレてたかもしれませんが)

写真の帯にある通り、この『時の異邦人』はOVAとして作られた作品のノベライズです。OVAだけど、映画館でも上映されたのですねぇ。1985年の4月……かれこれ35年前。
そしてOVAは12,800円! ひゃあー、たっか!
今でも買えませんが、当時まだ高校生ぐらいの私に買えるわけもなく。
ノベライズだけ読んで、OVAはその後テレビ放送されてやっと見たような記憶が。

読売テレビの『アニメだいすき!』の枠かな? 何で放送されたんだろう……。VHSで録画したものをDVDに焼き直した画質の悪~いやつを引っ張り出してきて、ノベライズ読む前に見たんですけど、ひたすら小説版の方を読んでいたせいか、アニメ版より文章の方がよりグっと来る感じがしました。
動いているレミーやブンドルさん、何より今は亡き塩沢兼人さんや鈴置洋孝さんのお声はたまらないですけれども。


で。

お話の内容なんですが。
OVAとして作られたということで、ここまでの小説版の直接の「続き」というわけではありません。小説版2作目でロボットのゴーショーグンはいなくなり、宇宙の果てを冷凍睡眠しながら漂うことになったゴーショーグンチーム。3作目、4作目では見知らぬ奇妙な星での戦いを強いられていました。その背後には「ビッグソウル」――宇宙の意志――が見え隠れして。

たとえそれが宇宙全体の意志、抗うことのできない「さだめ」だとしても、自分の生き方に反するのであれば徹底して戦ってみせる、それが、レミーたちゴーショーグンチーム。

というわけで、この『時の異邦人』で彼らが戦うのは「運命」
「死すべきさだめ」。

3つの時代の、3つの世界で、レミーは死にかけている。

不治の病に冒されたうえに、ハイウェイでの事故で瀕死の重傷を負った老齢のレミー
「娼婦の子」として蔑まれ、逐われた先で落とし穴のようなところに落ち、真っ暗闇で膝を抱えるしかない7歳のレミー
そして。
仲間とともにたどりついた砂漠の街で、「おまえは二日後に死ぬ」と告げられる20代のレミー

メインは、砂漠の街での戦い。
その街では、死期の迫ったものには必ず「予告」が来る。誰もその「さだめられた運命」からは逃れられない。レミーだけでなく、キリーは3日後、真吾とカットナルは4日後、ケルナグールは5日後に死ぬと予告される。(※ブンドルは後に「私は昨日だった」と言うのですが、レミーへの気遣いからそう言ってるぽくて、本当は何日後なのかわからない)

もちろん、「はいそうですか」と座して死を待つ6人ではない。もっとも死期の早いレミーを守って戦う男たち。さだめに抗う彼らを「背信者」として敵視する群衆の攻撃から逃れ、「街さえ出てしまえば――」と街の門へ向かうが、しかし門の外には。

門の外には、街。
門をくぐっても、元の街に戻るだけ。

その街に、「外」はない。そこは「運命」そのもの、死すべき人間のさだめそのもの。人は決してそこから逃れられないから。

ちなみに門を出る時に使うのはブンドル様の運転するサイドカーなんですが、ブンドル様とレミーの息の合った運転で疾走するサイドカー、アニメも楽しいし、小説版に付いている天野喜孝さんの美麗な挿絵もとっても素敵です♪
(※挿絵はどれも大変素敵なのですが、老齢のレミーの世界でカットナルがブンドルのもとを訪れるシーン、どう見てもケルナグールとブンドルなんですよね。71頁……)

外へ出られないなら、街の中心、街の象徴(シンボル)、群衆の崇める神殿をぶっ壊すしかない。レミーが「死」を予告された当日、朝の光とともに神殿へ乗り込んで行く6人。果たしてレミーはさだめに打ち勝ち、“明日”を迎えることができるのか!?

一方老齢のレミーの世界では、レミーの死はもう決定事項。医者はすでに霊柩車の手配まで済ませてしまっている。
7歳のレミーは穴の底に落ちたまま、地上へ出る術はない。助けは来ず、暗さと寒さ、ひもじさ、そして寂しさが幼いレミーの心身を蝕む。

「どうしようもないのよ。あきらめなさい。あなたは、そんなふうにしか生きられなかったんだから」 (P164)

どこからともなく聞こえてくる声。そうかもしれない、このまま死ぬしかないんだ、と7歳のレミーが諦めかけた時。

男の子達の声が聞こえてくる。
そう、真吾、キリー、ブンドル、カットナル、ケルナグール。
まだ会ったこともなくて、これから先、会うかどうかもわからない、彼ら。

この、「まだ会ったこともなくて、これから先、会うかどうかもわからない」ってフレーズが、めちゃめちゃ好きだったんですよねぇ。今となっては「いやぁー、もう会わねぇわー、俺引きこもりだし」って思っちゃうけど、初めて読んだ頃はまだティーンエイジャーで、「生きていれば誰かに会えるかもしれない」って、やっぱり未来に希望を抱いてたから。

もちろん読者にとっては、それは「可能性」ではなく「決まった未来」で、レミーがやがて真吾たちに会うことはわかっている。だけどもしもあの「7歳のレミー」が諦めて死を受け入れてしまったら、あの世界のレミーが彼らに会うことはなくて。

生死に限らず、一つ一つ、細かい分かれ道によって、私たちの未来は変わる。自分1人が何をし、何をしなくても、世界は変わらない、変えられないと思う一方で、それでも、たとえどんなに小さな変化でも、可能性による分かれ道は無数に広がっていて、あきらめなければ、その先に誰か――何かとの出会いが待っているのかもしれない。

「これから先、会うかどうかもわからない」ってところで、やっぱり鼻の奥がツーンとなってしまいました。そして、そのすぐ後。

「仲間って、わたしに友達なんかいないわ」
レミーは肩をすくめて言った。
「友達じゃないさ。みんなひとりぼっち、だから仲間さ」
 (P166)

ここが!
すごい!!と思った。

ゴーショーグンチームのベタベタしない関係――まぁ元々は敵味方だったわけだけど、味方同士だったレミー、キリー、真吾の3人も、すごくサバサバした関係で、「たまたま雇い主が同じ」「たまたま今は味方」「でも信頼はしてるよ」っていうその距離感が本当に好きだった。

巻末の付録でなにわ♡あいさんも「生まれも育ちも全然違う連中がベタベタくっつくでなく、“何かの時には一緒”という絆意識をふりまわすでなく、それでも互いを認めあって、決して捨てたりすることはない」って書いてらっしゃるんだけど、ほんとそれ! そこが最高なのよねぇ、ゴーショーグンチーム。

“絆意識をふりまわすでなく”

ここよー。マジここよー。「ブライガー」の面子もそうだったけど、すごく「大人」な感じがしたよね。1人1人がプロで、決して“群れてる”のでなく、「1人で立ち向かえる強さ」を持ってて。

当時でも彼らの関係性ってなかなか画期的だったと思うけど、今読むとほんとに「これだよ!これこそまさに格好いい!!!」って心底思う。

あとがきで首藤さんが、「ゴーショーグンという作品のメンタルな世界……ゴーショーグンのテーマのようなものを書いたつもり」とおっしゃっています。それは6人の関係性であり、「レミーは決してあきらめない」であり、「生きている世界のストーリーや題材がどんなものであろうと、自分は自分であることを、けっして止めない」こと。

7歳のレミーはあきらめなかった。
砂漠の街のレミーも、最後まで、指が動かなくなっても、銃を撃ち続けた。
従容として死を受け容れたりなんかしない。運命だからと挫けたりしない。

“運命”は打ち砕かれる。
老齢のレミーの止まった心臓は動き出し、“時のモニュメント”は崩れ、再びみんな若い姿になって、肩を並べ、歩き始める。

「そして、果てしない時のどこかで、彼らの旅は続いている。
AND SEE YOU AGAIN」
 (P215)

首藤さんが亡くなられて、『ゴーショーグン』シリーズは本編があと一つ、番外編が2つ残っているだけ、もう決して新しい物語が紡がれることはない(少なくとも首藤さんの手では)のだけど、でも、果てしない時のどこかで、あらゆる次元の、あらゆる可能性の世界で、変わらず自分たちの戦いを続けている彼らがいる。

人の命は有限で、私たちは必ず死ぬけど、でも、それでも――。

はぁ、やっぱりこのお話大好き。
素敵な物語をありがとう、首藤さん。