はい、久しぶりのエラリー物の長編です。『靴に棲む老婆』を読んだのは2018年の7月のことだったようなので…なんと4年ぶり!
こないだ『クイーンの冒険』新訳版を読んだばかりですし、ドルリー・レーン四部作を読了したのも今夏のことなので、クイーンさんとはずっと親しくしていたのですが、探偵エラリーが活躍する長編からはそんなにも遠ざかっていたのですね。びっくり。

読んだのはハヤカワ・ミステリ文庫版、翻訳は青田勝さん。日本語版は1976年(昭和51年)、原著は1951年(昭和26年)の刊行です。1937年の『悪魔の報酬』、1938年の『ハートの4』に続くハリウッド物の3作目。

冒頭、いきなりエラリーが女の死体を眺めていると思ったら……それは「ハリウッド」のことでした! しばらく本当に死体がある(=殺人事件)んだと思って困惑しました(^^;)
だって普通にこんなふうに書いてあるんですよ?

そして死体は彼の足もとにあった。(中略)しかも彼女は並はずれた大女だし(後略) (P5)

それは不可思議な事件だった。被害者はまだ身体をびくびく動かしている。彼の坐っているところから眺めると、まだ生きている徴候が見うけられた。 (P5)

死んでるのに体を動かしてるって何? エラリーが座ってるってどういうこと!?と思っていたら

あでやかなハリウッド。テレビに殺されて、検視まですんでしまったとは! (P6)

という文が出てきて「ん?」となるんですが、それでもまだ完全にはピンと来てなくて、「テレビに殺されたハリウッド女優ってこと?」と思ってしまった……。
「ハリウッド」そのものがテレビに殺された、落ち目になった、でもまだ完全に終わってしまったわけではなく、「まだ生きている」「動いている」、映画は撮られ続けている、と、そういうことだったんですね。

これ、同時代のアメリカ人ならすぐにそれとわかって、にやにやしながら読み進む、粋なオープニングだったんでしょうね。

ともあれエラリーは、ハリウッドを舞台にした小説を書くべく、家を借りてハリウッドに滞在しています。なぜハリウッドを選んだのか、特に理由はないらしく、こんな描写が。

推理小説というものは、ある特別な発展法則にもとづいて出来上っていくものだから、その発端は、群衆の中で、顔もわからない女の片眼の表情を、心臓が一つ鼓動するだけの瞬間にちらりと見たことから始めてもいいし、また生命保険証書の五ページめに印刷してある細かい活字から始めてもかまわないのだ。作者が手持ちの地図から好きな地点を選び出してそこから始めるのが通例である。 (P6)

クイーンさんが実際にこういう小説の書き方をしているのかどうかはわからないけど、「推理小説というもの」についての見解、興味深いですね。

で。
そんなふうにエラリーが瀕死のハリウッドを眺めながらほぼ裸でくつろいでいたら、突然家の中に若い娘が!

ポニースキンの椅子から身を起した彼は、自分が美しい若い女に面と向き合っていることに気づいて、びっくりした。
裸のまま寝室のドアへとんでいきながら、エラリイは、革紐のサンダルはさぞ滑稽に見えただろうと思った。
 (P11)

庭から家の中(ポーチ???)に入ってきた若い娘にどぎまぎするエラリー。一方、娘の方はエラリーがほぼ裸であることなど気にも留めず、

「あなたは身体が青白いじゃありませんか。それに、肋骨が見えてますわ、エラリイさん」 (P11)

とさらにエラリーを苛立たせる始末(笑)。
この娘、ローレル・ヒルは、エラリーに父の死の真相を明らかにしてほしいと懇願します。最初は「はいはい、帰って帰って。まったく有名になると誰でも彼でもやってきて困るなぁ」みたいな態度だったエラリー、ローレルが「犬のせいで父が死んだ」「父は犬に殺された」と説明し始めると興味を覚え、依頼を引き受けることに。

ローレルの父、リアンダー・ヒルは、玄関先に置かれていた犬の死骸と、犬に結び付けられていた手紙を読んで顔色を変え、心臓発作を起こして、それがもとで死んでしまったんですね。
犬の死骸を送りつけてきたのは誰なのか、一体誰が父を怯えさせ、死なせたのか。直接的な殺人ではないこともあって、警察は動いてくれない。でも彼女はそれが「殺人」だと信じている。あの犬と手紙は何らかの「脅迫」だったと。

リアンダー・ヒルにはロージャー・プライアムという共同経営者がいて、ロージャーのもとにも奇妙な「警告」が届いていたのですが、彼はその中身を語ろうとしないし、「心当たり」についても口を割らない。
エラリーが見つけ出した、リアンダー・ヒルに届いた手紙には、「おまえたち二人に復讐してやる」という言葉が明確に書かれていたにもかかわらず。

舞台がハリウッドということもあってか、ロージャーはじめ登場人物はみなかなり“派手”です。
まずロージャー下半身不随で、ベッドや机兼用の大きな車椅子で10年以上も過ごしています。その車椅子から離れることはないし、あまりに大きくて動かすのが大変なので、家から――自分の部屋から――出ることもほぼありません。しかし頭はしっかりしていて、何でも自分の思い通りにしないと気が済まない、大変支配欲の強い人物。

そしてロージャーの妻デリア。非常に魅力的な、今風に言えば「美魔女」といった女性で、彼女が現れるとその場にいる男達はみんなめろめろ、脳味噌が溶けてしまう。エラリーもご多分に漏れず、すっかり彼女にのぼせ上がってしまいます。

デリア・プライアムの話は、彼の心に充分にしみこんでこなかった。エラリイは、なかなかそれに集中できないで困った。ともすれば、細かい点がこんがらがってしまう。彼女のブラウスの曲線。そして彼女の腰から下をかっきりと強く浮き出させているスカート。 (P38)

まったくエラリーと来たら! こんなに美女に弱いやつだったとはねぇ。
でもまぁ、デリアが「その気」で家に来た時は、どうにか自分を抑えて「お帰りください」と言えたので、そこは偉かったかな(何目線)。

「エラリイ、あの晩のことで怒っていらっしゃるの?」 彼女の声は非常に低く、非常にかすれていた。「あの晩はなにもなかったじゃありませんか」 「だからいけないんでしょ」 彼女は笑った。 (P204)

男心をとろけさせずにはおかない美しい人妻、踏みとどまって「あなたはそんな自堕落な女じゃないでしょう? 僕もそんな男じゃありません」とか言って説教したあげく彼女に平手打ちを食らってたんですよね、エラリー。
そうしてやけ酒をあおりながら

だが彼は、自分が浄められ、安全で、そしてやや皮肉ながら高尚になったように感じた。 (P177)

うん、偉い偉い(笑)。

そしてロージャーの秘書&介護係&召使いのアルフレッド・ウォレス。何しろロージャー・プライアムは下半身不随で自分では着替えもままならないので、身の回りの世話をする人間が必要なんですが、ウォレスは記憶喪失でプライアムに雇われる以前の経歴がわからない。なかなかの美丈夫で、決して若くはない(50代前半くらい?)けど、ロージャーの命令でエラリーを力ずくで追い出せるほどの腕力を持っている。(とはいえエラリーの柔術に反撃され、投げ飛ばされるんですが)

実はウォレス、ロージャーの世話係であるだけでなく、デリアの世話もしているんですよね。美しい人妻の夜のお世話を……。

「プライアムが男を雇うのは、あの邸の主人に仕えさせるためであり、そしてまた、女主人にも仕えさせるためであったわけです」
「そいつを追い出してください」エラリイはキーツにいったつもりだったが、驚いたことには、それは言葉となって口から出ていかなかった。
 (P194)

ウォレスとデリアの関係を知ってうろたえるエラリーほんま(^^;)

えーっとそれから、デリアと前夫との間に生まれた青年クロウ・マクガワン。この子がまた、木の上に裸で住んでる、変わった子なんですよねぇ。

この日は、大先生の自尊心にとっての厄日だった。(中略)(デリアの息子は)肩幅が不可能なほど広く、ウエストは信じられないほど極度に引きしまった堂々たる美丈夫で、ミスター・アメリカの筋肉と、ハワイ土人の皮膚(中略)そしてその笑顔を見ると、エラリイは急に自分が年寄りじみて感じられた。 (P80)

なんで木の上なんかに住んでるかっていうと

(水爆、毒ガス、細菌兵器などで)「都市は人間が住めなくなる。耕地は百年間も汚染されてしまう。」「われわれはそれに対して、いったいどうすればいいか? それにはわれわれがもと住んでいたところへ戻るのが一ばんいい――つまり樹木へ帰れです」 (P83)

という持論からなんですが、実はこの偉そうな理屈、嘘だったりしたんですよね……。この作品が刊行された1951年はアメリカが初めて水爆実験に成功した年であり、朝鮮戦争もあって、「こういう主張をする若者がいてもおかしくない」と思ったんですが。
クイーンさんの策略にまんまと騙された(笑)。

登場人物だけでもうお腹いっぱいなところ、ロージャー・プライアムのもとには奇妙な脅迫が届き続けます。

マグロ料理に混入された砒素、おびただしいカエルの死骸、鰐皮の財布、切り刻まれ燃やされた『鳥』というタイトルの本。さらに「無価値の株券」(キャッツ・アンド・ドッグズ)。

寝室のあちこちにカエルの死骸という光景、想像するの嫌すぎるんですが、これ、この脅迫の共通点、わかります?
エラリーはその共通点に気づき、ロージャー・プライアムが口を割らなかった最初の警告が「ヤツメウナギのようなものの死骸」だと見事当ててみせます。
そう、「生きた化石・円口類」→「魚類」→「両生類」→「鳥類」→「哺乳類」と、使われる生き物が進化していってるんですね。最後には「人類」が来るだろう、つまり「おまえの死骸が届けられるだろう」という。

あまりに手が込みすぎていると思うんですが、ロージャー・プライアムとリアンダー・ヒルに恨みを持つと思われる人間「アダム」は博物学者だったらしく、「おまえたちを狙っているのは俺だ!」という自己主張になっているらしい。
でもこれ、「名探偵」の存在を前提にした「自己主張」ですよねぇ。エラリーと一緒に捜査するハリウッド警察のキーツ警部補にはその繋がりがわからなかったんだもの。
脅されるロージャーには心当たりがあるから「それ」と知れるのかもしれないけど、ロージャー、「俺は小学校の時分から本なんか一冊も読んだことはない!」と豪語する人間で、刻まれ燃やされた本のタイトルが「鳥」だってこともわからなければ、警告の類似点をいちいち考えるようなこともしなさそう。

最後、事件解決の決め手となるのが、最初に犬の死骸とともに送りつけられてきた手紙の文章で、これがまた、「エラリーがいなかったら“決め手”にならなかったのでは?」と思える手の込み方。

もともとその手紙の文章には癖があって、非英語話者が母語を翻訳したかのような、ちょっと不自然な印象があったのですが、実はその違和感の原因は「Tが一度も使われていないこと」でした。

「九十九語で書かれ、しかもそれの四百近くの文字の中に筆者がTの字を一度も用いなかった例にぶつかったのは、今度が初めてです」 (P308)
「Tという文字は、英語では二番目に頻繁に使われる文字です。一ばん頻繁に使われるのはEで、Tは二十六個の煉瓦のうちで、二番目ということになります」 (P308)

作家探偵エラリーだからこそ気づけた「違和感の正体」ですし、「Tを使わずに意味の通る脅迫文を綴る」って、著者エラリー・クイーンの文筆家としての腕の見せ所ですよねぇ。
何しろ「T」は「語頭の文字として一番使われ」、「最もよく使われる二重字TH」の一部であり、「最もよく使われる三重字THE」の一部でもあり……。いかに「T」という文字が文中に頻繁に現れる文字であるか、というエラリーの蘊蓄語り、非常に興味深かったです。

たとえば「for the two of you」と書けばいいところをわざわざ「for you and for him」と書き、「This is the first warning」の代わりに「Here is warning number one」と書いてあったわけですが、なぜ犯人はそんなまわりくどい文章を綴る必要があったのか。

それは「T」が――タイプライターの「T」のキーが使えなかったから。

で、見事犯人は逮捕起訴されるのですが。
実は共犯者がいて、その共犯者の方が「主犯」なんですね。でも彼が主犯だということを証明できる証拠は何もない上に、逮捕された犯人も「自分がすべて仕組んだ」と思い込んでいた。

エラリーは「本当の黒幕」に気づいてはいたけど、その人物を法的に有罪にすることはできないと思って口をつぐんでいた。
最後、エラリーの「君をどうしたらいいかな」という問いに真犯人が返す言葉がなんとも秀逸で、「こいつ……!」ってなります。

エンタメとしてすごく面白かったけど、エラリーが「真犯人と知りつつ告発しなかった」のはちょっとモヤモヤしました。「真犯人とは後でゆっくり話をつけるつもりだった」なんていうのは、「神を気取る」ことのように思える。
それにエラリー、真犯人の計画に手を貸したようなものだもの。

最初の「T」抜きの手紙はエラリー登場以前に送られているので、真犯人はどこまで考えて「仕掛け」を始めたのか?とも思います。もしも誰も手掛かりに気づいてくれなかったら、最終的にどうするつもりだったんだろう。それでもロージャー・プライアムを陥れられるという勝算があったのかしら。

お話の途中で朝鮮戦争が始まり、

この地球という遊星を半分まわったところにある、北緯三十八度戦と名づけられるものが、突然一億五千万のアメリカ人の関心を奪ってしまったのだった。 (P232)
国際連合は大騒ぎになり、牛肉とコーヒーの値段が暴騰し、砂糖と石けんが欠乏するという噂が流れ、買い溜めが始まり(後略) (P232)

という描写があるのが興味深かったです。


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