『エドウィン・ドルードの謎』の解説でこの作品のことが紹介されていて、「読んでみたい」と思ってから早や9年(え?もう9年!?)。邦訳は文学全集にしか入っておらず、図書館で借りるしかなかったのですが、このたびめでたく文庫化され、手に取りやすくなりました。
上下2巻で税込み3,300円、しかし買うしかない、買うしかない、この先紙の本は値上がりする一方、何ならもう紙の本なんか手に入らなくなるかもしれない、今買っとくしかない!
ということで、買って読みました。
なんか、不思議な小説でしたね。後半は怒濤の展開で一気に読んだけど、前半と後半でだいぶ雰囲気が変わって、真ん中へんはちょっと読むのがめんどくさかった。
物語は、1775年3月、ロンドン郊外の酒場兼宿屋メイポール亭から始まります。常連の親父たちが語っているのは22年前の惨劇、メイポール亭にほど近いウォレン屋敷の主人、ルーベン・ヘアデイル氏が何者かに殺害された事件。屋敷にいたはずの召使頭と庭師の姿も見えなくなっており、どちらか(もしくは両方?)が犯人と思われたものの、数か月後に召使頭の死体が庭の池から引き揚げられ、残る庭師の行方は今に至るもわからずじまい――。
その惨劇が発見された日、生まれたのが我らが主人公バーナビー・ラッジ。父親はウォレン屋敷の召使頭でした。つまり彼は、父親が殺された翌日にこの世に生を受けたのです。知的障害のある彼は、メイポール亭でちょっとした使いっ走りをしたりして、母メアリーとともにつましく暮らしてきました。
主人公のはずのバーナビー、前半ではあまり出番がありません。前半で語られるのは、メイポール亭の息子ジョー・ウィレットと鍵屋の娘ドリー、そしてルーベン・ヘアデイルの娘エマとエドワード・チェスターという二組のカップルの恋バナ。
前者はジョーの片思い、後者は両思いなんだけども、保護者同士が反目しあっていて、仲を引き裂かれようとしています。
エドワードの父親ジョン・チェスター氏がとにかくひどい! 『荒涼館』にも「立派な立ち居振る舞いのほかに何もしたことのない」ターヴィドロップ氏が息子の人生を搾取していたけど、チェスター氏はもっとあからさまに息子を(というかすべての他人を)金づるとしか見ていない。それでいて外面は良く、優雅に、貴族然として振る舞って、後半では「サー」と呼ばれる地位にまでなっている。
そんなチェスター氏が息子とエマの結婚に反対するのは、エマの現在の保護者ジェフリー・ヘアデイル氏(殺されたルーベン氏の弟)との学生時代からの確執と、何よりも「金」。
「ぼくの晩年にかなりの経済的援助を与えてくれる裕福な女と息子が結婚してくれることを期待していた」 (上巻P184)
そもそもエドワードの母親と結婚したのも財産目当て。でも妻の財産も「もう18~19年前には消えてしまっていた」「だからおまえの嫁の財産で借金を払わなきゃいけない」「エマ・ヘアデイルでは財産不足」とさらっと言ってのけるのです。
エドワードの方はずっとよそで教育を受けさせられていて、自分の家が借金まみれだなんて何も知らずに生きてきたんですね。むしろ「贅沢と怠惰に慣れきり、莫大な財産を持ち、将来の希望には際限がないみたいな育て方」(上巻P222)をされてきた。で、27歳になって父のもとに呼び寄せられ、いきなり「うちは借金まみれだ、金持ちの娘と結婚しろ」と言われる。
27年間実家の資産状況について調べもしなかった息子も息子だよな、と思わなくはないけれど、この時代の上流階級の「親子」というのはこんなものだったのでしょう。父と子と言ってもろくに顔を合わせたこともなく、それこそ「金」だけ送ってきてくれていたわけで(それも全部借金だったというのがヤバい)。
で、息子は「それじゃあただの財産目当ての山師じゃないですか!」と腹を立てて叫ぶんだけども、父親は
「じゃあネッド、他に何になりたいと言うのかね。人間なんて皆財産目当てじゃないか。(中略)もし道徳をやかましくあげつらうのなら、最悪の場合でも自分の財産目当ての結婚で不幸で惨めになるのはひとりの女だけにすぎないと思って、自分を慰めるがいい」 (上巻P227)
と、いけしゃあしゃあ。ここまで来るともはやすがすがしい。すがすがしいほどのドクズ。
自らエマに手紙を渡して、「倅はいっぱい女を泣かせているんですよ~」とエマの恋心を打ち砕いたり、チンピラ悪党をあっさり手の内に納めたり、本当にチェスター氏を描くディケンズの筆がすごくて感心します。
メイポール亭の馬丁である乱暴者のヒュー、彼がドリーを襲うシーンは本当に怖くてドリーが可哀想なんだけど、そんな粗野な男をチェスター氏は見事にあしらう。
乱暴な口をきかれれば、それを言い返すこともできたろうし、暴力を受ければ、それにおまけをつけて返すこともできたろう。ところがこのような冷静で、落ち着きはらった、自信満々で軽蔑したようなあしらいを受けたので、彼はどんな上手な理屈に打ち負かされるよりも、もっと自分のひけ目を痛感させられてしまったのだ。 (上巻P323)
このあとのチェスター氏とヒューとのやりとり、ヒューが帰ったあとにチェスター氏が「あ~、獣くせ~。香水撒いとけ」とか言うところまで、本当にディケンズの人物造型が見事すぎて。
最低最悪のドクズなのに、前半チェスター氏のことしか印象に残らない。
そんな父親に耐えきれず、家を出るエドワード。ジョーの方もいつまでも自分を子ども扱いして縛りつける父親に堪忍袋の緒が切れてメイポール亭を飛び出し、ドリーにも振られて軍隊に志願、そのまま外国へ。バーナビー母子も謎の男に脅迫され、誰にも行く先を告げぬまま姿をくらましてしまいます。
主要登場人物3組がいなくなり、「どうなるの?」と思ったら、いきなり5年の月日が流れ、ジョージ・ゴードン閣下なる人物が登場して、物語の主軸は彼が引き起こす反カトリック暴動の方に移る。
え、いや、ちょっと、ジョーはどうなったん? エドワードとエマの話は? てか主人公バーナビーはどこ行ったんよ。
正直ゴードン卿の話に全然興味が持てなくて、しばらくページを繰るのが億劫だったんですが、ディケンズ的には「こっちの方が本題」ぽいんですよね。何しろこの作品には「一七八〇年の騒乱の物語」という副題がついていて、前半1775年のもろもろも、1753年のウォレン屋敷の殺人も、1780年の「ゴードン暴動」を描くための「前振り」にすぎないらしい。
暴動の経緯や描写はおおむね史実に忠実らしく、暴徒と化した一般市民がカトリック信徒の家をあちこち焼き討ちしていく様子がエグい。暴動は6日間続き、450人もの死傷者が出たのだとか。メイポール亭はめちゃくちゃに破壊され、ウォレン屋敷も焼き討ちを受け廃墟に。そしてエマとドリーは誘拐されて軟禁状態、ロンドンとその周辺はまったき無法地帯に。
この際のロンドン市長の態度がまた、なんともクズなんですよねぇ。「暴徒たちから守ってくれ」と訴える老紳士を「わしに何ができる」とつっぱね、「わしに市民の家の建て直しなんかできん」と論点ずらし。ヘアデイル氏の「殺人犯の収監をお願いしたい」という陳情にも耳を貸さないし、いったい何ならできるの? あんたの仕事は何?と思ってしまう。
さらにディケンズは
もっとも臆病で及び腰のロンドン市長を、職責にめざめさせようと懸命に努力した。(中略)いくら脅そうとすかそうと彼が命令を出す気にならぬため、兵隊たちは表通りに待ちぼうけを食わされてしまった。これが正義に対しては徒労感を与え、悪を助長することになったので、立派な努力が善い効果とは逆に害悪を生んでしまった。 (下巻P284-P285)
と書く。
「正義に対する徒労感」!! なんという観察力、表現力でしょうか。暴動を鎮圧する命令が出ないことで、「暴動の方が正しい」になって、群衆はさらにエスカレートしていく。
率先して乱暴狼藉を働く先頭にはヒューがいて、その横にはなんとバーナビーがいます。「母親のために金を手に入れよう」と思っていたバーナビー、うっかりゴードン卿の一行に出くわして、「この人混みに加わればお母さん孝行ができる」と思ってしまうんですね。さらに顔なじみのヒューに「こいつは分団一の働きものになる」と旗手を任され、何もわからないまま暴徒の一員になってしまう。
バーナビーと引き離される母メアリーの描写も本当につらい。そもそもここまでメアリーの人生、全部つらいんですよねぇ。息子が産まれる前日に夫が殺され、生まれた子には障害があり、母一人子一人で、
夜となく昼となく、この子のそばに座って、ついにやって来なかった知恵の訪れを待ち望み、見守っていたものだった。絶望だとはっきり悟らざるを得なくなった後でさえ、長いこと恐れと、疑いと、希望の念を抱き続けたものだった。 (上巻P346)
という日々を過ごしてきた。それでもバーナビーの存在は彼女にとって光であり、唯一の慰みだった。
「いつまでもいつまでもこの子はわたしに頼りきり、わたしを愛してくれる――いつまでたっても心が老いて冷たくなることがなくて(中略)――このような慰めが苦しみの中から湧き出て来ました。」 (上巻P257)
ヘアデイル家から支給される年金で暮らしていた彼女、「謎の男」に脅されたことでその年金も辞退し、バーナビーとともにどこやらの農村で5年の間ひっそり暮らしていたんですが、そこにも「謎の男」の手が伸び、「木を隠すなら森の中」ということでまたロンドンへ戻ろうとして、ゴードン卿の騒動に巻きこまれてしまう。
結婚前は「彼女ほどの娘がどこにいたでしょうか。陽気で、美人で、目がきらきら輝いて、明るく笑う娘でした!」(上巻P365)と評されるほど幸せな娘だったのに、あんな男と結婚したばっかりに……。どうして鍵屋と結婚しなかったのかなぁ。
「彼女ほどの娘がどこに」と嘆くのは、ドリーの父親、「黄金の鍵屋」の主人、ゲイブリエル・ヴァーデン。彼はかつてメアリーに求婚したことがあり、メアリーはそれを蹴ってラッジと結婚したらしい。ヴァーデン氏、鍵屋としても成功していて裕福だし、何より人柄がとても素晴らしいのです。奥さんがかなり面倒くさい女性なのに、「まぁしゃーないな」って感じで許容してるし、暴徒に加わった徒弟サイモンのこともなんとかして助けようとする。
その際、「とにかく2時間ほど寝ろ」って言うのがすごくこう、「ちゃんとしてる」んですよね。暴動に加わり、さらに酒も入って、乱暴な口を利くサイモンに向かって、「とにかく寝ろ、落ち着いて、酔いを醒まして、話はそれからだ」って言う。興奮状態の相手に何言っても無駄だってわかってる。
サイモンの方は全然聞く耳持たないし、「主人ってだけで威張りやがって」とヴァーデン氏に対して反感を持っているのに、ヴァーデン氏の方は
「こいつは子供の時からこの家の飯を十二年食って来たんだから、今日一日のことで哀れな最期になるのはかわいそうだ」 (下巻P137)
と温情を忘れない。そして最後までサイモンの面倒を見てやるんですよね。娘ドリーをさらった一味でもあるのに……。
「悪い目的のために歪められた善というものは、自然の悪よりもずっと悪いんだ」
「同じような理由で、宗教が道を踏みはずすと、とんでもなく悪くなる」 (下巻P144)
という台詞もすごい。物の道理がわかりすぎてる。
たとえ暴徒に射殺されようと、その親玉にへつらったりしないぞ、とゴードン卿の手紙を破り捨てて啖呵を切るところも侠気(おとこぎ)溢れすぎだし、啖呵切ったあとで「さぁ、楽しい夢を見て、愉快におやすみ」とやさしいキスとともに奥方を寝床に送りだすの、本当にイケメンすぎる。惚れてまうやろぉぉぉ。
最終盤にヒューのために一役買うところも素敵で、チェスター氏との人間性の対比がすごい。
解説によると、この作品が最初に構想された時のタイトルは『ロンドンの鍵屋、ゲイブリエル・ヴァーデン』だったらしい。バーナビーではなく鍵屋がタイトルロール! さもありなん、なんですが、どうしてディケンズは主人公を鍵屋ではなくバーナビーに変更したのか。
敢然と暴徒に立ち向かう鍵屋よりも、巻きこまれてひどい目に遭うバーナビーを描く方が、いっそう「ゴードン暴動」の馬鹿馬鹿しさを描けると思ったのでしょうか。
上巻に収録されている訳者小池滋さんによる解説では、ドストエフスキーの『悪霊』との共通点が述べられています。海外では両作品を比較検討した『ドストエフスキーとディケンズ』という著書もあるらしく、『悪霊』のピョートル・ヴェルホヴェンスキーと『バーナビー』のガッシュフォードとの綿密な比較論が展開されているのだとか。
『悪霊』については8年前に読んだ時に感想をそこそこ長く書いていますが(記事こちら)、『バーナビー』読んでる時に『悪霊』のことなんてひとつも連想しませんでした……テイストが違いすぎる気がする。
確かに人々がゴードン卿という奇妙な人物によって謎の熱狂を引き起こされ、多くの死傷者を出すに至る、というのは『悪霊』の構造と似てはいるけれども。
ディケンズはゴードン卿のことを「完全なる意志薄弱」と表現していて、彼の演説や主義主張に「内実」はなかった、むしろ中身がないからこそ民衆は乗せられてしまった、と書きます。
どんな馬鹿馬鹿しい、または恐ろしいことであれ、それを謎でくるむと、大衆にはこたえられないほど強い秘密の魅力を与えることになるのだ。にせ聖職者、偽予言者(中略)、ありとあらゆる種類のにせ天才などは、いつも自分の行動を謎のヴェールで覆い(後略) (上巻P504)
何故だかわからないが、何だかわからないものに反抗して、遮二無二団結せよと万人に向かって訴えるようになった時――その時こそ狂気が実際に蔓延し、連盟は日に日にふくれ上がって四万人にまで達したのであった。 (上巻P506)
主目的はプロテスタントによるカトリックの排除であったはずなのに、後に捕らえられた処刑囚のうちには「自分はカトリック信者だ、死に際にはカトリックの僧侶に付き添ってもらいたい」と言うものがいた、と。
ただ何かに熱狂したかった、ただ暴力を振るいたかった、「強い側」に立って、「弱い」とされる側を踏みつけたかった……そのあげく、処刑されるのは「もっとも弱い者、けちな雑魚、哀れむべき連中」(下巻P484)であり、暴動を扇動したゴードン卿や、暴動に対して何もせず、市民の家が破壊されるのを見過ごしにしていたロンドン市長は罪に問われない。(ゴードン卿は投獄されたけど、無罪になったらしい)
ゴードン騒動は1780年、ディケンズが『バーナビー・ラッジ』を連載したのは1841年。180年ほど経っているわけですが、あまりに“今”と変わらなくてゾっとしますね。
バーナビーも捕らえられ、処刑執行寸前にまで行きます。悪いことをしている自覚などないまま(むしろいいことをしているつもりで)、先頭に立って旗を振らされていたバーナビー。ディケンズは彼の名を作品に冠することで、「私たちはみな彼のようなもの」と言いたかったのでしょうか。
下巻には、エドガー・アラン・ポーによるこの作品の書評が収録されています。ポーは冒頭部分を読んだだけで、ウォレン屋敷での殺人事件のトリックを見破り、まだ連載が三分の一ほどしか進んでいない時点でひとつめの評論を書き、「このあと主役バーナビーが犯罪の真相を解明する」という予測まで立てていたのだとか。
いや、そう思うよね、タイトル『バーナビー・ラッジ』だもんね。
下巻に収録されているのは作品完結後に書かれたふたつめの評論で、ここで紹介されている「あらすじ」が非常にわかりやすい。チェスター氏とヘアデイル氏の若き日の因縁から順を追って時系列に整理されていて、「なるほどそういうことだったんだ!」となります。
ポーは割と『バーナビー・ラッジ』のことを酷評してて、せっかくのミステリ要素がゴードン暴動のせいでどっか行っちゃったことに強い不満を表明しています。もしディケンズ自身による序文や「一七八〇年の騒乱の物語」という副題がなかったら、
「筆者は作中の騒擾事件を作者が劇作の途中で思いついたものと考えたに違いない。この事件が物語と必然的な連関をもたぬことはあきらかである」(下巻P571)
と。
「なんで登場人物たちはいきなり5年もほったらかしにされるんだ?何のために?」という述懐には私も大きくうなずかざるをえず。うん、マジそれな。朝ドラかよ、ってぐらいいきなり5年経つもんね。
ゴードン暴動のことを描きたかったにもかかわらず、具体的な筋は実のところ考えていなかったのでは?とか、「雑誌への連載という馬鹿げたやり方」とか、ポーの筆はかなり辛辣。
最初にどれくらい細かく設定や展開を考えていたのか、それはディケンズのみが知ることだけれども、ディケンズは別にミステリを主眼にこの作品を書いたわけではなく、最初に殺人の話が語られるのも、バーナビー母に付きまとう「謎の男」の正体がなかなか明らかにされないのも、ひとえに読者の興味をひくため、「連載」を読み続けてもらうための仕掛けだったのでは。
そういう意味では、一本芯の通った立派な市民である鍵屋よりも、出生に暗い影を負ったバーナビーの方が、「主役」として読者の心を惹きつけると考えたんでしょうかね。それにしてもあそこでいきなり「5年」の月日が流れるのは本当にびっくりだし、前半であんなにしっかり描かれていたエマとエドワード、ドリーとジョーの恋模様が後半ではおまけみたいになってしまうのももったいない。
ジョーの話だけで十分長編書けますもんね。義勇軍に参加してアメリカに渡り、そこで片腕をなくしてしまうジョー(物語の舞台は1780年、つまりジョーはアメリカ独立戦争にイギリス側として参加していたわけです。『ベルサイユのばら』でフェルゼンがアメリカ行ってたのと同時期の話なんですねぇ)。
ロンドンに帰ってきて愛しのドリーを悪漢の手から救い出しても、それを恩に着せるでもなく、「いつかあなたのご主人と仲良くなって、あなたの昔の友人として会いに行ける日が来ますように」なんて言っちゃう。鍵屋と同じくらい人間の出来が良いジョー。あんな父親に自由を奪われて育ったというのに。
ジョーの父親、メイポール亭の主人ウィレット氏は、本当にいつまでもジョーを「親がしっかり監督しなければいけない幼い子ども」だと思っていて、ジョーが家出したあとに作った「たずね人」のビラには実際よりも低い身長を書き、「行方不明の少年」と書いていた。おかげで集まってくる情報は6歳から12歳の少年のものばかりだったという……。親にとって子どもはいつまでも「子ども」ではあって、おそらくウィレット氏にとってはそれが「真実」だったんだろうけど、この辺のディケンズのキャラ造型、細かくて見事。
ヒューとともに暴徒の先頭に立ってさんざっぱら悪事を働く死刑執行吏デニスの絞首刑への執着っぷりもすごいし、ヒューの最期の描き方にはついホロッとさせられてしまいます。前半でのドリーへの態度といい、断罪されてしかるべき悪党ではあるけど、「言い残すことは?」と問われてバーナビーと飼い犬のことを思いやるヒュー。
「おいらだってこいつだけは救わなきゃいかんと信ずるくらいの信仰は、あんた方の誰にも負けねえくらい強く持ってるんだ」 (下巻P481)
自分がバーナビーを仲間に引き入れたせいで、バーナビーも死刑になる。そのことに対して責任を感じ、「こいつにも、こいつの母親にもすまんことをした」って謝るんですよね。もう遅いと言えばそうなんだけど、ヒューがこんな人生を送ることになってしまったのは環境(主に父親)のせいでもあって。
「信仰なんてどこにある! この残酷で不人情で無慈悲な場所で、このおれのような生れと育ちを持った人間に、お慈悲を望めと教えてくれるものが他にあるか!」 (下巻P481)
実はヒューの父親はあの人なんですけど……。さすがにそれは話ができすぎではと思ったけど、不幸な生まれを背負わされたヒューが「子どもの俺を救いもしないで、今さら信仰がどうとかうるせぇわ!」ってなるの、胸に迫る。神なんていないし、犬ほど値打ちのある人間もいない。
「この犬の半分ほどもおいらの気がかりになる値打のある人間なんか、どこにもいやしねえんだ」 (下巻P482)
哀れだよね、ヒュー……。
ディケンズは序文で「二人の幼い子どもを抱えたたった19歳の母親が、万引きの罪で絞首刑になった」事件について記しているし、「残された子ども」であるヒュー、絞首刑に執着するデニスの描写は、もしかしたらディケンズがこの作品で一番描きたかったことなのかも。
途中の「5年の空白」や全体の展開には「?」となるところもあったけど、生き生きとした人物描写はさすがディケンズ。『バーナビー』の前に連載されて評判を取ったという『骨董屋』も読んでみなければ。
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